第二十七話 スタートライン
俺は二人きりの部屋で、勇利が眠っているベッドの脇に腰を下ろしていた。見下ろす彼女に月日を感じ、訳も無く苦笑いを浮かべながら、時々蝶の羽の様にひくひくと揺れるその睫毛の長さを忘れかけていた事や、彼女の髪が艶のある直毛だと言う事を心の奥の大切な引き出しからそっと取り出していた。
自分でも分からず、どうしてだろうと考える時が有る。どうして勇利じゃなければ駄目なんだろうと。彼女の何が俺の心を掴んで放さないのだろうと。その度に答えは出せずにいたはずが、こうして彼女を目の前にしていると物の道理なんてどこかへと無くなり、訳も無く、ああ、やっぱり勇利なんだと思うから不思議だ。
しかし今の勇利からは初めて会ったあの日に俺の心を奪っていった無邪気で怖いもの知らずな輝きは失せ、うっすらと開いた口元と白く肌理細かい肌、それから僅かに吐き出される静かな寝息に、水にたゆとうオフィーリアを連想させた。その事に気づき、今さらの様に彼女の心が死にかけていたと言う事を思い知らされ、
「ああっ。」
俺は呟きを漏らしていた。
恋人のハムレットに裏切られたオフィーリア。何を信じれば良いのか分からず、死の深淵で諦めにも似た恍惚の表情を浮かべ。
俺が裏切ったんだと、そう思う。勇利が待っていると言う事を知っているはずだった。彼女が自分から我を通そうとする人間では無い事に気がついているはずだった。だからどうしても電話をくれることが出来なかったことぐらい、分かっていても良いはずだった。寂しいだとか苦しいだとか、泣き言を言う娘じゃなかったじゃないか。俺が連絡を出来ない心理状態だって思ったなら、そのまま諦めて我慢してしまう、そんな事、知っているはずだった。何しろ俺たち兄弟は目も当てられないほど最悪な喧嘩をしていた訳だから。
あの事件直後、絵里子さんがかけてよこした電話が勇利の本意じゃない事はすぐ分かった。それなのに、彼女自身の気持ちなんかちっとも考えず、大人だからと言う事だけで絵里子さんと二人だけで合意して、全てを終わらせてしまった。
せめて、せめて絵里子さんとだけでも連絡を続け、勇利がどう暮らしているか教えてもらう事位は出来たはずなのに、あの時の俺は母親への嫌悪感が強すぎてプライドを捨てられなかった。そう、結局そうなのだ。
惨めな気分だった。こんなに好きで、愛していて。結局独りよがりで傷つけてばかりで。心のどこかに彼女の気持ちより自分の気持ちの方が大きいという自負が有った。だからこそ何よりも彼女の幸せが一番だと、頭の中でばかり考え、こういう結果を産んでしまっていた。
勇利が俺に望んだ事はただ1つだった。
『信じて待っていて欲しい。』
俺は彼女の目の前で扉を閉めた大馬鹿者で、今更それが
『彼女の為だった。』
と言った所で
『はいそうですか。』
と信じてもらえるほど現実は甘くないと思っている。
もしかしてこうして出会ってしまった事がまたしても傷つける事になってしまうのでは無いか、そんな不安さえ沸き上がる。
愛している。その事が全てを解決するなんて思っちゃいなかった。
俺はこの時になって初めてはっきりとした後悔を覚えた。この6年。彼女を苦しめた。辛かった。彼女と会えなかった6年間より、彼女を苦しめた6年間が辛い。親に心配をかけたくないからと、誰でも良いから結婚しようだなんて、そんな風に生きて欲しいと思った訳ではなかったはずなのに。
それでも彼女が目覚めた時、側についていたかった。どんなに罵られようとこれ以上離れているのは嫌だった。
そのくせかける言葉に迷っていた。勇利の目に俺はどんな男だと映るだろうか。その誤解を解きたくて、それが出来ない切なさを感じた。別れの言葉も無しに彼女から離れてしまった経緯を説明する訳にはいかなかった。そう、俺なら良い。ただの独りよがりだと責められても。しかし問題は母親だった。勇利がとても大切にしている母と言う存在が彼女を裏切っていた、そう分かった時、きっと彼女は誰も責める事が出来ず、行き場も無く、また自分を責めてしまう事だろう。
『心配かけちゃったね。』
そんな言葉で。だから、言えない。知らないでいた方が良い事が世の中にはある。
混沌としながら彼女が目を覚ますまでの時間を待った。そのはずが。勇利の醸し出す僅かに甘い気配に包まれていると、俺の心の中にあったもやもやとした霧が晴れ、清明になっていく、そんな気がした。
不思議な事に勇利が今でも俺を愛してくれているという確信は有った。俺だって変わらない。むしろ深まるばかりだ。その気持ちだけを大切にしていきたい、そう思えた。だからもう一度始めからやり直そう。
成り行きでも俺達は結婚する。勇利の性格なら、母親の期待に応える為にもきっとそうする。始めは戸惑うだろう。それでも良い。本当に見合いで結婚した夫婦の様に二人一緒に暮らしながら、少しずつ、人生をやり直そう。
目覚めた気配に俺は彼女に告げていた。一緒になる事になったと。見合いの相手は俺で、もう絵里子さんも承諾してくれた。明日には挨拶に行く。二人は夫婦になる。身もふたもないほど色気の無いプロポーズだ。彼女がすんなりと俺を受け入れてくれるはずが無いと分かっていたから、時間をあげる事で逃げられてしまう事を恐れた。
しかし予想していたはずの反発は無く、ただ背中越しに勇利が泣きだした気配を感じた。いつもそうだ。勇利は俺といるとすぐに泣き出す。何度も感じたあのどうしようもない無力感と、胸締め付けられる愛おしさに支配され、
「泣かないで。」
俺は彼女の涙をなんとか拭おうとした。そのはずが。彼女は小さく首を振り、涙は泉の様に湧き上がってきた。その仕草に俺と一緒になるのがそんなに悲しいのかと疑いたくなる。
「勇利はいつも泣いている。俺と会うたびにそうだ。最後に会った時も君を泣かした。泣いてなんか欲しくないのに。」
それでも言葉も無い彼女の涙はひどく透き通っていて、俺にはまるで聖女のように感じた。
「俺には泣いている勇利の思い出しかない。思い浮かぶのは、苦しんでいる君の姿ばかりだ。」
体は勝手に動き出し、ベッドに横たわる彼女を腕の中に抱きしめていた。彼女の痛みが辛かった。彼女は俺の力に微かにもがき、逃げようとした。
「幸せな君の姿が見たいんだ。いいかい、もう一度言うから、よく聞くんだよ。勇利はこれから俺の奥さんになる。俺の為にご飯を作って、俺の子供を産んで、俺の子供を育てて、俺の最後を看取る。」
彼女がぶるっと小さく震えた。それはずっと夢見てきた事だった。そして初めて彼女と抱き合ったあの日、現実として手の届く場所に有ったはずの夢だった。
「愛しているんだよ。」
彼女の唇の先にその言葉を押し込んだ。硬直している体が俺を拒む。この6年間、勇利のいないその時間をどうして俺は独りで過ごす事ができたんだろう。俺の腕の中に、唯一掛替えの無い勇利がいる。その現実が暴れた。たった今自分が口にした夢のような未来に気が狂いそうになり
「なぁ、頼むよ。」
心の中の絶叫が俺の力を奪っていた。
「俺だって、俺だって幸せになりたいんだよ。」
彼女が不思議そうな顔で俺を見上げた。涙で潤んだ瞳は大きく見開かれ、ほんの少し首を傾げ。それからその唇の両端は緩やかに上を向き、微笑みを浮かべた。それはまるで雨上がりに差し込む陽の光の様だった。
乾いた大地が水を吸い込む様に、勇利は俺の気持ちを吸収している、そんな風に感じた。
幸せになりたい、心からそう思う。勇利と二人で幸せになりたい。唇が触れあい彼女がさざ波の様な嗚咽を漏らした。
「もう、泣かないで。」
彼女の髪を梳くとその感触はまるで違う人の物の様だった。俺は短い髪の勇利しか知らない。それでもなぜか、今俺の腕の中にいる勇利こそが本物の勇利だと思えた。その自分の手が濡れていて、俺はやっと自分が泣いている事に気がついた。
彼女の腕が恐る恐る俺の背中に回り小さくしがみつく。そのぎゅっと握りしめる感触に、決心をしてくれた勇利に、感謝した。
二人で乗り越えなければいけない壁がある。話し合わなければいけない事も。でもそれは後に回そう。
「もう二度と放さないから。」
今はこの瞬間を大切にしたかった。
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