第三話 憤怒
注意 未成年者の飲酒を表現する言葉が出てきますが、勧めている訳ではありません。
未成年者の飲酒は法律で禁止されています。
その頃から勇利は頻回に家に来る様になった。
俺達の父親は2年前に北海道に赴任し母親も同行した。だからいわゆる男所帯の二人暮らし。その共同生活は以外にも快適だった。高校生の基とサラリーマンの俺が日中に家で会う事は滅多に無い。その距離感が良かったのだろう。平日に騒ぐ事はしない、干渉はしない、担当の家事は責任を持ってやる。それなりのルールが有り仲は良かった。それでも俺は一応基の保護者代行として彼の生活に責任があった。年頃の高校生らしく遊びを覚え始めた基に
「騒ぐならこの家で騒げ。」
と言ったのがきっかけだったのか。
基が友人達と男女入り乱れて映画鑑賞会を開いている現場に帰って来た事も有った。キッチンから様子を見ていると、映画に刺激されたのか基と勇利が男のストリップダンサーのまねをして踊り始め、女の子達が、
「脱いじゃえ!!」
なんて騒いでいた。基はあっさりとTシャツを脱ぎ捨て、幸治君に放った。それはバレーボールよろしく栄君、井ノ原君へと回され、加藤と言う女の子の所へ落ち、後ろに投げ捨てられた。弟は舌打ちし、ジーンズのジッパーに手をかけた。
「おひねりくれたらもう少し脱ぐぞぉ。」
トランクスに手がかかりそうになり栄君が慌てて止める。
「勇利の裸も見たくない?」
基が彼のベルトを外そうとし、慌てて勇利がシャツを押さえた為にジーンズがずり落ち、黒のB.V.Dのロゴが覘く。みんなはおおっ、とのぞけり、彼は白い歯を輝かせながらおかしそうに笑っていた。さすがにそれはジョークだったらしい。
ヒップタッチで踊る二人。京子さんと言う女子のマネージャーが立ち上がり、勇利と向かい合って踊り始めると、彼のシャツのボタンの下半分をくすくす笑いながら外していった。その両手を高く上げステップを踏むと、シャツの隙間から未成熟な少年の下腹が露になる。
「勇利、えっちぃ!!」
女の子達が嬌声を上げた。
「馬鹿っ!!」
こういう場で弱腰になるのは男の方らしい。その喧噪の中、俺は彼の柔らかな姿態から目を離せずにいた。
学校行事の度に家は集会所と化した。学祭の打ち上げ、終業式、体育祭、部の試合の後。その度にメンバーは変わるが勇利だけは固定メンバーだった。
そして週末の早朝、勇利はひっそりと家を出て帰っていく事が度々有った。明け方に水を飲もうと起きた時にばったり有った彼は、つい3時間前まで騒いでいたとは思えないほどしゃんとしていて、バイクグローブ(自転車用グローブ)を手に家を出ようとしていた。
俺の家から彼の母親の働く繁華街までは車なら15分の距離だ。
はち会わせた俺たちは訳知り顔で頷き合っていた。
「大丈夫か?これからお店に行くんだろう。」
いつも気になっていた質問を投げると彼は大丈夫と笑った。
「ここからバイク(自転車)なら30分でお店に着くから。これでも平地のトップスピードが40キロは出るんだ。がら空きの公道を突っ走ったら気持ちいいぞ。それにトレにもなるし。」
そして玄関に置いてあったマウンテンバイクの後輪と前輪をほんの数十秒で外してみせた。
「こうすれば帰りにタクシーのトランクに乗るんだ。」
それから再びセットすると、軽く足を後ろに蹴り上げ自転車に跨がった。緑ががったブルーの車体が彼によく似合っていた。
「じゃあね、兄貴。お休み。」
いつの間にか俺は
“基の兄貴”
から、ただの
“兄貴”
になっていた。
それからは何事も無いように過ぎた。時々家に勇利が来ているようで、そんな日は基の機嫌が良かった。家の掃除はヘルパーさん、洗濯は基、金の管理は俺。夕飯は適当、そんな家事配分で基が時々夕飯を作る。といってもせいぜいカレー、焼きそば、キムチチゲのローテーションでそれ以外はコンビ二飯だ。でも勇利が来た日にはいつもまともな飯が列んでいた。いわゆる典型的な和食、一膳一汁三菜。ご飯、みそ汁、主菜、副菜、箸休め。
インターハイ圏内にいる基のトレーナーとして栄養管理をかねて作ってもらっているらしい。料理の半分は自宅用に持って帰っているから、作る事そのものは手間ではないという。
「ダイエットメニューだってよ。つまんねえよな。」
そう言いながら、魚の煮付けをうまそうに食べる基がいた。
そして有るときからそれが一変する。年明けと同時に登場したのが、パスタにグラタンオムレツにサラダ。冷凍のハンバーグ、ピラフにコロッケ。
彼女ができて勇利が来なくなった事は一目瞭然だった。一度リビングでじゃれ合う二人を見た事が有る。目元のくりくりした可愛い子で短いスカートから細い足が覘いていた。基は後輩だと紹介してくれたがその子は
“ふぅん”
て顔で基を見返した。
“どうして彼女って言わないのよ。”
そんな表情だった。
料理を下手だとが言わないが好みは別れるだろう。そして春になる頃には洋食屋さんの様なメニューは姿を消し、代わって懐かしい料理が週に1〜2回程度で口に入るようになった。
俺は正直嬉しかったがその反面、割り切れない何かを感じた。
夏になるとそれは加速した。3年のインターハイ直前の8月、家に帰ると毎日のように勇利のいた気配を感じた。
“晩飯有るよ。期待しといて。”
の基からのメール。
昆布だしと、味噌と、バスタオルに残ったオーデコロンの香り。
それが不快感だと気づいたのは二人がならんでいる姿を見たときだった。ソファーに腰掛けた高さの違う肩が揺れ合い、つついたかと思うと離れた。その影を俺は胸の底から沸き上がる沸々とした思いともに見ていた。
その時の俺は仮眠3時間で昨日から会社に詰めていて、いい加減疲れていた。それが原因だったかもしれない。テレビにはWBCスーパーバンタム級の試合が映し出されていて丁度判定が出た所だった。
「だから言ったろう。不用意に挑発してガード下げるからパンチもらっちまう。冷静じゃなきゃ駄目なんだ。熱くなっちゃいけない。お前も覚えとけよ。」
勇利の男にしては細い腕が、想像以上の素早さで繰り出され基の鼻ずらをかすめる。その拳を掌で受け止めひねってかわす弟。
「よっ、兄貴。お帰り。」
先に気づいたのは勇利だった。
「お久しぶり。邪魔してます。」
その声はいかにもやましい事など無く明るかった。テーブルにはビールのアルミ缶らしき物が2本ひしゃげていて。その二人が顔を見合わせ肩で笑った。
腹が立った。
「勇利君は家に帰りなさい。」
我ながら冷たい声だった。君に家にいて欲しくない、さすがにそうは言えなかった。
今まで基の為に作ってくれていた飯をさも基の彼女が作ってくれていたと思っているように話して、暗に男のお前は帰れとプレッチャーをかけた。
勇利は自分がここにいたいと思っているのになぜいけないと主張した。俺は勇利に自分の将来の為に家に帰って勉強でもしろ、そんな風な事を言った気がする。彼は明らかにむっとして、シャープな顎を俺に向かって少し引き上げた。自分にはボクシングが全てで、基の為に尽くすのは自分のボクシング人生に必要な事なのだと。彼は基の為とは言わなかった。あくまで、自分の為にここにいたいのだと言い切った。
らちがあかなかった。
俺は有無を言わさず勇利を自分の車に乗せた。あいにくの土砂降り。暗い闇の向こう、ヘッドライトの照らす先は見えなかった。
ボクシング、ボクシング、ボクシング。勇利はいつもその事を口にする。その言葉は“基”と言う名前よりも頻回で、彼はまるで亡霊に囚われているかのようだった。俺はその気持ちを彼にぶつけた。
「勇利君がそこまでボクシングに固執するのはどうしてなんだ。何か“好き”以外の理由があるはずだ。」
当たり前だが彼は怒った。俺の口調は勇利が偏屈だと言っていたに等しいのだから。そのくせ次の瞬間にはあの体をより小さくうち震わせて泣き始めた。俺は狼狽えた。あの基を叱咤し、年上の俺にも噛みつく様なこの子が泣くなんて。反則だ、女の武器だ、女々しいヤツだそんな事を思いながら、俺は彼が心を開いてくれている事を感じた。
気づくと車を路肩によせ彼を抱き締めていた。勇利は見た目よりも小さい。なるほど、これではボクサーになれないだろう。華奢過ぎた。いくら才能が有っても骨が細いのだ。そのうちひしがれた体をあやした。
彼はゆっくりと口を開いた。そして基も知らないと言う告白を始めた。
Pain つづく
勇利が乗っているのはビアンキというイタリアもののマウンテンバイク。チェレステカラー(天空色)と呼ばれる綺麗な色をしています。
勿論お高いのでもらいもの。細かいディテール大好きな廣瀬です。