しにたくない
「なァ、一体どこに行けば死ねるンだ?」
彼は尋ねた。
誰かが答えた。
「深い深い海の底へ行けば」
彼は答えた。
「もう行ッたゼ」
誰かが答えた。
「あの無限に広がる空の向こう側へ行けば」
彼は答えた。
「もう行ッたゼ」
誰かが答えた。
「病院に行けば」
彼は答えた。
「病院ニ行けば死ねるのカ?」
その誰かは頷いた。
「うんきっと死ねる」
彼は答えた。
「じャあ、そうしよう」
そして、口角が上がって三日月みたいな笑顔を見せた。
一日の診療受付が終了し、救急のみの受付に移行する頃に、その男はふらりと現れた。
「すまなイ、まだ受け付けは終わッてナイか」
受付を担当していた女性職員は、男の声に振り向いて、その様相に背筋がぞっとした。
黒いぼろぼろの服を、夏にもかかわらず何重にも着込んでいる。ズボンはこれまた黒くダボダボで、千切れに千切れてまるで布の方が足に絡み付いている様な損耗具合である。靴も何年履いてきたのかわからないような履き潰され方をしている。
そんな服を痩せぎすの長身の男が着ているから、まるで死神のようなシルエットをしている。何より特徴的に光る長髪の隙間から見える目は、いかなる闇よりも真っ黒であった。
「な……なんでしょう」
「診察を受けたイ。ちょッと診てもらいたくてな」
恐ろしさと同時に、普通の患者と同じように接していないと、何をされるか分からないと感じた。体の奥底から無限に湧いてくる本能的な恐怖を出来るだけ感じないように、なるべく平静を保って応対をした。
「どこの具合が悪いのでしょうか」
普通にしなければ恐怖で死んでしまう。私は死にたくない。
「あァ……どこが悪いとかじャないんだが、調子が悪いんだナ」
「……何科で診察を受けましょうか」
ここは総合病院であるため、診療科が多数存在する。彼がどこに異常を感じているのかによって、どの科を受けるかは変わってくる。
男は少し考えて答えた。
「そうだなァ……頭に関する所かナ」
「神経科で……しょうか。」
「そこデ頼む」
女性職員は震える声で神経科へ内線を繋ぎ、診察を受けたい者がいる旨を伝えた。
とにかく恐ろしい痩身の男が診察を受けたい、そう聞いた神経科の医者は、とりあえずその患者をこちらに通すようにと答えた。
成程確かに恐ろしい様相の患者だ、と医者は思った。何より見た目だけの恐怖では無いことも、医者は感じていた。
目の前の男から、理由なき恐怖を感じる。危険を感じた時の焦燥を煽る恐怖でもなく、視えないからこそ感じるじっとりとした恐怖でもなく、飲み込まれるような、引きずり込まれるような恐怖。闇の中に取り残されるのみならず、その先に歩かせ続けられるような、一寸先どころか全てが暗黒の世界から二度と抜け出せないような恐怖。
「……どこか具合が悪いのですか、急に倒れたとか、視界が安定しないとか、上手く歩けないとか」
「いいヤ、倒れもしなイし、ちャんとお前は見エてるし、ここまで自分の足で歩イてきた」
「で……では、他になにか気になることは……。」
「身体がおかしいとかで、気になることは無イんだナ」
男はそこで一拍置いて、普通の人間なら言わないはずの言葉を続けた。
「死にたいンだよな」
医者はその言葉の意図がわからなかった。それなのに、口だけは勝手に動いた。
「死にたいのですか……?」
「そウ、死にたい」
「どんな風に」
「どンな風に……例えば、テストが上手くいかなかったから死にたイみたいナ。あるいは、仕事の上司にこっぴどく叱られたから死にたいみたいナ。あとは、結構期待してた懸賞に当たらなかったから死ニたいみたいナ」
「……」
何か彼にとって気に入らない事を言えば死んでしまう、そう感じた。私は死にたくない。
「そういうの全部試してみたんだ。だけどナ、どれを試してみても死ねなかッた。そのうち、死ぬッてどういうことなんだろうと思ってな。興味が湧いた。いろんなこと、やったヨ。」
「どんなことを」
「ガソリンを被ってマグマに飛び込むとか、両手両足に重石を括りつケて海に飛び込むとか、超音速機の機体ににくッついて飛んでみるとか、そこから着の身着のまま飛び降りるとか……とにカく出来そうなことは色々」
「それは……大変なことで」
「でもダメだった。死ねなかッたのさ。だから色んな人に聞いてみた。世界中の色ンな人に。そうしたら」
「そうしたら……」
「誰かが病院に行けって言ったから、あア、病院に行けば死ねるのかと思って来てみた。そンだけだ」
「では、アなたの病状は、死にたいのに死ねない、ですか」
「ア?……確かにそうだナ。病状は、死にたいのに死ねないダ」
「分かりました。やれることは出来るだけやりましョう」
医者は彼に対し検査を行った。どの検査でも、異常は見られなかった。
医者は彼の体を切ることにした。手術室で、男の体にメスを入れた。肉体に切り込みを入れても、血が漏れてきたところから血が止まり、傷がなくなる。
「ああ、これじャあ死ねない訳ですね。他にも何かやってみましょう」
次は首を掻き切ってみる。それでも死なない。
「……」
肋骨から心臓に深くメスを突き立ててみる。メスを抜くと血が勢いよく吹き出るが、十秒もたたずに血は止まり、傷は綺麗さっぱりなくなる。
うなじを切開して、延髄を取り除こうとした。傷が治るスピードが速すぎて、不可能だった。
傷が治るのが速いので、頭蓋を切り開き、大脳皮質をわざわざめちゃくちゃにしながら脳幹を切除した。
男が死なないのに躍起になってそれをした医者は、脳幹の切除が上手く行った事に驚き喜んだ。そこで、男の異変に気が付いた。
切除した脳幹と、男が青白く光って見える。のみならず周りに青白い光がふわふわと湧いてきて、空間を広く埋めつくす。その光はだんだんと男に集まっていく。そして集まりきったところで、光と男は忽然と消えた。その消える瞬間に、男の顔が医者の目に焼き付いた。
確然とした顔の輪郭を持たぬまま、髪は逆立ち、男の真っ黒であった目は青白く光り、医者をじっと凝視していた。
それが医者の意識に、今まで自分が行ってきた狂気の言動が一斉に蘇えらせた。
心臓を突き、喉を掻き切り、延髄を覗き、脳幹を取り除く。
「ああああああぁぁぁぁ!!」
喚き、嘔吐し、メスを自分自身の心臓につき立てようとしたところで、異変に気づいた他の医者が彼を自殺未遂に終わらせた。
後日、手術室で一人相撲の様に手術まがいの事をして、更に何故か自殺しようとしたその医者は、重度の精神疾患であると診断され、精神科病院に入院することになった。その日、受付を担当していた女性職員も、突然パニックを起こしたため、同様に精神科病院に入院した。
彼らは自分達の勤務先である総合病院の精神科には入院しなかった。あくまで別の病院に行きたい、と言い張った。
「あそこはダメなんだ」
正確にはそう言っていた。彼らを診察したカウンセラーにも、何故ダメなのか、理由は明かさなかった。
「なァ、一体どこに行けば死ねるンだ?」
彼は尋ねた。
誰かが答えた。
「病院に行けば」
彼は答えた。
「もう行ッたぜ」
彼は、死なない。
「俺八死なないのカ」
彼は溜息を付いて、その『誰か達』に尋ねた。
「ところでお前達……何者なンだ?」
「お前だヨ。死んだことに気づいてなイから、死ヌ事が出来ない存在サ」