第四話 父親の残像
勇利の父親は元ボクサーだったと言う。現役を退き別の仕事に就き働きながら、アマチュアのジムに遊びにいくのが日課だった。勇利も毎日のようにそれについていく。親子三人幸せに暮らしていたらしい。そして悲劇が起こった。酔っぱらいの喧嘩を止めようとした父親が巻き込まれて亡くなってしまったというのだ。最悪な事にけんかしていた双方も、止めに入った勇利の父親も酒が入っていたらしい。週刊誌の見出しが見えるようだ。
“酔っぱらい、酔っぱらいの喧嘩を止めようとして転倒死。故意か偶発か。元ボクサーの真実”
勇利が8歳の時だ。
遠方に暮らす親類縁者に援助を頼める当ても無く、彼の母親は夜の仕事をするようになったらしい。今では母親と一緒に飯を食べる事すらないという。ある意味ありきたりの話しだった。
それでもその現実が彼の上に降り掛かったという事が俺にはショックだった。
17歳の彼はぱっと見た感じ明るく元気で、誰よりも朗らかで、不幸の影などまるで伺えない。
そう、きっと彼は他人には見えない傷ついたその内側を必死で取り繕ってきたのだ。
「夢にしがみついて何が悪い。」
その言葉は彼でなければ言えないのだろう。
大好きだった父親の死。すれ違う母親との暮らし。その中で唯一家族と彼をつなぎ止めているのがボクシング。だから彼の生きるという事はボクシングと言う糸にすがりつく事なのだ。
勇利が可哀想だった。彼には真実の愛情を向けてくれる人がいないのだ。
彼に良くしてやる人間は多いだろう。彼は優しく人に好かれる性格だから。でも家族の愛情というものは表面上の“好き”という事だけじゃない。真に相手を思うからこそ時には厳しく、時には辛辣になる。でもそれは揺るぎない信頼の上に有るから決して壊れる事が無い。俺はあの母親を思い出し、ほぞを噛んだ。だから彼は本当の愛情を知らないのだと。
それ故に過去の亡霊にしがみつく。
もしできるなら勇利の力になりたかった。彼にとって逃げ込めるシェルターになりたかった。彼に何も問わず、無条件で受け止められる、そんな本当の兄のようになりたいと。彼に自分を信じて欲しかった。
ぐったりと泣きづかれた勇利の携帯が鳴った。何の事は無い、母親の迎えだった。
俺は二人を家に送る事にした。
後部座席に乗り込んだ二人は親子が逆転しているようだった。幼い母親としっかりした息子。それはまるで病気の親をかばう子供のような様相だった。
母親の乱れたスカートを直しながら、勇利は彼女の肩を抱え、
「大丈夫?いま、俺の知り合いが家まで送ってってくれるって。」
そう言うと、バックミラー越しに申し訳なさそうに目配せした。
ついさっきまで俺の胸の中で泣いていたとはとうてい思われない気丈さで彼は母親を介抱していた。彼女がふぅと吐き出す酒臭いため息が車内に溢れ、勇利は瞳を泳がせながら母親を抱きしめていた。
「無理しないで。」
虚無感。なぜだろう。俺は無性に勇利の力になってやりたくて、そのくせできずにいる事に腹をたて、ハンドルを握る手に力を込めている。俺は勇利の何になりたいんだろう。
そのアパートはいかにも母子家庭が住みそうな木造の2階建てで、薄暗い1階の角部屋だった。
帰りがけ自分の連絡先を渡した。携帯番号も載っている会社の名刺だ。自宅に電話をしてくれと言えばいいものを、俺はあえて名刺を渡した。
誰と比べるではなく、自分を頼って欲しいと。
基に後ろめたい気分を振り払いつつ、俺は帰路についた。
彼がつけていたアンテウスの香りがバックシートからほんのりと漂っていた。
Pain つづく
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勿論彼女が自分で買ったんじゃ有りません。もらったんです。