第二十三話 オトナコドモ
家に帰った俺は基の残していった物を淡々と片づけた。中学の頃のノートだとか、古びたプラスチック製の縦笛だとか。もうゴミと言っても良い様な代物ばかりのその中にそれはあった。茶色い染みの残る真っ白いギフトボックス。あの運命の日、長い間玄関に放置されていたその影を俺はぼんやりと覚えている。
それは大きさの割にはとても軽く、揺すってみると中でカサカサと薄紙が擦れる音が聞こえた。きっちりとかけられていたピンク色のリボン。ブランドもののマーク。箱の一部がぶつけたかの様にひしゃげていて。誰にあげるつもりで買ってきたものか、それは誰の目にも明らかだった。それをゴミの袋の中に入れるべきかどうか迷っているその時、ひらりと箱の隙間から何かが落ちた。青空に桜の花びらの舞うメッセージカードだった。恐る恐る拾い上げ中を覗くとマジックで書いた様なまっすぐな文字で
“ゆうりは一生の宝物。愛している。基”
あいつの心が映し出されていた。
見るつもりは無かった。その箱の中身は俺が見ても良いものじゃないって。でもカードのその言葉の重みを感じ、あいつがどんな思いでこれを捨てていったのか、それを知る事は今の俺には責任の様に感じた。
リボンにハサミを入れる事は出来ず、十字をずらして外す。箱は横から開く封書タイプで、ほんの少し傾けただけで中身は飛び出してきてしまい、慌ててキャッチしたそれは案の定特別なものらしく薄い紙で包まれていた。そのセロハンテープを外した。上手く剥がせず、びりびりと紙の破ける音が部屋に響いた。
「済まん。」
俺はその紙に向かって謝っていた。これは基のものだから。傷をつけるのは反則だって。
中に入っていたのはきちんとたたまれた青いデニム素材の服だった。いつも勇利が好んで着ているシャツカラーのボタンフロント。でも何か様子が違う。思わず持ち上げて広げて見ると、それはワンピースだった。細身の上半身に裾がすとんと落ちたシンプルなスカート。丈は短すぎず。丁度あの子の膝丈ぐらいだろうか。これなら日頃女の服を着ない勇利でも抵抗が無いだろう。それに、よく似う。
これを着た勇利を想像する基の姿が目に浮かぶようだった。
あの日、基は全ての望みを手に入れたつもりだったんだ。決して楽ではない大学の入学を決め。ずっと好きだった彼女との将来を夢見て。
家に帰ると勇利が玄関で待っていてくれると期待して弾みながら道を急いだに違いない。
『おめでとう。さすがに俺の旦はんだなぁ。』
なんて褒め言葉をもらえると信じて。それからこの箱を渡す。きっと勇利だったら戸惑うに違いない。自分がもらうものではないからと。基はそんな彼女にプレゼントの意味を説明する。
『自分へのご褒美。』
愛した女性としての勇利から祝福を受けたいんだと。きっと彼女は照れて首を振るに違いない。そこを笑いながらごり押しする
「頼むから、着てくれよ。一生のお願い、な、勇利。俺にとって特別な日なんだから。」
あいつの懇願の声が聞こえるようだった。
彼女がその箱を受け取り、カードを見て。それでもこの服を身につけたら。彼女は基の一生の宝物になると答えたも同然だったから。
半年近い期間、彼女に触れず、自分の誠意を示し。その想いがやっと報われると信じて疑わなかったに違いない。
あの日俺にくれた電話の
『驚かす事がある。』
それがこれだって直感した。キレイに女らしくはにかむ勇利の手を引き、俺の前で
『婚約者。』
なんてふざけてみせるつもりだったに違いない。それから緩やかな胸の膨らみに唖然とする俺を笑い飛ばす。何しろ俺はアノ瞬間まですっかり彼女を男だと信じていたんだから。
疑う事無く基にとってバラ色の一日になるはずだった。それなのに。
『普通の恋人同士みたいにデートしたり、学校の帰りに手をつなぎ合ったり。みんなにからかわれながら歩いたり。』
俺の耳元で囁く様に吐き出された彼の言葉が鮮明に蘇り、平凡な幸せを夢見ていたその心がナイフのように突き刺さる。
同時に、基とにらみ合った勇利の言葉を思い出し、二人の間にあった溝に身震いしそうになった。
『結局抱くのが目的だったんだから。俺達は愛し合って抱き合ったんじゃない。』
その一言で二人の間に有った協定を理解した。勇利は基がボクシングに集中する事ができるよう、彼女の何もかもを提供していたのだ。挙げ句に基の気持ちに気がつきながら、ご褒美の人参代わりに彼の鼻先にその躯を置いて。
もしかしたらそんな彼女は汚いのかもしれない。でも、俺にはそこまでせざるをえなかった追いつめられた勇利を理解できた。だから、汚いなんて思えない。むしろ辛くて仕方が無い。彼女の身を切るような痛みが解るから。勇利は基の気持ちに応えられないと分かっていて抱かれていた。だからこそ自分をダッチワイフに例える事で心と躯を切り離そうとしていたに違いない。それはとても馬鹿げていて、出来ると考えられる方がおかしいって言うのに。
そんな二人の幼さに俺はつけ込んだ。想像もしていなかった好機に乗じた。待つべきだったのに。二人がお互いの関係を乗り越え、大人になるまで。基が勇利への気持ちを整理し諦めがつけられるまで。そして勇利が感じた基や自分への憎しみや嫌悪を水に流し、自分自身を許してあげられる様になるまで。
一つ一つの過程を通過し、大人になるまで。
そんな俺が一番子供じみていた。
目的地にいち早く着こうと考え無しに最短ルートを選び、樹海に踏み込んだも同然だ。
後悔なんて、したくはないのに・・・・。
しばらくして俺は土地を離れた。彼女からの電話は一度たりともならず、勇利の中の必要上位に自分が入っていないと確信する事怖さに、その時の俺は逃げたのだった。それでも未練は残っていて、もし連絡をくれるとすれば携帯に電話をかけてくれるはずだからとあの当時の携帯は今でも大切に持っている。あの頃は機種変更をすると番号も変わる時代で、新しくした携帯といつでも肌身離さず二つ持ち歩いたものだった。それから元々両親のものだった自宅は貸しに出し、電車で2時間離れた都心にマンションを借り、もうこの産まれ馴染んだ場所には二度と戻らない、そう決めた。
せめてもと願うのは、勇利達親子の幸せ、ただそれだけだった。
基との仲には希望を持たない事にした。謝って済む問題とそうじゃない問題が有る。俺の謝罪はむしろあいつを傷つける事になるだろう。謝るぐらいならば、最初からしてはいけないのだ。だから俺は絶対に謝る事はできない。それが俺なりのけじめだった。
そして俺は大切だったはずの弟を忘れ、家族を捨てた。
Pain つづく
基の気持ちは兄貴が想像したそのままのものでした。