最終話 Treat
6年前のあの日、人気の無くなった部屋を一人で片付けた。一番酷かったのは散らかったカップと俺の出した鼻血。絨毯には消えない染みが痕になって残っていた。元に戻ると思える余地はなく、俺は全てをゴミ箱へと突っ込んだ。その中にただ1つだけ、どうしても許せなくて、捨てられないものが混じっていた。それは基のインターハイ入賞記念の盾だった。俺の手よりほんの少し大きいだけのそれ。不思議な事にそれだけは一滴の血も浴びる事無く床に温存されていて、本当にこれが彼女に傷を負わせた物だったろうかと疑いたくなるほど綺麗なままだった。でもそれである事は確かだった。
俺はそれが食器棚の上に隠す様に飾っていた事も、8位と言う成績が基にとっていかに不本意だったかも知ってた。それから勇利がそれを基にとらせる為にどれだけ犠牲を払っていたかと言う事も。
一瞬、こんなもの欲しさの為に彼女の運命がおかしくなってしまったのかと思ったときも有った。それでも捨てる事が出来ずにいたのは、弟への愛情と言うよりも、なんと言えば良いのだろう。勇利と基の間にある複雑な友情の為だった。
彼女はあいつを
『愛してはいない。』
と言っていた。そのくせ俺でも越える事の出来ない
“親友”
という最後の盾を持っていた事も確かだった。だからそれを捨ててしまうと言う事は、彼女の
“親友だ。”
と言う気持ちを疑う事になり、結局基には勝てないと認めてしまう事になりそうで、負け犬にならない為のプライドとも言えた。だからそれを大切に磨いて手元に置いていた。いつか基に返せる日が来る様にと。
その盾を昨日彼の住む家に送った。手つかずだったワンピースと一緒に。
あいつはそれをどんな気持ちで受け取るだろう。もしかして
“蒸し返して欲しくない。”
そんな所だろうと想像はつく。散々悩んだ挙げ句、手紙は添えない事にした。だからどうして俺が送ったのかさえ分からず、さも厄介払いしたかの様に感じるに違いない。今しばらくあいつを悩ませておきたい。それは俺の中にある意地の悪い復讐だった。本当の事を言えば、二人の間にあるその
“友情”
と言うものが俺には理解不能だったのだ。だから例え彼女にその気が無くて、有るのが純粋に友情だけだとしてもそれが成立していると言うこと事態が腹立たしく、勇利の全てを取り戻したい、そんな見え透いた男心だった。
「ねぇ、基にはいつ報告するの?」
彼女の少し心配そうな声が耳元で囁いたのはつい数日前の事だった。今日が吉日で届け出をするには日和が良い、そう決めた直後の事。俺の部屋でくつろいでいる時の話しだ。彼女は伏せ目がちに俺の顔を覗き込んだ。俺たち兄弟が6年前から縁を切っている事を彼女なりに察していた様で、眼差しは探る様に向けられた。その悩ましげな仕草が俺の心を揺さぶる。
「気になるかい?」
小さく頷く体を引き寄せると
「うん。」
と遅れて返事が返ってきた。
「あんな事有ったけど、でもやっぱりあいつが親友である事には変わりないから。」
それからあの澄んだ瞳で俺を見上げ
「あいつも大人になっているからきっと分かってくれるよ。」
そう言い切った。
彼女はここに来て初めて
「実は最近基が会いにきた。」
と話してくれた。それはバレンタインの夜で、不意の事だったと。
「用件は?」
思わず口調が荒くなりそうになりそれを押さえた。
「ん・・・・。」
少し考える様に言いよどみ
「謝りたいってさ。」
彼女はうっすらと笑い顔を浮かべた。
「何が有ったか言わなかったけど、でも何か有ったみたいだった。多分あいつにも大事な人が出来て昔の事にけじめをつけたいとか。そんな所じゃなかったかな。」
その言葉を信じると同時に、結局分かりあえている二人を羨ましいと思った。
「仕事も上手くいっている様だった。だから兄貴も心配しなくて大丈夫だと思う。あいつはあいつでもの凄く頑張ってて、良い大人になってたよ。」
そう言われ、まだ話し合う決心がついていない、そんな事は言えなかった。多分彼女が考えている以上に俺たちの間に出来た亀裂は大きく、そう簡単に修復できるとは思えなかったのだ。何より血がつながっている。その情が深ければ深いほど裏返しの感情も強いのだ。それでも彼女を安心させたくて
「入籍したら僕から報告しよう。」
そう言うと、勇利がほっとした表情を浮かべた。
彼女の本当の名前が
“勇利”
では無い事を知らされたのは、いざ婚姻届を出すという役所での事だった。ごく普通のカウンターで俺の目の前で書き込まれたその文字に
「あれ?名前・・・・・?」
彼女が書いたサインは
“優里”
と有り、差し出された万年筆をすんなりと受け取れ無いほど俺は動揺していた。学校の名簿でも彼女の名前は
“勇利”
だったはずだった。
「知らなかったっけ?」
彼女は少し首を傾げた。
「本名はね、遊びの里って字だったから。」
それから戸籍の写しを俺に手渡した。
「嘘だろう?」
確かに二重線で消された彼女の以前の名前は
“遊里”
だった。一体どこの親がそんなふざけた名前を娘につけると言うのだろう。そんな俺の表情を彼女がよみ
「でしょう?」
と笑うから、彼女の持っていたコンプレックスが何となく覗いて見えた気がした。
「あまりに酷い名前だったから“通称名”で“勇利”を使う事を高校から許可してもらってたんだ。でね20歳になった時、正式に名前を変えたの。こっちの字に。」
そう言って俺に婚姻届の紙を渡した。
「優里って。ねぇ、どうしてこの名前にしたか聞いてくれる?」
彼女が甘える仕草で俺の袖を引っ張った。
「あっ、ああ。どうして?」
すると少し照れた様にうつむいて
「だって肇さんが。」
と、言い出したくせに声をひそめた。
「だって、だって肇さんが。私には優しいの“優”が似合うって言ってくれたじゃない。」
俺をつかんでいた指先にぎゅっと力が入る。その仕草に思わずここが区役所だって事も忘れ彼女を引き寄せていた。
「泣くなよ。」
と。彼女が泣き出す時にはすぐ分かる。小さく肩が揺れるから。
「ねぇ、泣かないで。」
「泣いてないよ。」
そんな彼女の声が震えていた。
「絵里子さんも喜んでくれていたんだろう、良い名前だって。」
手にした婚姻届の承認欄には先ほど書いてもらった絵里子さんの名前。そう、多分だが過去に俺と絵里子さんとの間にあったやり取りに彼女は気づいている。
それは見合いをした次の日の事だ。挨拶に行った俺と母親を残し、彼女は他の家族全員を家から連れ出してしまったのだ。まるで二人きりで打ち合わせをして欲しい、そんな感じで。その事について二人で話し合った事は無い。でも、分かってる。彼女は俺が離れなければいけない事情を抱えていた事に気ついているという事を。だから
「さぁ、行こう。」
彼女の肩を緩やかに撫で、迷う事も無く未来に足を進める事が出来る。
「うん。」
そう頷く彼女の瞳は輝いていて、俺が察している事を見通している、そう言っていた。
ロビーを抜け
「あっけなかったね。」
と笑う優里の手を握った。
「でも今から君は“木下優里“だよ。」
すると彼女はほんの少し頬を赤くした。たかが紙切れ一枚。されど一枚。ここまで来るのにどれほどの月日を要しただろう。それを噛みしめながら
「少し待っていてくれるかな。」
それは彼女に約束した話しだった。見つめる彼女の前で携帯を取り出し、数年前から知っていて一度も押した事の無いその番号を初めて押した。そしてそれは7回目のコール。
「もしもし。木下さん?基か?俺だよ。肇だ。」
少し間があって
『兄貴?』
それは思いっきり不振そうな声で、まるでオレオレ詐欺にでもあっているかの様な声音だった。その事が俺に余裕を持たせてくれた。
「ああ、その兄貴だよ。なぁ、基。今少し良いか、大事な話しだから。」
やや間延びした
『うん。』
の後、俺はゆっくりと言った。
「結婚したんだ。」
と。
「お前に一番最初に報告したくって。」
電話の向こうが戸惑っていて、苦笑いがこぼれる。
「この娘がどうしてもお前に報告したいって言うから。申し訳ないけれど、喜んで欲しい。」
しばらくの沈黙のあとの
『この娘って?』
には笑えた。
「馬鹿だな、お前は。僕が一緒になりたい人が彼女以外にいるはずが無いじゃないか。」
そう言いながら彼女の手を強く握った。その手が握り返され、じんわりと熱くなる。
「たった今、優里と入籍を済ませてきた。」
その事がどうしようもなく嬉しくなり自然に顔が弛むものの、基にとっては不謹慎かもしれないと口元を引き締めた。
「とまぁ、そう言う事だ、基。」
『ああ、そうか。』
弟の声は奇妙なほど味気なく、こんなものだのだと俺は自分を納得させた。
「ああ、そう言う事だ。じゃぁな。お前も元気で暮らせよ。」
そして6年ぶりの兄弟の会話は僅か30秒で終わりを告げ、なんとは無く沈黙を守りながら俺たちは駐車場までの数百メートルをゆっくりと歩いた。
そう、多分こんなものなのだ。幸せは誰かの犠牲に上に成り立つ、そう言う事もある。
二人で車に乗り込んだ。今日は一度彼女の実家に挨拶に顔を出し、その後は予約していたホテルで過ごす手配になっていた。助手席の彼女は冴えない表情でたった今はめたばかりの指輪を弄んでいる。
「優里。」
彼女の柔らかい名前を呼んだ。
「優里。今の君は幸せかい。」
すると曇っていたはずの表情に晴れ間がさして
「うん。」
と頷いた。俺は身を乗り出して瞳を閉じかけた彼女の唇に触れるだけのキスをした。と、その時だ。携帯が鳴り響き、俺たちの仲に邪魔が入った。
「基だ・・・。」
たった今電話を切った所だと言うのに、何なのだろう。とりあえず電話の回線をオンにしたまでは良いものの
『早く言いなさいよ!全く!しっかりしなさい!』
聞こえてきたのは耳慣れない女性の声だった。
『あっ、兄貴、俺だけど。』
それからごそごそとやり取りする気配があって、突然に
『おめでとう、兄貴!』
彼は叫んだ。
『俺、さっき言えなかったけど、嬉しい。本当に嬉しいよ。俺の尊敬する人と、大切な親友が一緒になってくれて本当に、嬉しい。もう、本当。幸せになってくれよ!!』
それはさっきまでの彼とは似ても似つかない声だった。
『勇利にもおめでとうって言ってくれ。心から祝福してるって。それから、この次会った時は“姉さん”って呼ぶから覚悟しとけって。』
彼は嵐の様に一歩的にまくしたてて電話を切った。俺はきょとんとしていたけれど、反対に優里はとても優しい顔つきになって甘える様に俺の腕に絡まった。あれだけ大きな声でしゃべっていたのだから、全て彼女に聞こえていたに違いない。
その仕草に、ああ、そうかと。彼女がどれほど俺たち兄弟の事を心配してくれていたのかが今になって分かった。それと同時に、彼女が親友だと信じた俺の弟はそれに相応しい男だったのだと妙に納得させられてしまっていた。
「基は尻に敷かれてるみたいだね。」
電話の向こうから聞こえた女性の声を思い出し俺は少し笑った。
「うん。」
それから彼女を両手で抱きしめた。
「あいつから君におめでとうって。」
「うん。」
「俺たちに幸せになって欲しいらしいぞ。」
その返事は優里が俺の胸に体を擦り付ける温かな仕草に溶け、俺の中に流れ込んだ。
そう、これが良い。彼女さえいれば良い。辛かった事も、苦しかった事も、彼女さえいれば全てが無に還る。忘れるのでも無く、積み重ねるのでもなく。ただ、彼女がいる。その事が全ての始まりだから。
Pain Fin
長い間おつき合い頂いてありがとうございます。
書いていて本当に楽しかったです。
続編・後日談 アップしました。目次にリンクが貼ってあります。よろしかったらぜひどうぞ ♪