第3話 獣人の母娘
ヘルトが魔物になってから三年ほど経った。
敵対した魔物は殺して食うが、目につく端から襲うことはなくなった。大半の魔物はヘルトを見ると逃げ出すようになっており、それを追うこともしない。
魔物を殺す度、澱のように溜まっていた憎しみは溶けて消えていった。達成や満足の感情が湧くことはなく、あとには虚無だけだった。
ヘルトの体はさらに大きくなり、爪を振るえば大木でも倒すことができるようになった。目は頭を覆うほどに数を増し、正面と同時に後ろや上下を見ることもできるようになった。
森の共有意識のようなものも感じられるようになった。いつからか魔力の糸が頭の付近から伸び、森に遍在する接続孔のようなものに繋がっているようだった。川の増水や、地すべりで崩れた場所などの情報が一方的に頭に流れてくる。
他の魔物と意思疎通する方法も分かった。伝えたい内容を魔力に乗せて吠えたり唸ったりすることで、共有意識を経由して相手に伝わるようだった。魔物の種類や個体によっても知性に大きな隔たりがあり、やり取りできる内容はそれに依った。
この三年で感じた限り、魔物というものは総じて純粋であった。森と共に生きて死に、殺し殺され、食べて食べられ、番って命を次代に繋ぐ。たとえ自身が喰われる間際であっても、『自分の順番がきたか』くらいにしか思わないのではないだろうか。魔物だけでなく、鳥や獣、魚や虫も人間以外は皆そうなのではないだろうか。
人間だけが生や死に意味を探し、恨みや憎しみに囚われ他者を害する。悪いことだとは思わない。人間が強く持つ情念の裏返しなのだろう。しかしこの厳しくも美しい森の中では、それはどこか贅肉を伴ったものにも感じられた。
ある昼なか、森の浅いところで人間の声を聞いたヘルトはそちらへ足を向けた。くたびれた革の装備をした四十がらみの男が三人、大きな声を出している。ヘルトは見つからないよう距離を取り、遠くから様子を伺った。
「グズグズするな! さっさと歩け!」
「二匹売れば、しばらく遊んで暮らせるぜ」
「なあ、売る前に少し遊んでもいいだろ?」
男たちが下卑た声を上げる。母娘なのだろう、大小二匹の雌の獣人が後ろ手に縛られ、体にも縄をかけられ引かれていた。口には轡を噛まされている。近くに他の獣人の気配はなかった。採集か何かで村から離れたところを捕らえられたのだろう。
昔からの暮らしを変えない獣人は人間から虐げられている。人間だった頃、領都に行った際に、獣人が奴隷として売り買いされているところをヘルトも見たことがあった。
男の一人が乱暴に母親を木に押し付けた。片手で母親の粗末な衣服を剥ぎ、もう片方の手で自分の下履きを下ろしている。
ヘルトはその場を離れようとした。森の理は人間や獣人も含めて適用されるものだろう。強者には弱者の運命を握る権利があるはずだ。それを外から曲げるのは傲慢だろう。
娘が男たちの手を逃れて走り母親に身を寄せる。母親は悲しそうな表情で娘を見ていた。
「暴れるな! 痛い目に遭わすぞ!」
男が娘の髪を強く掴み上げる。母親が覚悟を決めた目で男へ体当たりをした。
うんざりだ。さっさと他所へ行こう。久しぶりに果実を食べに行くのはどうだろうか。ヘルトはぼんやりそんなことを思いながら、男たちを皆殺しにしていた。