第5話 ドライアド
魔物になり森に住んでみて分かる。魔物は基本的に森の外には出ない。食料に困ったり、森の外に気を引くものがあれば違うのかもしれないが、それは例外だ。
森の外へと魔物が一斉に暴走する集団暴走は通常ではとても起きないように思う。何かきっかけがあるのだろうか。
「なあクエレ」
「なんだいアニキ?」
丸くなっていたクエレが顔だけをこちらに向ける。
「十年くらい前に魔物たちが一斉に森から出て、近くの人間の村を襲ったことがあったんだ。魔物は滅多に森を出ないものだと思うんだが、そういうのは何か理由があって起こるものなのか?」
「うーん、そうだなぁ。この森は管理者が複数いるから、協議で決まったのかもしれないね」
「管理者? 協議? まったく分からん。どういうことだ?」
「オイラその頃は寝てたからなぁ、そうかもとしか言えないんだけど……直接聞いてみる?」
クエレは悪戯な笑みを浮かべた。こちらが戸惑っているのを楽しんでいるようにも見える。
「その管理者とやらに話を聞けるのか?」
体を起こし、クエレの腹を踏みながら問いかける。
「ギャー! ちょっと、仰向けにしないで! お腹を踏まないで! オイラ、メスなんですけど!」
そういえばそうだったと足をどける。クエレは身構えるようにして後退った。
「……ドライアドっていう森の管理者をしている木の精霊がいるんだけど、話してみる?」
「精霊? ああ、見たこともないが話せるものならな」
今日は目新しい言葉をよく聞く日だと思った。
「うん。オイラに任せてよ」
寝床の一つである岩窟を出て、二匹で一緒に伸びをした。狭くて暗い寝床も落ち着くが、外で体を伸ばすのも良いものだ。
クエレは周りの木立を見渡し、そのうちの一本に魔力を乗せた鳴き声をかける。しばらくすると木の幹から小さな光が出て集まりだした。光はやがて人の姿を象ると、豊かな緑色の髪を靡かせた少女が現れた。一見すると十代中ごろの美しい人間の娘のように見えるが、全身が淡く発光している。
「やあ、こんにちはドライアド。少し話がしたいのだけれど」
クエレが元気よく声をかける。
「ごきげんよう、竜の子よ。そしてあなたは……ここのところ森を騒がせていた黒い魔物ですね。呼び出したのは私を滅しようということでしょうか?」
精霊の少女は少し後ずさり、こちらを睨んで目を逸らさない。明らかに警戒している様子だった。
「はじめまして。俺はヘルトだ。もう見境なく魔物を襲うのはやめたよ。君に危害を加えるつもりはない。訊きたいことがあってクエレに呼んでもらったんだ」
なるべく優しく聞こえるように声を出す。頭を覆う多くの目が出来るだけ柔らかい形になるよう努力したが、それぞれ不気味に歪んだだけであった。
「こ、ここにいる私を引き裂いたとしても、それは詮無いことです。私は森のどこにでも在るのですから」
少女は怯えた表情でさらに距離を取ろうとする。
「お、おい、誤解しないでくれ。こちらに敵意はない。本当だ」
ヘルトはなんとか微笑みをつくろうとしたが、胸の口は薄い三日月のように鋭く恐ろしげな形となった。
「……魔物だけでは飽き足らず、次は私たち精霊まで害しようというのですね。いいでしょう、私がここでお前を滅します!」
少女の髪が複数筋に纏まりながらヘルトを囲むように伸び始める。話が通じていないことに閉口し、救いを求める眼差しをクエレに向けた。
「痛っ! 寒っ! ちょっとアニキ、魔力を込めた目でこっちを真っ直ぐ見ないで! 呪われるから! ねぇドライアド、アニキもオイラも君に危害を加える気はないよ。本当だよ!」
クエレが地面に転がり腹を出す。ヘルトも倣って仰向けになってみた。なるべく体が小さく見えるよう、尻尾は胴体の上で丸めた。
大暴れしていたと聞いている異形の黒い魔物が仰向けになっているのを見て、ドライアドは目を見開いた。しばらくして伸びた髪が元に戻っていく。
「はぁ……あなた方に害意がないのは分かりました。もう普通にして頂いて結構ですよ」
「ああ、分かってもらえて良かった」
二匹が同じようなタイミングで体を起こす。クエレは腹を出すことに抵抗はなく、踏まれることが嫌なのだろうか。
「それで訊きたいことがあるとのことですが、どのようなものでしょうか?」
ヘルトは十年前に魔物の集団暴走が発生した原因について尋ねた。自分が元は人間だったことについては伏せた。
「あなたは十年前のあの時、命令を受けなかったのですか?」
ドライアドが訝しげに聞いてくる。
「ああ……俺が生まれたのはそれよりも少し後だからな」
「え? アニキってオイラより年下なの? その厳ついナリで」
「生まれてから十年も経っていないというのですか? その禍々しい風貌で」
「……そうだ。命令というのは誰からのものだ? 森全体の共有意識のようなものに繋がっているのは感じられるが、それが関係するのか?」
「そうです。森全体の意思決定機関のようなものですね。この森には現在、私を含め五名の管理者がいます。そしてその上には森の全体意思を代弁する統括者がいます。統括者の意向を私たち管理者が噛み砕き、具体的な行動として共有意識を通して魔物に命じるのです」
「管理者の他にも統括者というのがいるのか」
「はい、具体的にはこのくらいの石です」
ドライアドが肩幅くらいに手を開く。
「森深くの地下に祀られています。ただの石ではないのは確かですが、詳しいことは分からないですね。私の一番古い記憶でもすでに今と同じように存在していました」
「……そうか」
「それで十年前ですよね。あの時は、人間たちが森の西に火を放ったのです。禁忌発生時の規則に基づき、近くにいた魔物たちを動員して燃えている木を倒し、近くにある人間の拠点へ突進させまし――」
言葉が終わらないうち、ヘルトはドライアドを組み伏せていた。胸の口が低い唸り声を立てながら開いていく。
「何をっ! この魂は……歪んではいるが……黒い魔物、お前は……人間か?」
ドライアドには他者の魂を形や色として見通す力があった。彼女の目にはヘルトの魂は人間のもの――他の人間たちの魂の残滓のようなものが束となってぶら下がっていたが――に見えた。
そしてひび割れ、叫んでいるようにも感じた。死にたがっているというわけではないが、命の使い所を探しているのだろう。
「ああ、そうだ。俺はお前らが魔物をけしかけた村で家族を殺された間抜けな元人間だよ」
赤く長い舌でドライアドの顔を舐めあげた。このまま少女の頭を噛みちぎりたい衝動が走る。クエレが間に体を無理やりねじ込んできた。
「ちょっと待ってよアニキ! アニキは人間なの!? オイラを騙してたの!?」
「…………ご覧のとおりだ。どこから見ても今は立派な魔物だよ」
興奮したクエレに何度も頭突かれ少し落ち着きを取り戻す。ドライアドを解放し、十年前に魔物となった経緯を訥々と話した。
「祠ですか……そういえば、数百年前に人間たちがこの森で集団で暮らしていたことがありました。やがて絶えたようですが」
「アニキはオイラを騙してないの? 信じていいの?」
どうやらクエレには情報が多すぎたようだ。げんなりとして肩を落とす。
「俺は元は人間だし、今は魔物だよ。何でかは分からないが、とにかくこうなったんだ……」
それからは獣人を襲う冒険者を殺したり、木を伐採しようとする木樵を脅して追い返したりした。
前者は妻子を魔物に殺された自分が何の因果か魔物になり、今度は獣人たちを人間から守る。全て見通す神とやらがいるのならば、さぞさもしい自慰行為だと嘲笑っていることだろう。
後者は森からの命令なのだろう、自分の体が勝手に動かされている感じがして気持ちが悪かった。
ドライアド曰く、死んだ木を切ったり木々の間を空けて光が届くようにすることは森にとって悪いことではないそうだ。しかし、人間は自分たちに価値のある木だけを集中して切ってしまうため、それでは森が滅茶苦茶になってしまうのだという。