第9話 誓約
「この国の王は疾くここへ参れ。さもなくば王都を全て灰にする」
黒い魔物が空から人間の言葉を発する。魔法で増幅されているのだろう。その声は大きくはなかったが、王都にいる全ての人間の耳にはっきりと聞こえた。
軍管区では動ける者が総出で怪我人の搬送を急いだ。上空にはさきほど壊滅的な攻撃を行った魔物が浮いているが、現在は不気味に沈黙している。皆、すぐ下に死が横たわる原色の世界で綱渡りをしているような気分だった。
半刻ほど経った頃、騎士を伴い豪奢な馬車が数台やって来た。王紋の意匠が施された戸が開けられ、国王が降りてくる。豪奢な髭をたくわえ、力強い視線を上空の黒い魔物に向けている。少なくとも表向きには怯えを感じさせない泰然とした様子であった。
馬車からは側近たちや、顔色が悪いボスマンス辺境伯が続いて降りてくる。辺境伯は両腕を騎士に掴まれ、半ば罪人が捕縛連行されているようであった。
「お待たせをした。私がこの国の王である。貴殿は我が国で魔王として認定されている。魔王殿と呼んでよろしいだろうか?」
国王の朗々たる声が魔法で増幅され、王都中に響く。
「好きに呼ぶがいい」
魔物が宙で体を回し、国王の方へ顔を向けた。
「では魔王殿、此度の我が国への一方的な侵略と虐殺行為、どのような因由があるのか説明して頂きたい」
「一方的な侵略と虐殺だと? 先に攻撃を企てたのはこの国だと思うが」
「結界を超え王都に魔物が飛来すれば迎撃せざるをえないだろう」
「その前にお前たちは我の討伐団を組織していたではないか」
「そんなことは……いや」
国王は言葉を濁そうとしたが、瞬間的に考えを改めた。この相手に嘘やごまかしで取り繕うのは悪手だ。直感で強く感じた。それはこれまで彼を何度も助けてきたものだった。
「いや……その通り。民の安寧のため、貴殿を討つための準備をしていたことは認めよう」
すぐ側に控える宰相が唾を飲む。
「であれば、何の咎で我を糾弾するというのだ。討伐団の準備が整うまでおとなしく待ち、森で討たれなかった罪とでも言うか?」
「……貴殿は森に入った多くの冒険者を殺めたであろう。彼らはこの国の民だ。我々はその原因を取り除く必要がある」
「その冒険者とやらは森の獣や魔物を殺しに自らの意思で入ってきたのだろう。それが返り討ちにあったとして何だというのだ。お前たち人間はそれほど特別か?」
「……森の魔物は基本森の中にいるものと知ってはいるが、それでも稀に集団で森を出て暴走し、近くにある人の村などが潰されている。冒険者たちに森でその徴候を探らせるのは自分たちの身を守るため当然のことでは?」
咄嗟に考えた言い訳だがどうだろうか。目だけ動かし宰相を見ると頷きを返された。悪くはなかったようだ。
「人の王よ。十年前のことを言っているのであれば、あれは人間が森に火を付けたのだ。焼かれた森が怒り魔物を外に暴れさせた」
「森に火を付けるなど、我々は決してそんなことは……」
魔物が空からこちらへ何かを投げて寄越す。鈍い音を立て国王たちの足元に落ちたのは草で編まれた粗末な袋だった。一部が赤黒い染みで濡れている。
「中の物を取り出せば分かる」
国王を含め全員が後退ったが、やがて騎士の一人が仕方なしと袋を開き逆さまにした。中から人の首が転がり落ちる。辺境伯の目が大きく開いた。首の主は先日森で黒い魔物に殺された辺境兵団の団長であった。
騎士は千切れた首元を下にして地面に置くと素早く距離を取った。両の眼球を失った目は暗く落ち窪んでいたが、やがて光を放って宙空に記憶の像を写した。口からは当時の言葉がそのままの声音で再生される。
『――――森に火を放てば十年前のようにまた魔物の集団暴走が発生する可能性があるのでは?』
『――――そんなものはただの偶然であろう。本能で生きているだけの魔物どもが種を超えて集団行動するなど、たまたまにすぎん』
映像と音声が進んでいくにつれ、国王たちの顔が暗く歪んでいく。再生が終わると、団長の首は硬直する辺境伯を恨めしそうに睨みながら燃え上がり、骨も残らず消失した。
「人間というものは平気で虚言を吐くのだな。これ以上付き合うのも面倒だ。やはり全て消してしまおうか」
「…………誠に申し訳ない。こちらには落ち度しかないようだ。できる限りの償いはする。魔王殿、どうか怒りを鎮めてもらえないだろうか」
国王は絞り出すように謝罪の言葉を口にし、深く頭を下げた。
「ならばいくつかの誓約をせよ」
控えていた書記官たちが地に這いつくばるようにして、必死の形相で魔物の言葉を書き付けていく。
一つ、波旬の森に火を付けないこと。
二つ、森に入って獣や魔物を狩るのは問題ないが、返り討ちにされても文句を言わないこと。
三つ、森の木は印の付いたもののみを切ること。
四つ、以上を森を囲む三国間で共通の協定として結ぶこと。
「最後に、けじめとしてそいつの首をもらう」
黒い魔物の爪先が辺境伯を指した。
「それだけでよろしいか」
「ああ、誓約が守られる限り、今後我が人間の前に姿を現すことはない」
想像していたより平和的な内容に国王が安堵の息を漏らす。他国との協定については苦しいが、ここで否と答えるわけにもいかない。関税率でも鉱山の権利でも出せる限りを出して合意してもらう他ないだろう。
「お、お待ち下さい陛下! 私は国のためを思って! いや、先ほどの幻術もあの魔物が作り出した偽りに違いな――」
騒ぎ立てる辺境伯を一瞥し、国王が合図を送る。縄で縛られ口を塞がれた辺境伯が地面に転がされた。
「魔王殿、この者については我が国でも取り調べを行いたいのですが、首をお渡しするのはその後でもよろしいか?」
「構わん。それとこれは忠告だ。お前たち人間は獣人を捕らえ奴隷としているが、それが通るのは彼らが我慢をしているからだ。我慢はもうすぐ限界に達する。彼らが本気で人間を敵と捉えたなら、森に入った人間はすぐさま皆殺しにされるだろう」
「……承知した。寛大なお心とご忠告かたじけない」
先刻より老け込んだように見える国王は、疲れを隠せない顔で再度頭を下げた。