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Pain  作者: 廣瀬 るな
19/28

第十九話 覆水の痕

 顔を上げたそこには、まだ帰ってくるはずのない基が立っていた。俺は自分たちの事に夢中になり過ぎていて、いつから基が見ていたのかさえ知らなかった。

 思わず息を吸い込み、放しかけていた彼女を引き寄せた。基の視線が不思議そうに彼女の胸元を這う。そこには俺がつけたあからさまなキスマークが点状出血になって浮き上がっていて、思わず彼女の襟をあわせ、基の目から隠していた。

 それを見つめる彼の表情は気味が悪いほど穏やかで、むしろ笑っているかのように見えた。そのくせ冷えた廊下から流れてくる冷気以上に彼の纏う空気は凍り付いていた。

 どんな事が有ろうときっちりけじめをつける覚悟は有った。俺の事ならどう罵倒されてもいい。一生恨まれても悔いは無い。その覚悟で勇利を愛した。弟にしてみればこれは

“不義”

で俺は

かたき

だ。

 だからこれはむしろ望む結果だったのかもしれない。

「話がある。」

勇利に決着を付けさせるつもりはなくなっていた。俺の中にいた彼女の体が小さく震えその腕が俺にしがみつく。決して人には弱みを見せない勇利が俺に助けを求めていた。

 基の顔が蒼ざめる。勇利が俺を選んだ事は誰の目にも明らかだった。

 だからこそ彼女の代わりに俺がきっぱりと基に引導を渡さなければいかなかった。


 いつだってそうだったんだ。俺の胸に抱かれているときの勇利は、ひとりぼっちで寂しくて、強さを取り繕うその傷付き易い本体だった。


「離れろ。」

基が動いた。

「離れろって言ってんだよ。」

油断した訳じゃない。でも勇利はあっけないほど簡単に俺から引きはがされた。それほど基の力は強かった。

「何やってんだよ、勇利。」

その声はなんだかおかしそうだった。そのくせ彼女を掴む手は離れない。

「お前、俺の女だろう?」

我にかえった勇利は、基の腕を、パン、と弾いた。

「放せ!!」

二人がにらみ合った。俺は立ち上がると勇利を抱え後退した。彼女はそれさえも振り払った。

「俺はお前のものなんかじゃない。第一、基は俺の気持ちなんかおかまいなしだったじゃないか。結局抱くのが目的だったんだから。だからいっその事、ずっとダッチワイフのままでよかったんだ。それなのに、何を今更。恋人みたいなふりは止めてくれ。俺達は愛し合って抱き合ったんじゃない。後悔しないって言ったのは、お前の方だ!!畜生!大嫌いだ!!」

見る見るうちに蒼白になった基は、大きく目を見開いたかと思うと、いきなり表情を無くし、小さく唇を振るわせた。

「止めろ、勇利。」

俺は暴れそうな勇利を必死なって押しとどめようとした。

「止めるんだ、勇利。」

基の様子がおかしい事に気づかないのか?感情の離脱した能面の様なその顔。限界値を振り切ったとしか思えない男の顔。悪い予感がする。今は話し合いの場じゃない。

「逃げろ。」

俺は彼女の体を反転させ玄関の方へと押しやった。とにかく彼女を守りたかった。勇利の髪の毛1本でも傷付いて欲しくなかった。この場に彼女がいてはいけない。それは本能だ。

 近づく基の目にさえぎる俺は映っていない。

「待てよ、基。しっかりしろ、落ち着け。」

押しとどめようとする全力の俺の腕は堅い基の体を確かに捕まえているはずだった。しかしそれはまるでたいした効果ではないかのように彼は動じず、アンドロイドのような瞳がゆっくりと巡り俺を見据えた。

「落ち着いてるよ、兄貴。」

その右拳が下から突き上がりどぅと鈍い音が俺の胸郭に響く。痛みよりももっと、血流が変化し頭の側面が割れるかと思った。

「兄貴は何にも分っちゃいないってな。俺は、本気だったんだ。俺がどれほどこの日を待っていたかなんて。」

俺の胸に当たっている拳が上を向き、ねじり込む様に力が入る。俺は立つ事もままならず、それでも足を踏みしめた。

「どれほど勇利が好きで、それでも愛しているって言えずにいた俺の気持ちが、どうして兄貴に分る?普通の恋人同士みたいにデートしたり、学校の帰りに手をつなぎ合ったり。みんなにからかわれながら歩いたり。何一つ許してくれなかったのは、勇利じゃないか。愛しているって、言わせてくれなかったのは勇利の方じゃないのか?ダッチワイフだなんて、勝手に決められて、俺がどんなに苦しんでいたか分るか?俺が欲しかったのは生身の勇利なのに。それなのに、どうして今更兄貴なんだよ。なに横からしゃしゃり出てきて、俺の勇利を盗って行こうとすんだよ。」

耳元で囁かれるその声は殺気さえはらんでいた。

「よせ、基。」

俺に鋭い一撃を加えたその腕を勇利が掴んだ。何かを言いかけた勇利を基がさえぎる。

「よせだって?」

彼の動きはスローモーションのように見えた。しかし実際は恐ろしく素早く、俺の手の届かない所まで移動した。

「なんでだよ!!!」

その両手で勇利の肩を鷲掴みにし、揺すぶった。

「なんで!?どうしてだよ!!」

彼女の頭が前後に大きく揺れる。人の体がこんなにも曲がるとは思えないほど、首だけが大きく揺れた。その姿はまるでシェイカーの中のカクテルのようだった。

「よせ、止めるんだ!!」

俺は動かない体を必死になって動かし、彼を押さえようとした。それでも基は止まらなかった。俺は殴られ突き飛ばされた。

 ほんの少しの間、ブラックアウトしていた気がする。

「勇利!」

その名前で我に返り。

「俺が嫌いになった!?ずっと一緒にいたんじゃないか。上手くいってたじゃないか。なのに、なんで今更俺の事裏切るんだよ!!なんで兄貴なんかに乗り換えるんだよ!!兄貴はお前の事何とも思っちゃいないんだぜ?なぁ、しっかりしろよ、勇利。騙されるなよ!」

 次に見た彼女の目は見開かれ、上転(白目をむく状態)していた。

「基!!」

今度こそ死にもの狂いで彼を引きはなす。勇利の体が揺れた。俺は鼻に熱い固まりを感じ、大きくのけぞると、ガラスでできたテーブルの上に投げ出された。

 勇利は反り返りながら後ろに倒れた。背中の棚が揺れる。一瞬意識の戻ろうとした勇利の目と目が合う。棚の上から何か光るものが落ちてきて、それは弧を描き彼女の顔に当たると大きく跳ね上がり向きを変えた。

 血飛沫が上がったのは、それが床に叩き付けられる音と同時だった。

「あっ・・・・・」

それは一瞬の出来事だった。


 突然全てが止まった。オーディオから流れるバイオリンの音だけが空回りし、頭の中で響いていた。そのくせ、何もかもが元通りになったようだった。


 目の前の二人は奇妙なほど落ち着いていて、病院に行こうと話し合う。彼女は吐く様な動作を何回も繰り返し、その度に

「うっ」

という鈍い音が俺の耳に届いた。それをなんとか押さえ込み、

「大丈夫だよ。」

聞き覚えのある取り繕うような口調が聞こえた。

「救急車。」

「病院。」

「顔の怪我。」

基が何度も頷く影が揺れていた。

「子供じゃないんだ。独りがいい。」

その声だけははっきりしていた。彼女は左ほほをタオルの様な物で圧迫し立ち上がり、俺たちを置いたまま何事も無かったかのように静かに部屋を出た。少し遅れて基がふらふらとその後をついて行った。


 俺は割れそうな意識の中でぼんやりと見ているだけだった。それは独り取り残された渡り鳥の様な気分だった。


 俺は止まらない鼻血を飲み込み、意識をすっきりさせるべく洗面所へと向かった。勇利はすでに家を出ていて、玄関には頭を抱えて座り込む基の背中だけがあった。


 

            Pain          つづく

皆様にお願いが有ります。

もし、もしですよ。 Pain がコミック化されたら 絶対このシーンは外せない とか

ここは絵で見てみたい! とか ここのイラストはこんな風にして欲しい とか

有りましたら、ぜひ教えてください。 お願いします。

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