第十一話 弟
この週末は基のセンター試験だった。
両親はあまり俺達を子供扱いしなかった。進路はいつでも自分で決めたし、部活でも塾でもそうだ。門限というものすら無かった。もちろん俺も基を子供扱いしないつもりだったから、彼も基本的に俺が知っておかなきゃいけない事以外話しをしなかった。
ただ俺が基を信じている事を正確に伝え、三者面談で進路相談に数回行く以外兄らしい事をする必要は無いと思っていた。
“ 体調良好、行ってきます。基 ”
試験当日のその簡潔なメモを見て、俺は本当の弟の面倒すらもまともにみていない、そう気づかされた。
その罪悪感からか、試験日程を終えた基をうまい寿司を握ってくれる店に連れて行った。年齢差があるからこそ聞いてやれる話しも有るだろうと思ったからだ。
ヤツはここぞとばかりに食った。
「珍しいじゃん。兄貴が誘ってくれるなんて。」
「まあな。」
俺は大きな穴子を一口でほおばる基に苦笑した。
本当の所、最近はどうだなんて話しかけるつもりだった。そのはずが、元気に寿司を食う弟を見ていると会話なんか必要じゃないんだと感じた。
たとえ俺がこの行き場の無い感情にはまり込み身動きがとれずにもがいていたとしても、それは基とは関係がない。俺だけの問題だ。そう、こいつはこのまま一生俺の弟だ。
この時の俺はそう硬く信じていた。
だから何とはなしに、
「受験で大変だったのにほっといたな。」
なんてごまかすように謝っていた。
中トロを頼みながら基はお茶を口に運ぶ。その熱さに顔をしかめながら、
「何言ってんだ。」
とガリを摘んだ。
「兄貴は俺の事信用して、勝手にさせてくれたじゃないか。それが一番ありがたいね。そうでなきゃ反対にここまで頑張る事出来なかったし。」
彼は笑った。
「俺は兄貴が俺の兄貴でいてくれて、本当に感謝しているよ。」
肩を並べて座る今の基は俺とたいして体格差が無い。
ついこの前までは子供だったのに、そう思う。俺はこいつが寝小便を必死にごまかそうとし、今にも雨が降り出しそうだっていうのに布団を干す姿をまだ覚えていた。
いつの間にこんなに大きくなったんだろう。
そんな基に対して後ろめたい気持ちが無い訳ではなかった。正直、大有りだ。彼は一ヶ月後に二次試験を控えている。合格発表は卒業式の次の日。彼はぎりぎり一杯の大学を志望しているからここで気は抜けない。余裕は全く無い。
俺は言い訳を繰り返す。勉強で手一杯な基の代わりに彼を心配してやっていただけだと。弟の恋人なら、俺にとっても弟みたいなものだと。その上、勇利は基の従属物じゃ無いからと。
だからもし彼がいいと言うなら、俺が彼に会う事を基だって止められないはずだ。
そしてまたあの店に行ってしまった。
何となく勇利が待っていてくれる気がした。
開け放たれた扉をくぐり店内に入ると、彼は毛布を用意してくれていて
「すまないね。」
なんて思ってもいない事を言いながらソファを借りた。
彼はいつになく疲れた様子で時々俺を盗み見た。それでもその視線は妙に可愛いもので、まるでいたずらがばれそうな子供が親の顔色をうかがっている、そんな感じだった。
そんな小動物の様な仕草に、視線が合った瞬間思わず微笑んでいた。同時に彼の顔に華の様な笑顔が広がり、俺の心を満たした。
ああ、俺はこの瞬間の歓びをもらいにここに来ている、そう感じた。
勇利が女だったら良かったのに。そうすれば迷う事は無かったはずなのに。と思う反面、もし女だったらここまで勇利の事をよく分る位置まで距離を詰めるは絶対にできなかっただろうとも思う。
当たり前のように彼の自宅で飯をごちそうになる流れになった。
今朝はおだまきを作ると言う。茶碗蒸しに饂飩が入った食べ物だそうだ。冷蔵庫から卵を取り出し手早く調理をしている姿は男子高校生というより主夫だ。
「いっその事誰かと結婚して、カリスマ主夫とか言われてテレビにでも出たらどうだ?どうせ洗濯に掃除何でもござれだろ?勇利はテレビ映えする顔だぞ。」
「兄貴の阿呆。」
彼が笑った。
「結婚しなきゃ俺には価値無いのかよ。」
「そう言う意味じゃなくてさ。その方が世間一般受けするんだよ。」
「そう言うもんかなあ。」
その時だった。台所で突然ものすごい音がしたかと思うと勇利が悲鳴を上げた。目に入ったのはもうもうとした蒸気。それから強烈な熱さ。
気づいたとき俺は勇利を後ろ抱きにかかえコンロから引き離していた。
俺の顎より少し下にある彼の髪の毛からはハーブの香りがし、それは勇利の体臭と混じって俺を刺激する。
耳の奥で心臓がなる。
彼の体は想像以上に細く柔らかく俺は腕に力を込めた。怪我は無かったかと聞きたいのに声が出ず、俺はそのまま時間を止めた。
どれくらいそうしていただろう。勇利の手が俺の手を軽く叩き俺は現実に戻った。
それは圧力鍋というヤツで、中の空気を熱で圧縮し料理するものだと言う。大きな音を立てて蒸気を逃がすらしいが、音だけだと。勇利は油断していて鳴るのを忘れびっくりしたと言い、それからもう一度火をつけ再び音が出るのを待った。
確かに、鳴ると分っていればそう怖いものではない。
それでも俺は臆病を装った。
大きなどんぶり一杯に作ったおだまきは中央部分に少し半生部分が残っているようだった。
「気にしない、気にしない。すが入るよりいいからさ。」
彼はいかにも男の子らしくはさみで中の饂飩をじょきじょきと切り、大雑把に別のどんぶりにそれを取り分けた。あっという間に半生部分が分らなくなる。俺は苦笑した。
切り昆布が固まっているのがご愛嬌って所だ。
それに気づいた勇利が箸でつまみ、二人顔を見合わせ笑った。その昆布は俺の皿へとよそわれた。
俺達はまるで切り取られた空間にいるようだった。
やがて勇利が俺の肩を揉みだす。ジャケット越しではやりづらいと上着とベストを脱がされ、冷たい手が一枚の布を隔てて俺に触れる。
その心地よさに身を委ねようとするが、油断するとひどい痛みが走る。
かなりみっともない声が出て、勇利が笑う。確信犯だと分っているが、まあ俺は大人なんだしと黙った。
緩やかな眠りに誘われかけた時、耳元に温かい風が吹いた。
「無理すんなよ。」
全身が痺れた。眠気どころじゃない。俺の頭がぐわんと鳴った。
背中を甘い手が彷徨い、俺の感覚はその部分に集中した。彼の指先からその心臓の拍動を感じるほど俺は研ぎすまされていた。
分っている。彼にそんな気はない事を。
勇利は俺を気遣って仕事をセーブしろと言っただけで、誘ってなんかいやしない。
背中に彼の額がこつんと当たり、次の瞬間、腰に添えられていた指が筋肉に食い込む。痛みのあまり悲鳴を上げる俺に
「声たてんな。」
と彼は言った。
「隣りに絵里子さんが寝てるんだぞ。」
“声をたてるな”
なんて淫媚な響きだろう。勇利、君は自分の言葉の意味が分かっているのか?
俺は初めて感じる身がよじれそうなほどの疼きに翻弄された。
基はどんな風に勇利を愛したんだろう。
抱きしめて?キスをして?それから?その細い躯を抱く?でも、どうやって?物理的な事なら分っているさ。違う。俺だってその手の知識はある。そう言う事じゃない。
どこにどうという事じゃなく、肌を合わせる?ああ、基は勇利の唇が囁く愛の言葉を噛みしめながら、彼の全てを満たしてやるのか?そして彼が自分をさらけ出し腕の中で融けていく様を愛するのか?恋人同士だから?
俺を支配する欲望と絶望感。理性は彼からすぐに離れろと言う。そのくせ、俺の体は勇利との接点を貪り、もっと彼が欲しいと悲鳴を上げそうだった。
次第に緩やかになり俺の体をなだめる様な動きを繰り返すその手。その手は俺を快楽の世界に誘おうとしているようだ。
もしも彼が俺の体に手を回したら?
もしも彼が
“寂しい”
と呟いたら?
俺は俺でいられる??・・・・いや、俺は何もかもぶち壊す。築き上げたはずの事すべてを犠牲にしてでも彼を得られるのなら、むしろ何もいらない。例えひとときの間でも彼が手に入るのなら、喜んで全てを捨ててやる。
それほど彼が欲しかった。
その指先が止まった。ためらいがちに俺から離れ、間を置く。
気づかれた。
それ以外無かった。俺の浅ましい心を勇利に知られてしまった。
二人とも息を詰めていた。
俺は逃げ出すように部屋を出た。
彼の顔すら見る事ができなかった。
俺にチャンスは有るのか、そんな事、聞けるはずが無い。
勇利の純真な心を傷つけた。彼にとって俺は恋人の兄貴だ。俺の行為を受け取るのは基に対する義理なのだ。
その癖彼は申し訳なさそうに俺の後を追って車までついて来た。丁寧に礼を言われるのが嫌だった。挙げ句に笑った。もう迎えにこなくてもいいと。
このまま車に引きずり込み誰にも見つからない世界へと連れ去ってしまいたい、そう思う男の目の前で彼はさらりと基の名を口にした。
理性がぶち切れそうだった。これを嫉妬というのだろうか。そんな俺に彼は釘を刺す。
「今度生まれ変わったら、兄貴の弟にしてくれよ。」
ああ、そうだね。もしかしたら法律改正されて上手くいくかもしれない。そうすれば君は基と一緒になれるかも知れないじゃないか。もちろん、俺はそんな署名活動に協力する気なんか一片も無いんだけどね。
君を弟なんて呼ぶのはまっぴらごめんだ!!
二度と会わない。会いたくない。彼は俺を殺す。
Pain つづく
基バージョンより えろえろシーン(?)一部抜粋
「彼女。」
投稿しました。
良かったら見てやってください。