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ほたる亭のあやかしごはん~天狗の町で過ごす夏休み~  作者: 栗栖ひよ子
二ノ膳 河童と食べてしまったきゅうり
9/37

(1)

 その日初めて、私は夢の続きを見た。


 引っ越し前、最後の夏祭り。お父さんとはぐれてしまった私は、不思議な声に導かれて、神社の軒先で雨宿りすることになった。

 背中を建物に預けると、痛かった足も、きゅうくつだった帯も、少し楽になるような気がした。

 やっと人心地ついてふーっと息を吐くと、隣に背の高い大人が立っていた。


「えっ……!?」


 いつの間に現れたのかまったくわからなくて、驚きの声をあげてしまう。

 じっと見つめていると、その人はくるりと私のほうを見た。


「だれ……? さっきの、声の人……?」


 夏祭りで売っていたお面をかぶったその人を、私は最初女の人だと思った。つやつやした長い黒髪を、ポニーテールにしていたから。

 その人は、黙ってうなずく。

 浴衣から覗く筋肉質な腕と、さっきの低い声でお兄さんなのだとわかった。


「お兄さんも、雨宿りなの?」「いつ隣に来たの?」「お父さんの、知り合いの人?」


 いくつか質問したけれど、彼は首を縦に振るか横に振るしかしてくれず、声は出してくれなかった。唯一、


「雨、きらい。どうしてお祭りのときはいつも雨なのかな」


 とつぶやいたときだけは、何か言いたそうなそぶりを見せていたが。

 せっかく、すてきな声だったのに。もっとお話してみたかったのに。

 残念に思ってうつむくと、彼がふしぎな下駄を履いているのが目についた。

 底の部分からかまぼこ板が伸びてるような、竹馬みたいな下駄。背がものすごく高いと思ったのは、この下駄のせいもあったみたいだ。


「こんなお靴で、歩けるの? ころばない……?」


 心配になって尋ねると、彼はふっ、と笑ったような息を漏らした。お面のせいでわからなかったけれど、きっと微笑んでいたのだと思う。

 大丈夫だよ、と言い聞かせるようにゆっくりうなずくと、彼は私の頭を優しく撫でてくれた。

 知らない男の人に頭を撫でられるなんて初めての経験だったから、私は真っ赤になってしまう。心臓がとてもドキドキして、ちょっとだけ泣きたいような気持ちにもなって、それが初恋だったと気付くのは、もっと後のこと。


「お兄ちゃんは、結婚しているの?」


 口から心臓が飛び出そうになりながら、私はそんなことを聞いていた。彼が首を横に振ったので、とてもほっとしたのを覚えている。


「じゃあ私が、大きくなったらお嫁さんになってあげるよ!」


 頬を紅潮させながら、一生懸命背伸びをしながら、そんな台詞を彼に投げつけていた。

 なんでそんなことを言ったのか、今でもよくわからない。『およめさん』とか『おかあさん』に憧れる時期だったのか、子どもだから恐れを知らなかったのか。

 案の定、彼は何の反応もできずに固まっていた。


「夏芽ー!」


 私を呼ぶお父さんの声が、遠くから聞こえる。雨はいつの間にかあがっていたみたいだ。


「おとうさん? ……おとうさん!」


 神社の前を走って通り過ぎようとしているお父さんに、叫びながら駆け寄る。


「夏芽! だめじゃないか、手を離しちゃ。すごく心配したんだぞ」

「ごめんなさい。でも、お兄ちゃんが……」


 ぎゅう、と抱きしめるお父さんの腕から頭を離して振り返ると、彼の姿は境内から消えていた。


「夏芽? お兄ちゃんって誰だ?」


 お父さんが不思議そうな顔で私に尋ねる。


「……わかんない」


 答えながら、彼に触れてもらった頭に手を伸ばす。

 そこだけまだあたたかい気がして、お父さんに手を引かれながら何度も、私は彼のいた場所を振り返っていた。



 おばあちゃんが朝食を作る包丁の音と、おいしそうな匂いで私は目を覚ました。お味噌汁がコトコト煮込まれる音と、鮭を焼いているにおい。炊飯器からしゅーしゅー吹き出す湯気。

 いちおう目覚ましはかけておいたのだけど、鳴る前に目が覚めたのは久しぶり。

 お布団をたたんで押入れにしまってから、Tシャツとジーパンに着替える。おばあちゃんの部屋の鏡台を借りて、肩までの髪をポニーテールにしながら、今朝見た夢のことを考える。

 引っ越す前に行った、夏祭りの夢だった。ぼんやり淡くなった記憶の輪郭をなぞるような、ホタルの光みたいに優しい夢。

 きっと、いつか見た夢の続き。あの日のことを、やっと最後まで思い出すことができた。


「初恋……だったんだよね、たぶん」


 初恋というか、男性にドキドキしたのがあのときだけだったから、私の人生で唯一の恋とも言える。

 あのときの男性は、まだこの町にいるのだろうか。十年前に若者だったということは、今はおじさんになっている可能性も高いけれど。

 あの一方的な逆プロポーズの約束を、彼は覚えているだろうか。覚えていて欲しいような気も、恥ずかしいから忘れていて欲しいような気もする。乙女心は複雑だ。

 そこまで考えて、木の上に立っていた浴衣姿の男性をふっと思い出す。

 そういえば、同じような高い底の下駄を履いていた。髪も長かったし、雰囲気も似ていたような気がする。


「それに、声も」


 夏祭りの男性の声は、はっきりとは思い出せないけれど、低くて落ち着いた声だったのは覚えている。浴衣の人は一言しゃべっただけだから、それだけで“似ている”とは決められないけれど。

 もしかして、浴衣の人が初恋の君なのだろうか。もしそうだったら、また会えるかもしれない。案外、近くに住んでいる可能性もある。


「あとでおばあちゃんに聞いてみようかな……」


 心臓だけ数センチ浮いているような、そわそわドキドキした気持ちで、私は台所に向かった。


「おばあちゃん、おはよう。私も早起きして手伝おうと思ったのに、おばあちゃんはもっと早く起きていたんだね」

「おはよう夏芽ちゃん。年寄りになるとね、早く目が覚めちゃうのよ。朝食を作り始めたのは六時半だけど、もっと早くから起きているの。このへんの年寄りの間では、五時くらいから早朝ウォーキングするのがはやっているのよ」

「ご、五時って、まだ明け方だよね」


 おじいちゃんおばあちゃんたちのほうが、私のような若者よりパワフルなのでは、と思う瞬間である。


「おばあちゃん、なにか手伝うよ」


 と声をかけたのだが、おばあちゃんは魚焼き器の様子を見ながらお味噌汁の味見をしている。なんだか、お茶碗の用意くらいしかできることがなさそう。


「もう、ご飯が炊きあがるのを待つだけだから大丈夫だよ。それだったら、そこに置いてある夏祭りのポスターを店先に貼ってきてもらおうかねえ」

「これ?」


 テーブルの上に置いてあった、丸めたポスターを広げてみる。お盆の時期に四日間かけて開催される、真鍋町の夏祭りのポスターだった。

 一日目は山の上の神社から天狗さまが下りてきて、そのまま町中を大名行列みたいな天狗行列が練り歩く。二日目と三日目は山車がメインで、四日目の最終日にはまた天狗行列。山の上の神社に天狗さまが戻って行くまでがお祭りだ。

 私もこのお祭りが大好きで、引っ越してからもお盆に帰省したときには足を運んでいた。おばあちゃんと行くと、好きな屋台をいろいろ買ってふたりで分け合い、たくさんの種類が食べられるのが嬉しかった。


「夏祭り、今年もおばあちゃんとふたりで行けるかな?」

「あら、夏芽ちゃん。もうおばあちゃんと行くのは恥ずかしい歳だと思っていたのだけど、いいの?」


 確かに、知り合いが多ければ恥ずかしかったかもしれないけれど、地元の同級生たちはみんな私のことなんて覚えていないだろうし、覚えていても気付かないだろう。今までだって、声をかけられたことなんて引っ越して最初の数年くらいだ。

 これが親だったらちょっと恥ずかしい気持ちもあるのだけれど、おばあちゃんに対してはそんな気持ちがまったく沸かないのが不思議だ。親よりも友だち感覚だからかもしれない。


「そんなことない。一緒に行きたいな。おばあちゃんと行くと、屋台の食べものが一番おいしく感じるんだ」

「あらあら。嬉しいこと言ってくれちゃって」


 おばあちゃんは微笑みながら、私にもお味噌汁の味見をさせてくれた。うん、いつもながらおいしい。ちゃんとダシから取るおばあちゃんのお味噌汁は、夏場でもおかわりしたくなってしまう。今朝の具は豆腐とわかめで、おじいちゃんが大好きだった組み合わせだ。


「……おばあちゃんは、おじいちゃんと一緒に食べるのが一番おいしく感じられた?」


 そういえば、おじいちゃんもおばあちゃんもあまり外食をしなかった。いつでもふたりで食卓を囲んでいて、何十年も続いてきた日常なのに、その姿はとても幸せそうだった。


「そうだねえ。たまに婦人会なんかで食事に行ったりすると、おじいちゃんが一緒だったらもっとおいしく感じたんだろうなって思うときがあったよ。だからこそ、毎日の食事の時間が大事だと思えたり。夏芽ちゃんはどうなんだい? お父さんやお母さんと食べる食事はおいしい?」

「私は……最近、全然ダメなの。中学生になったくらいからかな、なんとなく親と一緒に食卓を囲むのが苦痛になっちゃって、味もよくわからなくなっちゃった」


 不登校のことはとても打ち明けられないけれど、素直な言葉がぽろっと口から出ていた。


「難しい時期だものねえ。おばあちゃんにもそんな時期があったよ。何が原因ってわけでもないのに、親に反発してしまったり、家の居心地が悪かった時期が」


 おばあちゃんは、卵にたっぷりの刻みネギを入れたものを、菜箸でかき混ぜている。ネギ入りの卵焼きに大根おろしをたっぷりかけたものは、私の好物だ。ポン酢をかけても醤油をかけてもおいしい。


「おばあちゃんも、そうなの?」

「そうだよお。夏芽ちゃんのお母さんにもそんな時期があったねえ。夏芽ちゃんと同じ歳のころなんて、毎日ぴりぴりしていて、おばあちゃんが話しかけてもそっけなかったし」

「お母さんも!?」


 あの、しっかりしていて、何でもきちんとやってしまうお母さんにも、私みたいな時期があったの?

 そんなこと、ちっとも教えてくれなかった。自分たちから話してくれたら、子どもだって親を信用できると思うのに。


「大人ならみんな、心当たりがあると思うよ。だから夏芽ちゃんもあまり悩まないで、今はそういうものだけどいずれ治まる、くらいに思っていればいいんだよ」


 お母さんが、『夏芽は反抗期なのかしら』とお父さんに愚痴を言っているのを聞いたことがある。そのときは『反抗期って言葉でひとくくりにしないでよ』って思っていた。

 でも、おばあちゃんの言葉は胸にすとんと落ちてきた。子ども扱いじゃなくて、『同じ経験をしてきた人生の先輩』として心からのアドバイスをくれたからかもしれない。


「ちょっと気が向いたときだけでも話してくれたら、親は嬉しいものだからね。夏芽ちゃんも無理はしないで、話してもいいかって思えたときだけ家族団らんを楽しめばいいのよ」


 炊飯器から、お米の炊けた合図の音楽が流れた。


「うん。……ありがとう、おばあちゃん。私、急いでポスター貼ってきちゃうね!」


 家を出て、塀に沿いながらお店の正面に向かう。入口の引き戸にポスターを貼っていると、視線を感じた。

 くるりと振り向くと、向かいの家の木の上に浴衣姿のシルエットを見つけた。今回は、枝の上で中腰になって座っている。

 私の心臓が、ドキン、と痛いくらいに高鳴った。


「あ、あの、昔お祭りで会ったことって」


 声をかけようと思ったのに、彼は木からざっ、と下りて塀の向こうに消えてしまった。下りたはずみでしなった枝から、緑色のはっぱが数枚、はらはらと地面に落ちていく。

 あの高さからジャンプして、大丈夫なんだろうか。ハシゴがないと登るのだって難しい場所なのに。

 前回といい今回といい、なんだかおかしい。もしかしたら人間じゃないのかも、という気持ちがむくむくと私の中に沸いてきた。

 あの人が私の初恋の君と同一人物だとしたら、初恋が人間じゃなかったということになって……。つまり、私は親友も好きな人も人間じゃないという、とても稀な幼少期を過ごしたことになる。


「子どものころは優しくしてくれたのに、どうして逃げちゃうんだろう」


 まだそうと決まったわけではないのに、彼の態度を寂しく思っている自分がいた。思い出したばかりの初恋なのに、胸がちくんと痛むのを感じた。


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