第二十六話 決戦
名前の表記で 勇利 優里 と紛らわしい点が有ります。
両方とも ゆうり と読み、同一人物です。
ストーリーの展開で主人公の名前が変わっています。
勇利は俺の胸で半ば気を失いかけた。その事が俺を現実に戻した。何しろその瞬間の俺は彼女を連れ去る事で頭がいっぱいだったのだ。
「大丈夫か?」
彼女が倒れない様に支え顔を覗き込んだ。蒼白な顔面に乾いた唇がうっすらと開き。こんな時でも彼女は綺麗だった。それは欲目なのかもしれない。ただ、特別な人って言うものはこういう人なんだと思え胸が熱くなる。とにかく今彼女を手放してはいけない。何が有ってもこの現状に食い込まなければいけないと、その事だけはひしひしと感じていた。だから
「大丈夫です。少しよろめいただけですから。」
そんな風に虚勢を張り、僅かに逃げようとする気配さえ見せる彼女を抱きしめた。疲れ弱っている勇利を休ませ落ち着かせてあげたかった。
俺は無意識に周りを見回した。後から考えると彼女の連れが近くにいたかもしれないのに、それよりも誰かの助けを求めていた。さりげなく俺たちの様子を伺っていたホテルのスタッフと目が合い目配せで彼女を呼びよせる。
「体調が悪い様なので、部屋を用意してもらえますか。」
俺はこういう場所で金持ちがよくする仕草でやんわり命じていた。
ここで彼女がいなくなったら一緒に来ているはずの親族が騒いで大事になる、その危険が頭をよぎった。
「お連れ様はお加減がすぐれないのですか?」
つられてやってきた他のスタッフの心配そうな笑顔。俺は誰よりも絵里子さんに弱みを見せる訳にはいかなかった。
「ええ。この子は知り合いなんですが、たまたまここで見かけましてね。体調が悪そうなので引き止めたんですよ。」
勇利が俺から離れようと掌を押し付けるから、その背中を軽く叩き俺はスタッフに笑ってみせた。
「彼女の名前は山口勇利さんで、もし彼女を捜す人がいたら木下の部屋で休んでいると伝えて下さい。」
彼女の掌がやんわりと丸くなり、その体がそっと俺に寄り添った気がした。とその時、
「優里ちゃん?どうしたの?」
慌ただしく俺たちの方向に走って来る足音が有った。笹川さんは一瞬息を詰め、ため息のあと大きく首を横に振り、
「部屋、とってあるから。」
とルームキーを持って来たスタッフを追いやった。
足下のおぼつかない勇利に
「僕が運びますから。」
それは笹川さんに言った言葉だった。
「そうしてもらえる?」
自分の体のバランスすら上手くとれない勇利を抱きかかえるのには少し手間がかかり、笹川さんの手が必要だった。それでも勇利の体はころんと俺の腕の中に収まった。
「重いね。」
6年前、彼女をこうして自分のベッドまで運んだ。あの時の記憶は有っても、その重みはどこかへ消えていた。だからこそ今こうして感じるずっしりとした感触が嬉しかった。勇利は何もしゃべらず
「重いのは着物。」
彼女の草履を持った笹川さんが口を尖らせた。
ぐったりとする彼女を部屋まで運び
「お着物脱いだらずっと楽になるから、もう少し頑張って。」
勇利を立たせたまま慣れた手つきで笹川さんが着物を解きほぐす。彼女はなすがままに俺の胸に体を預けていて、身に付けている鎧が剥げていくみたいに彼女の体も弛んでいくのが分かった。笹川さんのちらちらとした目線が時折俺に向けられる。
もう解っている。見合いの相手は勇利だ。
笹川さんがモゴモゴと勇利にその事を告げると、彼女はまるで子供のように緩やかに泣きだした。足下には豪華な衣装が散らばり彼女は白い布を身に纏っただけの姿でしばらく俺のジャケットを握りしめ続けた。その手が解けた時
「少し、休もう。」
俺はようやっと口を開く事が出来た。本当は艶かしいはずのその姿なのにまるで薄羽蜉蝣みたいにどこか飛んで消えてしまいそうだった。
彼女を抱いたまましばらくベッドに腰掛けあやす様に揺れていると、泣き疲れたのか緊張が解けたのか、柔らかな両腕が俺の背中に絡み付いた。それから
「これは夢だね。」
って呟いて俺の腕の中の勇利は静かな寝息を立て始めた。
彼女をベッドに寝かせ、俺はリビングスペースで時々様子を伺っていた笹川さんの所へと移動した。
「もの凄いサプライズですね。」
それは皮肉のつもりだった。
「俺たちの事、知っていたんですか?」
彼女は軽く視線を泳がしたあとに頷いた。
「何となく、ね。ピンと来るものが有って。多分二人とも想い合っているのに、無理して別れたんだろうなって。ほら、優里ちゃんはあのとおり我慢する子だし、肇ちゃんは肇ちゃんで大人ぶるのが好きだから。二人とも相手の事ばっかり大事にしすぎて、一番大切な事犠牲にしたんだろうなって、見えたんだよね。」
その声は小さかった。本来ならば胸を張ってキューピット自慢をするはずの彼女なのに、この時ばかりは倒れた勇利が心配だったんだろう。
「この調子じゃぁ絵里子さんも見合いの相手が僕だって知らないんじゃないですか?」
案の定彼女は首をたてに振った。
「そう、言ってない。彼女には好条件だって事ぐらいしか。肇ちゃん知っているかどうか分らないけど、彼女複雑な人だから、何となく言わない方がいいかと思って・・・・」
そう言葉を濁した笹川さんをさすがだと思う。
「それに二人とも大人だから、他人が入るんじゃなく、自分たちの事は自分たちで決めるのが良いって。でしょう?私はあくまで引き合わせるだけで。」
俺は頷いた。
それから笹川さんは勇利の近況を語り始めた。絵里子さんが再婚した事、それによって義父の家でその子供達を含め5人で暮らしている事、いずれその家を出なければいけないプレッシャーを勇利が感じていたらしい事。それから
「優里ちゃんには内緒って言われてお母さんから何度も相談受けていたのよ。誰か良い人はいませんかって。
“女の幸せは結婚だから”
って言われてね。とにかく真面目で、収入が安定していて堅実な人だったら頭を下げるからもらって欲しいって。その言い草が
“誰でも良いから”
って言われているみたいに聞こえてね、伊達に優里ちゃんが良い子だから、反対に誰も紹介できずにいたのよ。」
俺はそんな言葉に苛立を感じた。結局あの母親はあの母親のままだったのだ。あまつさえ自分が再婚し彼女を厄介払いしようと企むなんて。せめて
“勇利を大切にしてくれる人”
そんな言葉さえ言えない様な女なのだ。
「娘が平凡で良いから家庭を築いて幸せになって欲しいって親心、分からないでもないんだけど。」
なんて言う笹川さんの言葉なんか響く訳も無く。俺は思わず身を乗り出していた。でも分かってる、敵は笹川さんじゃない。それに今の俺達は13・15のロミオとジュリエットじゃなかった。
「それじゃあ、見合いが上手くいったと母親に報告してください。俺さえOKだったら、本決まりなんでしょう?」
と彼女の携帯が入っているはずのバックを指差した。
「早く。」
慌てて彼女は電話を取り出した。
「最後に僕からも話します。」
俺はためらいがちに画面を操作する笹川さんを見つめていた。そのつもりは無いものの、知らず知らずのうちに顎が引き締まってしまう。二度とあの女の元に勇利を帰す事すら許せなかった。
すぐにつながった電話に笹川さんは簡潔に見合いが上手く言った事を話した。携帯の向こうから絵里子さんのはしゃぐ声が聞こえ、
「それじゃあ見合いした相手の男性と代わりますね。」
という目配せを受けそれを手渡された。
「もしもし、電話代わりました。」
勝負だと思った。
「木下です。」
彼女は俺の声に気づかない。
「ご無沙汰しております。木下肇です。本日見合いをさせていただきました。」
電話向こうが一瞬静かになった。
「ぜひこの話しをお受けしたいと思います。僕が、勇利さんを幸せにします。」
その意味が彼女に伝わっただろうか。
「明日、正式にご挨拶に伺います。」
本当はののしってやりたかった。本当なら勇利は今頃幸せになっているはずだったのだから。壊れた親子の関係を取り戻し、苦しむ事無く本来の女らしい人生を送り、彼女の愛情にふさわしい生活をしているはずだった。その約束を保古されたと思った。
「ああ、ああっ。」
小さな揺らぐ声のあと、しばらくはテレビの音の様な雑音が聞こえていた。それから
「まさかこんな事が。」
その声は小さく聞こえた。それからきっぱりした口調で
「優里の事、幸せにしてやってください。優里は本当に心の優しいいい子なんです。だからお願い。優里を幸せにしてあげてください。」
そう彼女は早口で言っていた。
俺には人の心が解らない。あの時は単純に嫉妬だと考えていた感情は、何だったのだろう。純粋に愛情だ、なんて言われたって、解かるものか。
何も話せなくなった俺から笹川さんは携帯を取り上げた。会話をしている所を見ると、俺よりも絵里子さんの方が冷静らしい。なんて、笑える。
「チエックアウトは12時。」
携帯がぱちんと閉じる音で俺は我に返った。
「優里ちゃんは今晩預かるって言っといたから。絵里子さんもそうして欲しいって。」
笹川さんは落ち着いた笑顔で
「積もる話しも有るでしょう。今度こそ逃げられない様にしっかり捕まえとくんですよ。」
そう言って優しく俺の肩を叩いた。
Pain つづく