山月日記
部室の錆びついたドアを開けると、虎がいた。
先客がいるとは珍しい。
おれはいたって冷静にドアを閉めながら、虎は自力でノブを回せないだろうと計算し、ほっと安堵のため息を漏らした。部室と廊下を隔てるステンレス製のドアは年季が入っており虎を閉じ込めておくには少々頼りなかったが、いざという時には外から押さえつけておけば大丈夫だろう。
部室のドアに背中からもたれかかり、いまの光景を反芻する。
虎なんて見たのは久しぶりだ。
たしか小学生の頃、両親に連れられて動物園に行ったのが最後だった。テレビや映画では目にすることの多い動物だが、間近にするとさすがに迫力が違う。
柔らかそうな毛並みに走る機能的な黒い縞、しなやかな筋肉をまとった四肢はすらりと美しく、猫のような口元からは不釣り合いなほど凶暴な牙が覗いている。そしてなにより点のように小さな瞳孔がおれを見つめていたのが印象的だった。まるで待ちわびていた獲物がのこのこやって来たのを嘲笑っているかのような視線。
あれはハンターの眼だとおれのなかに眠る本能が告げている。
氷河の上でサーベルタイガーと死闘を繰り広げていた先祖の時代から脈々と受け継がれてきた記憶なのだろう。悠久の時を超え目覚めた遺伝子に感慨を覚えながらも、おれは頭のすみに違和感が引っかかっているのに気付いていた。
なんだろう。
なにか重要なことを忘れている。
ドアの内側から衝撃を感じ、おれは反射的に身を引いた。
金属に爪を立てる不快な音。虎が殴りつけるように引っ掻いているのだろう。気分を害したのか、外の空気を吸いたがっているのか。どちらにせよ穏やかでない。
「おい、落ち着け。暴れたって出してやれないぞ」
虎が冷静になるよう声をかけてやる。
異種間のコミュニケーションを図るのは初めてだったが、真摯に心のこもった言葉が通じたらしく音が静かになる。おれはふう、と大きく息を吐いて、ようやく違和感の正体に気付いた。
「……なんで部室に虎がいるんだ?」
あまりの超現実を目のあたりにして無意識に拒否反応を起こしていたらしい。
しかし虎の存在は疑問だ。ここはアフリカではないのだから。
いや、そんなことをいってはアフリカの人々に失礼だろう。世界中のどこだって、部室に虎が待ち構えている環境はありえない。
「……先生を呼んでくるか」
教員室に行って、部室に虎がいて大変だと説明すればいいのだろうか。馬鹿にするなと一喝、追い出される未来が見えた。
考えなおしてみよう。もしかしたらトラ猫を虎だと錯覚したのかもしれない。
模様も似ているし。
もう一度、部室を覗いてみて、誤認なく事実を把握しよう。
それでなお虎が消えないようなら対処法を考えよう。
おれは自分が論理的な帰結を得たことに満足する。問題を正確にとらえるのは重要だ。
「入りまーす」
なかにいる未確認生物を刺激しないようノックして、そろりとドアノブを引く。そこには相変わらず堂々とした虎が獲物を狩る瞳でおれを見つめていた。
「すいません、失礼しました」
虎に対しても礼儀を欠かさずそのまま静かにドアを閉じようとする。だが、虎は驚くほど俊敏な動きでドアの隙間に手を差し入れた。
「ひぃっ!」
後ろに倒れこんだ拍子に思わずノブを強く引いてしまう。
ドアは閉まりきらず、柔らかいものが挟まる鈍い感触が伝わる。
指を挟まれた人間と同じようなリアクションを虎はとった。すなわち小さく悲鳴のような唸り声を上げた。
やばい。
これは間違いなくやばい。
虎は怒り狂っている。おれだってドアに手を挟まれたら激昂する。そして苦痛を与えた野郎に対して殴りかかるだろう。今回の場合、おれが八つ裂きにされることになる。
こうなったら人間としてのプライドをかなぐり捨てて謝罪するしかない。生きるか死ぬかの瀬戸際だ。ついでに虎はアフリカにいないことも思い出した。いるのはライオンだ。それも謝罪しよう。
「ごめんなさい大変失礼いたしました申し訳ございません――」
ジャンプ一閃、土下座の体勢に移行する。
埃っぽい廊下に額をこすりつけ、平身低頭、陳謝し続ける。これほど真剣に思いが伝わればいいと願ったのは初めてだ。片思いだった女の子に告白した瞬間さえ比べ物にならないほど、おれは全身全霊をかけて謝意を述べた。
額が痛いだとか、誰かに見られたらどうしようだとか、そんな雑念はすべて斬り捨てる。
天下の王獣、虎様のお手を傷つけてしまった大罪を許してもらいたい。ただそれだけを祈って、ごめんなさいを連ねる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
「馬鹿なことやってないで頭を上げてよ」
虎様が恐れ多くもおれの後頭部を柔らかな肉球でたたく。
ぷに、という感触。いつか触った猫の肉球とさして変わらない愛らしい触感に思わず和やかな笑みを漏らす。
虎といえどネコ科の動物だ。可愛いポイントは共通しているのだろう。
まったく動物というのは素晴らしい。こんな状況であっても癒しと救いを与えてくれる。生まれた時からマンション暮らしでペットを飼う機会のかなったおれにとって、友人宅で戯れた三毛猫以来の動物との接触だった。
こんなことなら親に頼み込んで犬なり猫なり買ってもらえばよかった。ほんの一瞬のふれあいなのに、おれの心には不思議なくらい安心感が広がっていた。
「頭を上げてってば」
ドスの利いた低音が頭上から降ってくる。
これが虎の生声か。さすがに過酷な生存競争の頂点にいるだけあって威厳に満ちている。
「どうかこれまでの無礼をお許しのうえ、見逃してくださればと存じます……まだやり残していることがたくさんあるんです。彼女も作りたいし、大学に行って夢のキャンパスライフを送ってみたいし――せめてハンターハンターが完結するまでどうか……」
「何十年待たせるつもりなんだよ。いいから立ってくれよ、頼むよ」
虎の声がだんだん情けなく聞こえてくる。
というか、どうしておれは虎と会話しているんだろう。自分の手足を確認してみるも、人間らしい白い指とくすんだ革靴は変わっていない。おれが虎に变化したという仮説は払拭されたようだ。すると人語を解する虎がいるということになる。
どうやら超常的な出来事に出会うと、それを異常として受け入れるのを無意識に脳が拒んでしまうらしい。自分でもびっくりの適応力を発揮して、おれは頭を起こして虎と対面した。
「……おれ食べてもマズイですよ。脂身もないし男だし人間だし……」
「食べないし、襲わないから、話を聞いてよ。まだわからない? 僕だよ」
「そういわれても、虎の知り合いなんて他にいないし」
「だから僕なんだよ。信じられないかもしれないけど、秋庭なんだって」
「……アキバ?」
「やっとわかってくれた! そうだよ、秋庭だよ!」
「うわっ」
感極まった声で虎が抱きついてこようとしたので、とっさに身を引いてしまった。秋庭――というか虎は、悲しげに瞳を潤ませる。もし人間の状態であったとしてもおれはこいつと抱擁することはないだろう、絶対に。おれには男に抱かれる趣味はこれっぽちも無いのだから。
おれは文芸部とは名ばかりの細々とした部活に入っている。
部員はたったの三人で、主な活動は読書感想文のような活動誌を週に一度、顧問に提出することくらいだ。普段は持ち寄った漫画を読んだり、ボードゲームをしたり、他愛もない談笑に花を咲かせたりしている。
かつての先輩たちはマジメに小説を書いていたようだが、いまはその面影は本棚を埋め尽くしている文庫本にだけ残されている。その書庫も秋庭が持ち込んだ漫画に侵食され、どこかの漫画喫茶と見間違うほどの様相を呈していた。
そんな八畳半ほどの部室の中心に、立派な虎がいる。
いや、いまは立派な秋庭というべきか。元々いくらか太っていたためか、よく観察してみるとお腹のあたりに余分な肉が垂れ下がっているのが確認できた。
「うう……最初に来てくれたのが三神でよかった」
虎になって威厳は増したものの、どこか頼りない雰囲気は伝わってくる。やはり眼前の喋る虎は未知の珍獣ではなく秋庭であるらしい。
奇妙なこともあるものだ。
「お前に会ったのがおれじゃなかったら今頃動物園か保健所か。最悪、肉と毛皮になって食われてたかもしれないな。おれにとっても虎が秋庭じゃなかったら胃袋のなかにスッポリだ。お互い幸運だったな。秋庭が虎でよかった」
「そうかなあ――」
不服そうな唸り声をあげる秋庭。
正体を知らないときは恐ろしくてたまらない猛獣だったが、今となっては巨大な情けない猫くらいにしか思えない。人間すぐに適応できるものだと我ながら感心する。
「しかしなんだって秋庭は虎になったんだ。親が虎だったのか? 蛙の子は蛙みたいな」
「たぶん僕の両親は人間だと思うんだけど……なんか自信なくなってきたなあ」
「母親が人間でも、もしかすると父親が虎だったのかもな。虎と人間のハーフか、なかなか格好良いぞ」
「ひどいよ他人事みたいに……」
「他人事だしな。いや、他虎事か?」
「三神、面白がってるでしょ」
「そんなことない。大親友の一大事に全力を尽くす所存だ」
秋庭は信じていないということを示すように力なく首を振った。
そのとき、軋んだ音を立てて部室のドアが開いた。我々のささやかな部室に鍵は取りつけられていない。不用心なことこの上ないのだが、学校側の方針とあっては仕方ない。どうも学校に私物を持ち込んでいる姿勢が気に食わないらしい。生徒の自主性をもっと重んじてほしいものだと思う。
学校側から目の敵にされているバトル漫画でいっぱいの部室を訪れる人は、あとひとりだけ。文芸部の紅一点にして、秋庭の幼馴染でもある宮永が、虎を目の当たりにして立ちすくんでいた。
制服のスカートが膝上でチラチラ揺れる。勝気な面貌は影を潜め、長い睫毛を上下に動かしている。化粧っけのない頬は健康的に日焼けして、第二ボタンまで開けられたワイシャツとの対比がまぶしい。
信じられないものでも見てしまったというようにおれと虎を交互に注視し、宮永は小さく声を漏らした。
「あちゃー、マズったな」
「虎なら心配いらないぞ。こいつは秋庭だ」
「そうだよ宮ちゃん、信じられないかもしれないけど僕だよ。宮ちゃんならわかってくれるよね」
秋庭が猫なで声ならぬ虎なで声で語りかけた。
巨躯の動物が人間をなだめようとしている光景は非情に奇妙だ。奇妙なのに宮永は動じない。おれが部室を開けたときのリアクションとは正反対に凛と屹立している。
「やっぱり秋くんか……なんでアンタはこう、いつもいつも、間が悪いかなあ。いつだってそうなのよ、わたしが何かしようとすると事前に察知したみたいにナチュラルに妨害してくるの。だから高校生になっても彼女のひとりもできないわけ。わかる? 反省してる?」
ショートカットの茶髪を乱暴に掻きながら唐突に説教をはじめた。
秋庭が宮永に怒られるという構図は一週間に十回は目にしているので、またかという印象しかない。気の済むまで叱りつけたあと秋庭がジャンピング土下座するなり、焼き土下座するなりして決着がつく。それまでおれはのんびり漫画を鑑賞している。普段ならば。
しかし今日は事情が異なっていた。
おれは口をとんがらせている彼女をなだめる。
「まあまあ、秋庭だって虎になりたくてなったわけじゃないだろうし、許してやろうぜ」
「……秋くん、部室に置いてあったわたしの本を勝手に読んだでしょ」
「えっと――」
目線を泳がせる虎に宮永がすばやく詰め寄った。毛を逆立たせて身をすくめる秋庭。人間と虎の力関係は完全に逆転しているようだ。
「わざわざ読まないように『日記』てカバーを付けといたよね。三神のと間違われないように可愛いリボンも。アンタはそれを承知で覗き読んだわけ?」
「ご、ごめん。でもまさか虎になるなんて……」
「因果応報って言葉知ってる? 人の日記を読んだら虎になる。これは自然の摂理なの」
さすがに違うと思う。
ヒートアップする宮永はどうやら原因を知っているらしい。彼女のいう件の日記は開きかけのままテーブルの隅に置かれていた。本とテーブルの隙間からはピンクのリボンがはみ出ている。可愛らしくデコレーションすれば女子っぽく見えると判断したのだろうが、おれにはよく理解できない。
むしろ読んでくださいといわんばかりの存在感だ。単純に宮永の作戦ミスといえる。どこか抜けているという点で宮永も秋庭も共通しているらしい。
さすがは幼馴染、性格まで似かよるということだろう。
「その日記とやらを読むと虎になるのか? おれはてっきり秋庭の臆病な自尊心と尊大な羞恥心のために変身したものだと」
「秋くんにあるのは臆病なハートと尊大な脂肪だけでしょ。そのくせ他人の日記は読むんだから信じられない」
「うう……僕が悪かったから元に戻してよ。虎のままじゃ学校から出られないしゲームもできない――死ぬより辛いかも」
「常々ニートになりたい、働きたくない、ヒモになって暮らしたいって願ってたんだからちょうどいいんじゃない? 動物園に行けば寝てるだけでも生きていけるし」
宮永の言葉は辛辣だ。
必要以上に秋庭に対して怒っているようにも見える。日記――というか日記ですらないもの――を読まれたことがそんなに重大な意味を持つのだろうか。
「おれも読んでみていいか、これ」
リボンの付いた、ハードカバーほどの大きさの本を指さす。
宮永はすこし逡巡していたが、本を閉じて胸に抱えた。たしかに表紙には丸い文字で日記と書かれている。秋庭のようなやつが見かけたら好奇心からつい開いてしまいそうなデザインだ。おれだって多分そうしただろう。
「わたしから説明する――」なぜか耳を赤く染めながら文芸部の少女は、「この本はちょっと特別な力を持っている。いわゆる魔法の呪文がたくさん書かれてる。具体的にいうと最初にこの本を開いた人間を虎にしてしまう魔法とか」
「つまり、魔導書みたいなもんか」
眉唾ものの話だが現実に秋庭が虎になってしまったのだから信じるほかない。
世界には珍妙な書物があるものだ。
「そうね。わたしも最初は胡散臭いと思ってたんだけど、いくつかほかの術を試してみて成功したからこれは本物だって確信したの。今回は虎に変身する魔法だったけど」
「で、なんでそんな危なっかしい魔法をかけて部室に放置したんだ。大切に保管しておくものだろう」
「あの、その……」
いい淀んで顔を上気させる。熟れたサクランボを思い起こさせるほど真っ赤だ。ここまで顔色をおかしくした宮永は見たことがない。
不覚にもちょっと可愛いと感じた。
もとから顔立ちは整っているほうだが、言動のせいで相殺されていた魅力が復活している。恥ずかしがる女子はいいものだ。
「魔法を解くには、方法がふたつあって」話題をそらされた。しかし、宮永の歯切れはよくない。「どちらも、その、白雪姫みたいなことをするんだけど」
「リンゴを食べさせるのか」
「違う、そうじゃなくて」
「も、も、もしかして、チュウするの? チュウ?」
ネズミみたいにうるさいやつだ。秋庭が口にするとなんだかおぞましい単語のように聞こえる。
宮永はこくりと頷いた。
「誰でも魔法を解けるわけじゃないの。資格があるのは虎になってから最初に出会った人物と――」最悪だ。嘘だといってほしい。「魔法をかけた人物だけ」
「ととと、ということは、三神か宮ちゃんが僕にチュウするってことだよね、そうだよね」
「断固拒否する。ビルゲイツが全財産を譲るといっても拒否する。たとえ地球が滅びようとも拒否する」
「ととととっと、ということは、宮ちゃんが僕にチュウするってことだよね、そうだよね」
虎の鼻息が俄然荒くなっている。
なんというか、本当に気色の悪いやつだ。虎の姿でよかった。人間のままだったら殴り倒しているところだった。
いや人間のままならキスする必要性もないわけだ。原因を作った張本人が責任を取るのが道理というものだろう。
「宮永、あとは任せた」
「……やだやだやだやだ絶対に嫌! 男同士でいいじゃない、喧嘩したらキスして仲直りするのが男ってもんでしょ」
「どこぞの芸人といっしょにするな。宮永も幼馴染だろ、そのくらいしてやれよ」
「宮ちゃん幼稚園のとき結婚する約束したよね。僕いまでもちゃんと覚えてるよ」
いやらしいタイミングで秋庭が口を挟む。
こいつ狙ってやってるんじゃないだろうか。心なしか口調も嬉々としているし。
「あれはもう時効! というか本心じゃない!」
「結婚するならいずれキスもする。遅いか早いかの問題だ」
「わたしのファーストキスが秋庭だなんて絶対にムリ!」
「おれだってムリだ」
宮永と激しくにらみ合う。本気で嫌がっているのか彼女の瞳にはうっすらと光るものが見えた。泣くほど嫌なら怪しさ満点の魔導書なんて持って来なければよかったのに。
虎になった秋庭とキスをする意味合いが男と女では大きく違ってくるのはもちろん納得できる。
しかしおれとしても秋庭がファーストキスという悪夢はなんとしても回避したい。ここで同情して口付けしたら、一生後悔することになる。
「僕は、宮ちゃんが相手でも、全然構わないよ」
だらしなく口元を歪めている秋庭には、先ほどまでの威厳は微塵も残っていない。驚いて腰を抜かしたのが馬鹿みたいだ。
「アンタが構わなくてもわたしが構うの! あーもう、なんでこうなるかなあ!」
「そもそもどうして魔導書なんて持ち込んだんだ。学校に持参するのはリスキーだろうに」
「それは! 色々事情があって……」
尻すぼみになっていく宮永の言葉は最後まで続かなかった。
なにか後ろめたいことを隠しているようだ。事態の速やかな収束を図るため、おれは追撃を決断した。
「だいたい虎になるなんて物騒な魔法を仕掛けた理由はなんだ。そしてあえて部室に置いた理由はなんだ。誰かを陥れるつもりだったのか、それで秋庭が運悪く被害者になっただけなのか?」
「…………」
「秋庭はなにも悪くない。それなのに、虎として一生を過ごせだなんて可哀想じゃないか。おれか宮永か、答えはふたつにひとつしかないんだ。おれが断る限り、宮永がやるしかない」
「……じゃあ、キスしてよ」
「なに?」
「三神がわたしにキスしてくれたら、秋庭の魔法を解くっていってるの!」
恥ずかしい台詞を打ち消すように大声を上げる。
おれはたっぷり三秒かけて彼女の発言の意味を理解する。と同時に、全身の血液が顔面に昇っていくのを感じた。
「なにを、そんな……」
「最初のキスは好きな人とするって決めてるから、だから……」
宮永はきっとおれより赤くなっていると思う。
色白な肌はすっかり茹で上がり、おれの瞳を射抜くように見つめている。強い意志のこもった瞳孔に映った自分の表情がわかりそうなくらいの距離だ。このまま瞼を閉じれば唇に柔らかい感触を覚えるだろう。しかし爆音のごとく高鳴る鼓動がおれを慎重にさせた。
「もしかして、あの本でおれを虎に変えるつもりだったのか」
硬い仕草で首肯する宮永。
彼女の指先は怯えるようにスカートの端を握っている。
「――三神を虎に変えて、わたしが最初の目撃者になれば、って思って……」
「それなのに、秋庭が来てしまった」
「いつもは三神が一番はじめに来るよね。それでわたしが次で」
「最後に秋庭。それで部活がはじまる」
「わたし秋くんが来るまでの五分くらいの時間が好きだったよ。三神とふたりで他愛もない会話するのが」
宮永が笑顔を漏らす。泣いているより、笑っているほうが似合うと思った。口には出さないけれど。
心臓の拍動はさらに高まり、動けば破裂してしまいそうだった。
ふと右手に温かいものが触れた。見るまでもない。宮永の小さな手がおれの指先を掴んでいる。
「わたしが文芸部に入ったのは秋庭の付き合いというか、ほかに入りたいところもなかったし、まあいいかって感じだった。けど三神と一緒に過ごしてたら少しずつ楽しくなってきて、そのことを伝える自信もなくて――」
「おれも好きだよ」
「えっ?」
「あ、いや、宮永とふたりで部室にいる時間がおれも好きだったよ。大したことない話ばっかだったけど、それが良かったんだと思う。おれがいつも最初に部室に来てたのも、ひょっとしたら宮永と居たいからなのかも」
「そっか。そうだったんだ」
今度は宮永の手がしっかり包み込んでいた。
人の温もりがこんなに心地いいとは知らなかった。虎の肉球とは違った、弾力のある柔らかな手触り。女の子らしい滑るようなやわ肌は、いまはしっとりと濡れている。
「わたし三神の前だと素直に喋れなくて、いつも秋庭に八つ当たりしてた。怒ってばかりの女子なんて見苦しかったよね」
「まあ、もう日常的な風景だしな。元気な宮永もいいと思うし」
我ながらクサイ言葉を吐けるものだ。
ドラマの主人公のようにロマンチックな口説き文句が出ればいいのだが、あいにくこんな事態になることを想定していなかったのでボキャブラリーが足らない。
自分の愚かしさに立腹しつつ、おれはなんとか会話を継続する。
「宮永は宮永らしくはつらつとしてればいいんだよ。まどろっこしい魔法なんて似合わないから」
「ごめんね、三神。わたしこんな形で告白するつもりじゃなかった。メールも電話もする勇気がなかっただけなの。だからいま、ちゃんと伝える。わたし、あなたのことが好きです」
「宮永」華奢な肩を引き寄せる。白いワイシャツの襟がすこし乱れた。「おれも、お前のこと――」
目を閉じ、ゆっくり唇を近づけていく。
余計なことは考えない。
というか、考える余裕もない。
「三神――」
彼女の囁きは弱々しかったが、十分に甘美だった。
互いの呼吸が感じ取れそうな距離にまで近づいていく。もうあとわずかでときは訪れる。おれの人生で最も幸福な瞬間が待ち受けている。
そのとき遠吠えのように悲しげな鳴き声が聞こえたかと思うと、おれたちの間をなにかが駆け抜けていった。弾き飛ばされた直後に、黄色い毛並みの尻尾が目に入る。
そういえば秋庭の存在を完全に忘れていた。
虎の格好のまま校内をさ迷えば、どうなるか想像もつかない。
「僕の目の前でイチャイチャしないでよ!」
「おい、秋庭!」
「こんな部活やめてやる! こんな生活やめてやる! 僕は虎になるんだあ!」
部室の外の廊下を左右に見回すが、すでに獣の姿はなく。
どこからか咆哮が聞こえてくるばかりだった。