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彼女に似合う、傘の探し方

作者: 木村乃村
掲載日:2026/05/14

アスファルトに跳ねる、小さな水の音。


自動ドアを出ると、どちらからでもなく手を離した。

暖かかった空気が、背中から逃げていく。

離れる時、指先が少しだけ張りついた。


遠くから、賑やかな声だけが聞こえる。

雨で滲んだネオンだけが浮いていた。

点滅する看板を眺めながら、ネクタイを少し緩めた。


静かな裏路地にヒールの甲高い音が響く。

綺麗に磨かれたそれは、泥水に濡れていた。

 

どちらも傘は差さない。

肩が触れたまま歩いた。


湯気が立ちそうな体を、雨が少しだけ冷ました。

 

─駅前のコンビニ。

酔った若者達が、大声を出して暴れていた。


それを横目に煙草を吸って待った。

マウスウォッシュのミントが口にまとわりついて、いつもと違う味がした。

 

ガラスは、雨粒と湿気に覆われていた。

その隙間からぼんやりと彼女を眺めた。


円柱の灰皿を挟むように、並んで立った。

短い軒が、少しだけ雨を遮ってくれた。

 

無言でブラックの缶コーヒーが手渡される。

鞄から財布を探そうとすると制止された。

「いつも、払ってないから」

空になった袋を小さく縛り、鞄にしまった。

「じゃあ払ってくれてもいいよ?」

「なら払うよ!」

鞄から財布を取り出そうとする。

「冗談だよ、ごめん」

煙草を挟んだまま手を合わせた。


代わりに煙草の箱を取り出す。

自分のとは違う細長いメンソールの煙草だ。

少し明るい長い髪を掻き分け、火をつけた。


煙を吐くたび、石鹸の匂いが薄れていく。

 

─短い沈黙。


「ねえ…もうやめた方がいいかな?」

彼女は煙を自分にかけながら言う。

湿った指先が煙草を弄ぶ。

「やめたいの?」

「そうじゃないけど…」

語尾だけ、雨音に残った。

「じゃあやめてみる?」

「ちょっと馬鹿にしてない…?」

「馬鹿だとは思ってないよ」

彼女につられて笑った。


─分かってる。

これはただの、確認。


何となく彼女が口元に運んだ煙草を奪う。

彼女の呼吸が一瞬だけ止まる。

 

代わりに差し出した自分の煙草を彼女が咥える。

小一時間前の光景が浮かぶ。

ほんの少しだけ下半身が痛くなった。


深く吸い込む。

喉を通る感覚がない。

吐き出すことも忘れるほど軽かった。


「実はさ─」

続きを言う前に、彼女の声が響いた。

「重っ…よくこんなの吸ってるね」

煙を吐く前に咳き込んだ。


自分の持つ煙草のフィルターに薄い口紅が見えた。

それを指先で何度もなぞった。


─改札口。

人は少なかった。

改札を通る時、一瞬だけこちらを見る。

いつも、気が付かない振りをする。


ホームに着くと、ちょうど電車が来た。

風が吹いて、彼女の髪が揺れる。

 

微かに柔軟剤の匂いがした。

知らない家の匂いだった。


─行先は違う。

 

電車がホームに入ってくる。

「乗らないの?」

「…何となく」

「今日泊まってく?」

「馬鹿…自分も困るくせに」

俯いたまま、口元だけ少し緩んだ。

「今日はもう帰ろう」

満員とまではいかない車内へ押し込む。

抵抗すれば、簡単に抜け出せそうだった。


少しだけ、彼女の手を掴む。

─ドアが手を掠った。

 

小さく手を振って、見えなくなるまで見送った。

その表情を直視できない。


─誰も居ないホーム。

ベンチに座り、鞄からクリアファイルを取り出す。

緑色に縁どられた薄い紙。

 

自分の名前と押印だけがあった。

それを指で何度もなぞる。

 

紙の皺が少し増えた。

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