第十話 曖昧な関係
二度と行かない、そう決めたはずだった。
だのに次の週も店に行った。
その夜も貫徹だった。一睡もせず先週発売の記事のクレーム対応をしていたのだ。
スクープは諸刃の刃。
俺はへとへとだった。
思考力が低下していたからこそ図々しく彼の所に向かえたのかもしれない。
俺はソファに座ってかいがいしい彼を見ながらくだらない事を思い出していた。
12月に結婚した親友がいた。
高校の頃の剣道部の主将で他校のライバル選手の妹とできた口だった。
彼が初めて大会会場で彼女に会った日の事を俺は覚えている。
ぽかんと口を開けて彼女に見蕩れていた。
今思えば初めて勇利に会った時の俺も同じだった気がする。
その時は縁の無かった二人だが、去年の2月、二人はライバル選手の家で再会した。
ライバルといっても所詮は仲間。
で、会った瞬間火花を散らした。
久々に面白いものが見られそうだと、俺はわざと他の男連中を酔い潰したところ、あろう事かその晩すぐに、俺達が寝静まるのを待って二人は何やら始めていた。
別に俺は上手くいって欲しかっただけで、あからさまにそういう関係になって欲しかったんじゃない。
さすがにこれはヤバいと俺は寝るに寝られなくなった。
二人は俺のすぐ横で一晩中キスを続けた。
明け方、二人が雑魚寝のリビングを離れ彼女の部屋に行った時には俺はヒステリーを起こしそうだった。
勘弁してくれ!!幸い彼はにやけた顔つきですぐに帰って来た。
ああ、そう、にやけきっていた。
ちなみに俺はそれを結婚式の2次会でばらしてやった。
肝心の二人よりもその兄の方が俺の事を怒った。
「覚えてろ!!木下肇!!」
大丈夫、大丈夫。みんな酔っぱらいだし、こんな事覚えてなんかいないから。
その浜崎と月曜日に仕事で会うはめになった。彼は警察庁勤務で報道担当官になっていた。
そいつは俺を恨むどころか引き止めて呑みに誘い、あげくに義弟の愚痴をさんざん聞かされた。
俺は義弟の友人なんだけど、そんな事を言おうものなら酒が注がれた。
人の縁という物は分らない。
基は勇利とどんな風に運命の出会いをしたのだろう。
そして俺は、俺だけが運命の出会いをしてしまったと思い込んでいる、そう納得しなければいけないのだろうか。
酒が残り足下のおぼつかない絵里子さんに肩を貸し車に乗せた。彼女はうなり、俺の胸に頭をぶつける。勇利はごめんねって顔で俺を見上げた。
勇利は出会った頃より小さくなっている気がした。
人の家にはその人の家の匂いが有る。勇利の家はなんだか酸っぱい様な懐かしい香りだ。
勇利が母親を寝かしつける間、俺は部屋を見回した。すすけた壁。二つ列んだカラーボックスに教科書と辞典とスポーツ医学の本、複数のボクシングの月刊誌。
鏡台とは呼ぶにはお粗末な鏡と箱。
ざらついた壁に大きな鏡がもう一つ。
ひどい言い方だが、よくこんな環境であの高校に進学できたものだと思う。
多分塾に行く事すらままならなかっただろう。まるでテレビで見る昭和の家庭だ。
襖から勇利の顔が覘き、俺に向かって笑った。
彼はこの生活を恥ずかしいと思わない。
言い方は悪いが、貧乏だ。貧乏はヒトの心を滅ぼす。それでも彼は負けない。
その強さに涙が出そうになる。
本当の彼は弱いのに。精一杯強さを演じる彼が辛い。
この日はよくわからない食べ物が出て来た。
「切り干し大根も知らねえのかよ。」
勇利はさもおかしそうに笑う。
豚角は知っている。ああ、君がよく試合開けの減量ご苦労様料理で基に作っているじゃないか。旨いと食う俺に
「兄弟だなあ。」
と彼はにやついた。話しによると豚のバラ肉をおからで一日煮て脂を落とし、次に醤油とみりん、酒、三温糖、塩、生姜で煮るのだそうだ。隠し味はスターアニス。
「基がこれ大好きでさぁ、作るのに2日はかかるって言ってんのに、食いたいってうるさいんだよなぁ。」
付け合わせの青菜を俺の皿に乗せた。
勇利はもしかしたら俺を通して基を見ているのかもしれない、そう思った。
彼は最近18歳になったという。お祝いをしようと言い出した俺に、彼は甘えるように背中に廻った。
「何がいいかなあ。」
さほど大きくもない手が背中を擦る。俺はとっさに基も誘って何か食べにいこうと言った。この濃すぎる空気を振り払いたかった。
彼はさりげなくそれを断った。
俺の背中をひんやりとした手が這う。
その指先が俺の事を好きだと言っていた。嫌らしい意味じゃない。
親愛の情で俺の心を探るように進められる指先。その細やかさに舌を巻く。
何かの拍子に彼は体を硬くした。多分俺がお祝いにスーツをあつらえようと言ったのが気に障ったらしい。小柄な彼にとって吊るしのスーツは売っていないはずで、セミオーダーになるだろう。それを俺が買ってやろうと言ったから。
あれですか、服を買ってあげるのは脱がせたい欲望の現れ?
自分が言ってしまったその一言に後追い立てられるように部屋を出された気がする。
他愛も無い話しのはずだった。
俺の隠している本音が飛び出していた事に彼は気づかず、特別怒った様子は無かったけれど、あの元気を取り繕う様な顔で俺を見た。
彼が仮面を付けるとすぐに分る。その
“踏み込むな“
という警告に俺は戸惑い、対等であるはずの関係が崩れる。他人行儀はうんざりだとばかり、無理矢理それを剥ぎ取り素顔を見せろと迫りたくなる。
力にものを言わせたくなる。
彼の力になりたいというその舌の根も乾かぬまま、信じてもらえる為の努力をする事無く、本心を見せてくれないと俺は愚痴を言っている。大の大人が情けなかった。
もしかしたら俺は自分が思っているほど大人じゃないのではないかもしれない。
Pain つづく