第2話 黒い魔物
千を超える人の生が脳裏を高速で流れていく。老若男女、様々な人々の終着は、一様に生きたまま心臓を抉られての死であった。
圧縮された痛みや恐怖に狂いかけたが、感じる部分が摩耗したのか途中からは鈍くしか感じなくなった。憎しみだけが堆く増していった。誰に対する、何に対するものなのかは判然としなかった。
意識や記憶が上塗りされていくような、追い出されていくような感覚を覚えながら、ヘルトは闇の海を揺蕩った。やがて浜に打ち上げられるようにして内的な旅が終わると、意識は現実に浮上した。
「これは一体……どうなっている……?」
目を覚ましたヘルトは自身の体を見て茫然自失となった。発した声は低くなってはいたが、確かに自分のものに違いなかった。少し落ち着きを取り戻す。
首を回し、改めて体全体を見やる。胴体や四肢は魔狼のものに似ていたが、針のような体毛は夜を切り取ったかのように漆黒だった。前肢には長く鋭い爪が生えている。体躯は先日の魔狼より五割増しで大きかった。
尻尾はネズミのもののように無毛で細く、地色で黒く、胴と同じくらいに長かった。意識しなくとも地面には着かず、宙で揺れている。
胸には肩口近くから逆の肩口へと、裂け目のような口があった。開けるとナイフのような歯がびっしりと生え、長く赤い舌が巻いている。
「…………」
言葉はなかったが、喉がカラカラに乾いていた。喉といっても、胸にある口の奥から感じたものであったが。ぼんやりと半ば無意識で水の匂いと音を辿り近くの沢に着いた。
初めての四足歩行に違和感はなく、足を操る順番も意識することなく体が勝手に動いた。先にいた小動物たちが一斉に逃げて散る。舌を出しぺちゃぺちゃと夢中で水を口に運んだ。乾きが治まっていく。魔物にとっても水はやはり命の源のようであった。
沢の水面には鶏の卵を縦に引き伸ばしたような楕円体の頭部が映っていた。大きさは体に対して極端に小さい。毛はなく色はやはり黒だった。二つの小さな目が、顔面の中央から上下左右とも非対称な位置に付いている。光彩は何色とも言えない、光や経時で万色が移ろう不思議な色だった。
ヘルトが知る限り、今の自分に似た動物や魔物はおらず、その相貌はまさしく異形であった。
しばらく放心していたが、ややあって正体を取り戻す。強い倦怠感を感じ、そのまま沢のそばで体を丸めて寝てみた。始めは落ち着かなかったが、何度か調整するうちにしっくりくる場所が見つかった。
そのまま二昼夜、ヘルトはその場を動かなかった。水を求めてやってきた動物たちは迷惑そうにヘルトから距離を取っていた。
やがて突と体を起こし再び水を飲む。
「まさか魔物になるとはな……まるでタチの悪い冗談だ」
呟いた言葉は確かに人間のもので、自分が元は人間だったと思い込んでいる気の触れた魔物ではないのだと思わせてくれた。
この二日間で何度も自問を繰り返した。原因は分からないが自身が魔物に変じようとは。静かに死ぬべきだろうか。……いや、どうせ拾った命だ。魔物どもを殺せるだけ殺してやろう。
魔物になったヘルトは強かった。突き上げるような欲望のまま、魔物を見つけては一方的に嬲り殺し喰った。爪で引き裂き、尻尾で薙ぎ払い、魔法で焼いた。
胸の大口を開けて殺した魔物を齧る。生を奪い享受する高揚感が体を巡った。肉を食べるほど体は大きくなり、力も強くなった。血を啜ると脳天が痺れた。魔力と目の数が増えていく。
ヘルトの人間としての意識は浮かんだり沈んだりした。たまに深く沈んだまま、しばらくそのままの時もあった。
ある夜、寝込みをゴブリンの群れに襲われた。返り討ちにした後で辺りを探ると、近くにゴブリンの集落を見つけた。戦えない雌や年老い、幼体がいたので全て殺した。
異質な臭いを捉え、集落の端にある粗末な小屋の戸を押し開ける。元は森を訪れた冒険者であったのだろうか、人間の女が数人繋がれていた。少しでもヘルトから距離が離れるよう、互いに身を小さくして寄せ合っている。繁殖用として生かされているのだろう、全員が脚を潰されていた。
「死にたいか? そうなら苦しまずにやってやる」
ヘルトが人間の言葉で尋ねる。女たちは驚いていたが、しばらくして言葉の意味を理解すると、互いに暗い目を合わせることもなく頷いた。死の寸前、ヘルトには女たちが救われた表情をしたように見えた。その後、火魔法で集落ごと全て焼いた。
この世はクソだ。魔物は死ね。
ヘルトは無差別に魔物を殺しながら、森の奥を目指した。深くへ行くほど、魔物はより強くなった。木々は古く、大きくなった。枝や葉の重なりは深くなり森は暗くなった。空気中の魔素はむせ返るほどに濃くなった。
まれに魔物相手に深手を負うことがあっても、隠れて何日か休むと傷は不思議と癒えた。そんな時は体の内で、何かが目減りするような感覚があった。
血煙を上げて爪を振るい、余勢で体を捻り尻尾を叩きつける。魔法で作った岩の円蓋で群れを閉じ込め、そのまま狭めて潰した。眼に魔力を通すと視線があった相手は錯乱して明後日の方向に走ったり、痙攣してそのまま死んだりした。
高くまで上がった血が地面を雨のように打ち、木々の枝には千切れ飛んだ臓腑が引っかかっている。魔物たちの肉塊に囲まれて、返り血で濡れたヘルトは意識せず引き笑った。しばらくそうしていると、いくつかの目から涙が滔々と流れ出す。ヘルトは体の反応を他人事のように感じていたが、やがて自分は嗚咽しているのかもしれないと思い至った。