いわく
それは、キャンパスの片隅で上がった情けない呼び声から始まった。
「せんぱぁ~い!」
「ドアを開けるなり気の抜けるような声を出さないで」
サークル棟の一室には、すでに先客がいた。彼女は眉根を寄せつつも、読んでいたハードカバーの長編小説に栞を挟み、無骨な長机の隅に置いた。
来客を歓迎している、のではない。
無視して読み進めたところで強引に邪魔をされることを、経験上知っていたというだけの話だ。
「で、今日は何の与太話?」
「与太話とは失礼な。これはアレですよ。大事な後輩の命に関わる重要なお話なんですっ」
ドアを開けっ放しのまま室内へと踏み込んだ後輩ちゃんは、普段から色々な方面へ向かってはねている茶色いショートヘアを更に振り乱して、清楚なお嬢様然とした先輩――フミカへと詰め寄った。
「アキホは大袈裟だからね。で、今度は料理中にどの指を切ったの?」
「そんな先週の戯言と一緒にしないで下さい。今度のコレはマジでヤバいんですから」
「……まぁ、とにかく座って落ち着きなさい」
フミカの口元が下がる。内容はともかくとして、後輩――アキホの物言いが真剣であったのは認めざるを得ない。入れ替わるように立ち上がったフミカは、神妙な面持ちを崩さない後輩の憂いを横目に眺めつつ、開いたままのドアを閉めて再び座りなおした。
「で、何がどうしたの?」
「えと……まずはコレを見てください」
何から話そうかと少し考えてから、アキホは携帯電話を取り出して画面を見せる。
「ご?」
「はい『五』です」
そこには紛れもなく、真っ赤な文字で『五』と記されていた。最新の無駄に高性能な携帯電話らしく、やたらと鮮明に写っているのが痛々しい印象を与える。
しかし、普段なら突っ込むであろうその部分が気にならないほど、その画像はフミカの興味を惹きつけた。
「これ、どこかの廊下よね?」
「アパートの部屋の前です。昨日の朝、学校に行こうと部屋を出たら、デカデカと書いてありました。最初は単なるイタズラかなーと思って、すぐに消そうと思ったんですけど……」
「悪戯にしても妙でしょ。そもそも、アキホんとこって何階だっけ?」
「四階です。奥から二番目の404号室」
「しかもオートロックでセキュリティ完備って言ってたよね。空き巣だって簡単には入れないじゃない」
フミカの発言に、アキホは大きく頷く。
「そうなんですよ。だから、何かおかしいなーと思って消さずに大家さんへ電話したんです。そしたら、こちらで消すからそのままにしといてくれって言われて……」
「大家さん、驚いてた?」
「それが全然。ちょっと不思議だったんで、今朝文字を消しに来た大家さんに聞いてみたんです。アパートでの一人暮らしなんて初めてでしたから、こういうイタズラって珍しくないのかなーって」
アキホが一人暮らしを始めたのは一ヶ月ほど前のことである。その部屋探しに、目の前にいるフミカも含めた数名の友人が巻き込まれている。今住んでいるアパートは、彼女の条件にも彼女の親の条件にも合致している優良物件だった。
「珍しいも何も、仮にアキホがストーカーに狙われていたとしたって、簡単に出来ることじゃないでしょ、これは」
「そうなんです。大家さんも『あり得ない』って言ってました」
「でも、実際に文字は書かれてあった。五という数字に何の意味があるのかはわからないにしても、ね」
「だからその、何だか怖くなってきちゃって」
携帯電話を閉じ、背中を丸めて溜め息を吐く。
「引っ越しちゃったら? また探せばいいじゃない」
「そうなんですけど、色々見て選んだ場所ですし、それに……もう半年分の部屋代を入れてあるんです」
「返してもらえないの?」
「半分なら何とかって言ってくれましたけど、それでも一ヶ月分以上は無駄になりますから、どうやって親に言おうかなって……」
いつもは明るく前向きなアキホだけに、その萎みっぷりは余計に際立って見える。普段は狙っているのか天然なのかわからないボケに振り回されているフミカも、この時ばかりは真剣な眼差しでうな垂れた頭を撫でつつ、穏やかにこう告げた。
「とりあえず、アキホの部屋に行ってみよっか」
そして翌日の早朝、部屋の前で固まる二人の女性の姿があった。
悲鳴を上げたことすら自覚がないほどの呆然とした顔で、床に書かれた真紅の文字を見ている。
そこには『四』と記されていた。
「カ、カウントダウンだ……先輩、これってきっとカウントダウンですよっ」
「え、ええ」
右肩を掴まれてガクガクと揺さぶられ、フミカは曖昧に同意する。落ち込む後輩を心配して泊まりに来たつもりが、こうもタイミング良く事態が起ころうとは、さすがの彼女も予想していなかったようである。
昨晩部屋の中を見て周り、とりあえずは変化がないことを確認して様子を見ようと説得したことを、まるで嘲笑っているかのような状況に思えた。
「あ、風間さん、おはようございますっ」
不意にアキホが右を向き、頭を下げる。つられてフミカも目を向けてみると403号室の住人らしきスーツ姿の女性が顔を出していた。おそらくは出勤前の準備中だったのだろう。前髪をヘアバンドで上げたままだ。
「凄い声が聞こえたけど……って、その字!」
「はい、また書いてありました」
「一体何なの? それ」
眉をひそめ、まるで二人を非難してくるような口ぶりで聞いてくる。部屋の目の前に書かれたアキホが動揺するのは当然だが、隣室の前に奇妙なトラブルが発生するというのも、決して気持ちの良いものではないだろう。
「それが、わかんないです。誰かのイタズラだとしか思えないんですけど……」
「そ、そう」
怯えるアキホの様子を察して、隣人も怒りの矛先を失う。
「失礼ですけど、こちらに住んで長いんですか?」
と、フミカが口を挟んだ。当初の驚きは通り過ぎたのか、その瞳に宿る輝きは普段の彼女に戻っている。
「いいえ、彼女と同時期よ」
「引越しのご挨拶を交換しましたよね」
アキホと笑みを交し合う隣人にとっても、この事態は初めての出来事であろう。というより、普通ならあり得ない話に分類されるところだ。セキュリティも万全と謳っているアパートの、しかも四階の一室までワザワザ悪戯をしに来る輩という犯人像など、リアリティの欠片もない。
それこそ、理屈の通じない相手と考える方が、より自然であるようにすら思えることだろう。
「先輩?」
事実そう思いかけ、慌てて首を大きく横に振るフミカを、アキホが心配そうに見詰めている。
「……とにかく、まずは状況を整理しましょう」
「整理って、何をすれば?」
「とりあえずアキホは、前と同じように大家さんへ連絡して」
「あ、うん」
頷いて部屋へと駆け足で戻る背中を見送って、フミカは改めて真紅の文字と対峙する。しゃがんで間近に見ると、筆かハケでも使ったような独特の筆跡が浮かび上がる。すでに乾いているようだが、それがどのような塗料なのか興味の湧いた彼女は、一際盛り上がって見える左隅へと指を伸ばした。
「触らない方がいいんじゃないかい?」
不意に上がる声に、手を止めて振り返る。
そこには、いつの間に出てきたのか、405号室の住人と思しき中年女性が立っていた。ややぽっちゃりとした、昼間のゴロ寝がいかにも似合いそうな主婦という風体に見える。
「何かご存知なんですか?」
「知ってるってほどでもないけど、もう三年くらい続いているらしいからねぇ。嫌でも耳に入ってくるよ」
「三年前に、何かあったんですか?」
「それは……」
言い淀む。あまり大っぴらに話せるようなことでない話であろうことは、確認するまでも雰囲気が語っていた。
「ここだけの話だけど、人が死ぬような事件があったんだよ。警察とかが出入りしてて、あれは迷惑だったね。私も色々居と聞かれたしさ。そういう話、アンタの友達は聞いてなかったのかい?」
「多分」
アパート探しに付き合っていた彼女が知らないのだ。アキホが聞いていたとは考えにくい。
「そうかい。そりゃ気の毒に」
「これって、やっぱり秒読みと考えて良いんでしょうかね?」
「さぁねぇ、零になるまで残ってた人は居ないから……」
「みんな引っ越しちゃったんですか?」
「この部屋は相場よりかなり安いって話で、結構入れ替わり人が入るんだけど、一ヶ月くらい経つと決まって赤い数字が現れるんだよ。二ヶ月もったのは、一人もいなかったと思うね」
フミカは首を捻る。
「犯人の目星とか、ついてないんですかね?」
ここはオートロック完備のアパートだ。セキュリティの高さが売りの一つでもある。その一室、それも四階の中途半端な一室に悪戯をするなど、決して簡単な話ではない。
「そんなのがわかってたら、こんなこと続いちゃいないよ」
「確かに、それもそうですね」
言われるまでもなく、それが道理だ。
しかしだからこそ、事件は一層不可解である。
「でも、どうして目星もついていないんでょう? 監視カメラだってあるんでから、映っていれば男か女かくらいわかりそうなものですけど」
そう言って指差す先には、エレベーターホールへと向けられた監視カメラが目を光らせていた。この階の角部屋に当たる405号室の先は非常階段になっており、そちらは鍵が閉まっている。こちらから出て行くことはできても、入ることは不可能である。
「それがさ、映っていないんだよ」
「映ってないって……そんなこと」
不可能とまでは言い切れないが、ただの悪戯でない可能性は高まった。
「気味が悪いだろ。ウチもさっさと引っ越したいとは思っているんだけどね。一年経っても資金が溜まらなくて、渋々我慢しているのさ」
「それは……お察しします」
その表情に浮かぶ苦悩は、誰の目から見ても深刻なものに映った。むろん、隣とはいえ奇妙な悪戯が頻発するような場所には、誰であれ留まりたくなどないだろう。
「何なら、管理人室に行って見せてもらったらどうだい?」
「そう、ですね」
「まぁ、無駄だとは思うけどさ」
まるで隣人のおばさんには、全ての結果が見えているかのようだった。
その映像に、二人は驚愕せざるを得なかった。
むろん、何か不審な人物が映っていたからではない。むしろ、何一つ怪しい人影など映っていなかった。
「誰もいないね」
同席している老婦人と壮年の男性――大家と管理人の二人は、顔を見合わせて頷き合った。このあまりにも不可解な事態が、何度も繰り返されてきたという信じられない事実が、改めて室内に横たわる。
「何で? どうして何も映ってないの?」
アキホは混乱しているようだ。答えようと思っても答えられない、不自然な沈黙が場の空気を更に重くする。
「この階のカメラって、この一台だけなんですか?」
フミカの質問に、大家は頷きを返す。
問題となるカメラは、404号室の真ん前に備えられていた。そこから例の文字はギリギリ見えず、ドアの開閉だけが辛うじてわかるというアングルだ。画像自体は意外に鮮明で、エレベーターホールを横切る人間の服装程度なら、判断することもできた。もちろん、401号室~403号室の住人の出入りは、完全に把握することが可能だった。
昨晩の帰宅で最も遅かったのは403号室の住人で、午後十一時過ぎであった。以降、人の出入りも通行も一切ない。にもかかわらず、朝には『四』が残されていたのだ。
「やっぱり、何かあるとしか思えないわね」
暗い呟きが、そのまま這いずるように広がっていく。普段は怪談など笑って聞いているアキホも、さすがに映像という状況証拠の前では固まっている。そもそも、その数字が何を意味し、何のために記しているのかわからないというのが、あまりにも不気味だった。
「……あの、やっぱりというのは、どういう意味でしょうか?」
このままでは埒が明かないと判断したのか、フミカは呆然としたまま動かなくなったアキホに代わって、ことの真相を探ってみることにする。
「いえ、大したことでは……」
困ったように眉根を寄せ、大家は強引に笑みを浮かべる。しかし不自然な笑みは、むしろ不安を演出するだけだった。
「三年前の事件、ですか?」
フミカの発言に大家と管理人は顔を見合わせ、同時に観念したような溜め息を吐いた。
「まぁ、アパートに昔から住んでいる人なら誰でも知っていることだから、今更隠しようもないかねぇ。確かにお嬢さんの言う通り、丁度三年前くらいに、404号室で同棲相手による殺人事件が起きているの」
「どんな事件だったんです?」
「彼は恋人の浮気を疑っていたんだけど、ある日ベッドの下に隠れて様子を窺っていたそうなの。そこに彼女と浮気相手が帰ってくるんだけど、二対一では分が悪いからと、しばらく待つことにしたそうよ。しばらくして浮気相手が帰ってから、用意していたナタで彼女を殺したらしいんだけど、その直後、携帯を忘れた浮気相手が戻ってきたのね」
「じゃあ、二人とも?」
「いいえ、電気を消して息を潜めていた男性には気付かず、浮気相手は携帯だけを持って帰ったらしいの」
「その話って……」
大家の話が終わると同時に、アキホが復活して口を挟む。
「どっかで聞いたことあるような気がする」
「有名な怪談よ。都市伝説って言った方が適切かな」
フミカの眉根は相変わらず寄ったままながら、その冷静さには陰りが見られない。
「そうらしいわね。私は知らなかったんだけど、親しくしている住人の方に後で伺ったわ。それからしばらく、事件の話は噂になっていたのだけど、いくら何でも関係ないと思ったから、一年を待って借り手を募集することに決めたの。そうしたら……」
「数字が現れた、という訳ですね?」
大家の頷きを、フミカはしっかりと確認する。経緯を聞いても、誰一人表情の晴れる者はいない。むしろ停滞する重い空気は濃密になり、一同の足元に纏わりついた。
「風の噂では、逮捕された男は気が触れたとか自殺したとか聞いてるわ。まるで何かに操られていたようだ、なんて話を聞いたこともあるし。正直、今でも数字が現れる度に、あの同棲相手がやって来ているのではないかと不安に思うの」
モニターで停止している昨晩の映像には、やはり誰の姿も映ってはいない。
しかしだからこそ、その陰に潜む暗い何者かを強く想像させるようだった。
三日後、フミカは再び404号室を訪れた。
もちろん、例の文字に絡んだ相談を行うためである。二人は改めて監視カメラと薄汚れた床面を調べ、非常階段へと足を向けた。エレベーターホールからの出入りがない以上、非常階段というルートが最も現実的であったからである。
しかし鍵はしっかりと閉められており、外から開くためには管理人室に置いてある鍵が必要だった。外と内を繋ぐ一階の扉も一応調べてみたが、当然ながら鍵は閉ざされていた。埃も堆積しており、そもそも人の出入りがあった形跡すらない。
大した成果も得られずに自室へと戻るが、この不可解な事件についての話はされなかった。まるで避けているかのように、楽しい雑談だけが交わされていく。
やがて声が途切れ、いつの間にか眠ってしまったアキホが携帯電話のコールで叩き起こされると、深夜のコンビニへと出向くことになる。
アイスが食べたい、というのが理由だ。
だが二人は、またしても404号室の前で悲鳴を上げることになる。言うまでもなく、そこに『三』の文字が記されていたからだ。すでに丑三つ時と呼べるタイミングでの悲鳴に、すでに寝静まっていた住人達が顔を覗かせる。
402号室の男性と403号室の女性が、同時に玄関から出てきた。時間帯は違っていたものの、このアパートではすでに珍しくなくなった光景であるように、古参の住人ならば思ったことだろう。
しかしその日は、いつもと少しだけ違っていた。
「一体どうしたって……」
少し遅れて姿を現した405号室のおばさんが、踏み出しかけた足を止めて凍り付く。
次いで、空を覆う厚い雲を切り裂くような悲鳴を上げた。
無理もない。
その足元には『二』の文字が、蛍光灯の白い光を受けて、紅く輝いていた。
管理人室にあるモニターの前には、五人の男女が集まっていた。その内の四人は先日と同じメンバーである。そこに405号室のおばさんが加わっただけだ。
しかし、それぞれの表情は幾分違っている。特に大家の顔色は、目に見えて悪かった。隣のおばさんも、まさか自分が当事者になるなど思いも寄らなかったのか、奥歯をガタガタと鳴らしている。
「誰も居ない……誰も居ないじゃないかっ」
先日の穏やかな物言いとはまるで違う、世界に向かって抗議の声でも上げるかのような鋭い叫びが、大家の口から溢れる。
「やはり、いつもと変わりませんね」
「そんなハズないだろっ。こんなのおかしいじゃないか!」
不可解な顔をしつつも冷静な管理人とは、ずいぶんと大きな隔たりが見て取れる。まるで、この現象を初めて目の当たりにしたかのような反応だ。
「そうだ。非常口……非常口だよ。そこから出た奴がいないか、確かめるんだ!」
「でも、鍵はここにあるんですから……」
「いいからっ」
大家の剣幕に圧されて、管理人は渋々ながら映像を切り替え、時間を巻き戻していく。しかしいくら遡ってみても、アパート前の映像に不審人物など映り込みはしなかった。
「まさか、本当に……」
隣のおばさんが震えながら呟きを漏らす。それは他人に届くかどうか疑問に思えるほどの大きさでありながら、周囲を手当たり次第に凍てつかせていった。
「馬鹿なこと言ってんじゃないよっ」
固まって床に落ちた恐怖を蹴り飛ばすように、大家が厳しい表情で振り返る。しかし、四散したかに見える恐怖は、まるで蟻地獄にはまる蟻のように底へと引き寄せられ、大きな塊へと成長していくように見えた。
「そ、そうだっ。まだ中にいるんだよ。きっと非常階段のどこかに隠れているんだ。ほとぼりが冷めるまで息を潜めて、後でこっそり逃げ出すつもりなんだよ!」
大家の笑みは歪んでいた。
「アンタはここでモニターを見張ってるんだ。こっちから追い込めば、絶対にボロを出してモニターに映るハズだからね。他は一緒に来てちょうだい。凶暴な犯人かもしれないからね」
頷く管理人を一人残して、他の四人は四階へと向かった。一同に声はなく、色は青白い。ただ、人々の寝静まる深夜であるとは思えないほどに、開いた眼だけはギラギラと輝いていた。
やがて辿り着いた件の扉に迫った大家は、温もりのない銀色のノブに手を掛ける。
しかし、それを捻って驚愕した。
「閉まってる? どうして……どうしてなんだいっ!」
いつも通り、非常口の扉は閉ざされていた。
だが諦めきれないのか、それとも認めることが怖いのか、つまみを回して鍵を開くと、コンクリートむき出しの無機的な空間へと足を踏み入れる。
床を叩く音がやけに大きく響く。気配はなく、淀んだ空気が漂っており、古い埃の匂いがした。
薄っすらと埃の積もった床面に、足跡があった。
「やっぱりだ。ホラ、やっぱり誰かいるんだよ!」
「あの……」
フミカが申し訳なさそうに手を挙げる。遥か昔の気付かれなかった悪戯を告白するような、そんな顔をしていた。
「何だい?」
「それ、私達です。昼間、誰か入った形跡がないのか確かめようと思ったので。もちろん、その時は誰の足跡もありませんでした」
「……そうかい」
大家は目に見えて落胆していた。とはいえ、これで事実が確定した訳ではない。その眼差しは、まだ死んではいなかった。あるいは、無心に死肉を求めるゾンビのようでもあったのだが。
「こっちに、足跡はないね。反対は……」
上の階へと目を向けて確認してから、今度は下の階へと向き直る。
その瞬間、時が停止した。
悲鳴は反響し、増幅されてアパート中に響き渡る。
そこにある足跡は二つだけ。
ただ、重なるようにして、赤い雫が連なっていた。
二つのグラスが、一際高く持ち上げられる。
『かんぱ~い!』
完全に重なった声が、楽しそうに響いた。
「いやー、爽快爽快っ」
フミカの笑顔には屈託がない。普段の理知的な彼女からは想像ができないほど、その表情は輝きに満ちていた。
「でも、ちょっとやり過ぎたんじゃ……?」
一方、アキホの表情は少し複雑そうだった。
「気にすることないわよ。元々は向こうがアンタを騙そうとしたんだもの。むしろ怖い目にでも遭わなければ、反省にもなんないでしょ」
「それにしても、よくわかりましたね。あの数字が『嫌がらせ』だったなんて」
「普通はそう思うでしょ」
「いやー、私はてっきり殺された女の人か自殺した犯人のどちらかかと思ってましたよー」
「アンタねー……」
言いかけて思い止まる。こういう子をターゲットに選ぶ段階から、計画的であったとすれば、むしろ合点のいく話に思えたからだ。そういう点から考えても、今回の反撃は妥当なものだったと言えるかもしれない。
「でも、先輩はいつから『隣のおばさん』が犯人だと疑ってたんですか?」
「疑っていた、というなら最初からね」
グラスを手の中でクルクルと回しながら、今回の出来事を改めて整理してみる。
「監視カメラと非常階段の鍵という明確な証拠から考えて、可能性は大きく分けて三つあったと思うの。一つは映らない場所の人物、すなわち405号室の住人が行ったというものね。二つ目は鍵を持った別の人物、この場合で言えば大家か管理人、あとは別の階の住人の何者かが非常階段を利用して行ったケースよ」
そこで一息吐いて、柑橘系の薄いアルコールを喉に流し込む。
「もう一つは?」
「アキホの狂言ね」
「ひどぉい。私のことも疑ってたんですか?」
「チャンスがあった、という点では無視できないでしょ。もちろん404号室はドアの開閉がカメラに映っている訳だし、相当に巧妙なやり方をしないと成立しないわ。そして当然、今回の企画を受け入れた時点で疑いは晴れてるのよ」
「ならいいですけど……それより、一つ目の隣のおばさんはともかくとして、二つ目の考え方だと範囲が広すぎませんか? 極端に言えば、アパートの住人全部が怪しいじゃないですか」
後輩の素直な疑問に、フミカは楽しそうに微笑んだ。
「結果的にはアパート前やロビーもカメラで監視している訳だから、大家や管理人が出入りすることは難しいし、他の階も一番奥の部屋以外はカメラに映ることになるから限られてはくるんだけどね。でも、誰なのかわかってなくても構わなかったのは間違いないかな」
「どういう意味ですか?」
「誰であれ、生身の人間がアンタの部屋にやってくることは確実だったからね。もっとも、非常階段の方から来られていたら、もう少し慌てていただろうけど。あそこ、隠れられる場所が少ないから」
そう、フミカは深夜、アキホの部屋に居なかった。
昼間に調査した時から、ずっと非常階段の踊り場で待機していたのである。仕掛けたと思っていた方が仕掛けられていたと知ったら、穏便には済まないところだろう。
故に、ここはアキホのアパートではない。少し狭いが、フミカのアパートだった。
「それにしても、何だか凄く用意周到でしたよね。わざわざ私達の会話を録音したデータを再生までして、カムフラージュしなくても良かったんじゃないですか?」
「いいえ、あれはやって良かったと思うわ。今まで巧妙にやってこれたのは、間違いなく隣の部屋の様子を常に窺っていたからだと思うもの。後で、盗聴器も探しておいた方が無難かもしれない」
「え?」
アキホが固まる。
「いい? アキホはこれで解決したって思ってるかもしれないけど、大家と隣人がグルになってアンタを追い出そうとしたことは事実なの。考えようによっては、幽霊の仕業より性質が悪いかもしれないのよ。すぐに出る必要はないけど、少なくとも半年以内には引っ越すことを考えなさい」
そこに悪意があった。
だからこそ数字は記されたのだ。ただその正体が、黒い影でなくなったというだけの話に過ぎなかった。
「先輩……」
アキホは姿勢を正し、そして大きく頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました!」
温かな室内に、配慮と感謝が交錯する。
笑顔はどこまでも真っ直ぐで、喉を通る酒は何よりも美味だった。
その一週間後、再びキャンパスの片隅で情けない声が響く。
「せんぱぁ~いっ!」
「今度は何?」
「これっ、これを!」
差し出される携帯の画面には、真っ赤な『一』が写っていた。
「何よ、あの人達まだ続けてるの?」
「ちが、ちが、違うんですっ」
「違うって、何がよ」
大きく息を呑み込んだアキホが、震える声を絞り出す。
「隣の部屋の前に、書かれてたんですっ!」
この時、生まれて初めてフミカは血の気が引いた。
数日後、アキホはアパートを引っ越した。
以降どうなったのかについては、二人とも聞いていない。ただ、二つの一家心中が同時に起こったというニュースだけが、一時的に流れたのみであった。




