彼女に似合う、傘の探し方
アスファルトに跳ねる、小さな水の音。
自動ドアを出ると、どちらからでもなく手を離した。
暖かかった空気が、背中から逃げていく。
離れる時、指先が少しだけ張りついた。
遠くから、賑やかな声だけが聞こえる。
雨で滲んだネオンだけが浮いていた。
点滅する看板を眺めながら、ネクタイを少し緩めた。
静かな裏路地にヒールの甲高い音が響く。
綺麗に磨かれたそれは、泥水に濡れていた。
どちらも傘は差さない。
肩が触れたまま歩いた。
湯気が立ちそうな体を、雨が少しだけ冷ました。
─駅前のコンビニ。
酔った若者達が、大声を出して暴れていた。
それを横目に煙草を吸って待った。
マウスウォッシュのミントが口にまとわりついて、いつもと違う味がした。
ガラスは、雨粒と湿気に覆われていた。
その隙間からぼんやりと彼女を眺めた。
円柱の灰皿を挟むように、並んで立った。
短い軒が、少しだけ雨を遮ってくれた。
無言でブラックの缶コーヒーが手渡される。
鞄から財布を探そうとすると制止された。
「いつも、払ってないから」
空になった袋を小さく縛り、鞄にしまった。
「じゃあ払ってくれてもいいよ?」
「なら払うよ!」
鞄から財布を取り出そうとする。
「冗談だよ、ごめん」
煙草を挟んだまま手を合わせた。
代わりに煙草の箱を取り出す。
自分のとは違う細長いメンソールの煙草だ。
少し明るい長い髪を掻き分け、火をつけた。
煙を吐くたび、石鹸の匂いが薄れていく。
─短い沈黙。
「ねえ…もうやめた方がいいかな?」
彼女は煙を自分にかけながら言う。
湿った指先が煙草を弄ぶ。
「やめたいの?」
「そうじゃないけど…」
語尾だけ、雨音に残った。
「じゃあやめてみる?」
「ちょっと馬鹿にしてない…?」
「馬鹿だとは思ってないよ」
彼女につられて笑った。
─分かってる。
これはただの、確認。
何となく彼女が口元に運んだ煙草を奪う。
彼女の呼吸が一瞬だけ止まる。
代わりに差し出した自分の煙草を彼女が咥える。
小一時間前の光景が浮かぶ。
ほんの少しだけ下半身が痛くなった。
深く吸い込む。
喉を通る感覚がない。
吐き出すことも忘れるほど軽かった。
「実はさ─」
続きを言う前に、彼女の声が響いた。
「重っ…よくこんなの吸ってるね」
煙を吐く前に咳き込んだ。
自分の持つ煙草のフィルターに薄い口紅が見えた。
それを指先で何度もなぞった。
─改札口。
人は少なかった。
改札を通る時、一瞬だけこちらを見る。
いつも、気が付かない振りをする。
ホームに着くと、ちょうど電車が来た。
風が吹いて、彼女の髪が揺れる。
微かに柔軟剤の匂いがした。
知らない家の匂いだった。
─行先は違う。
電車がホームに入ってくる。
「乗らないの?」
「…何となく」
「今日泊まってく?」
「馬鹿…自分も困るくせに」
俯いたまま、口元だけ少し緩んだ。
「今日はもう帰ろう」
満員とまではいかない車内へ押し込む。
抵抗すれば、簡単に抜け出せそうだった。
少しだけ、彼女の手を掴む。
─ドアが手を掠った。
小さく手を振って、見えなくなるまで見送った。
その表情を直視できない。
─誰も居ないホーム。
ベンチに座り、鞄からクリアファイルを取り出す。
緑色に縁どられた薄い紙。
自分の名前と押印だけがあった。
それを指で何度もなぞる。
紙の皺が少し増えた。




