(7)
「ここの家なの?」
「間違いないニャ」
次の日。ソウセキを抱いた私は、一軒屋の塀のまわりを何度も行ったり来たりしていた。
「早くピンポンを押すニャ」
ソウセキは早く家に入りたくてうずうずしていたけれど、緊張してしまってどうしてもチャイムを押せない。やっぱり、おばあちゃんについて来てもらえば良かった。
「で、でも、飼い主さんがいるかどうかわからないし……」
「夏休みだからたぶんいるニャ」
塀の隙間から庭を覗くと、大きな木の根元にお墓らしき小さな山があり、猫の首輪と餌皿が置いてあった。
「あれって……」
「吾輩の首輪ニャ。あの木に登ってお昼寝するのが好きだったから、きっと飼い主があそこにお墓を作ってくれたんだニャ……」
ソウセキは今私の腕の中にいるのに、猫だったころのソウセキはお墓の中にいるのか。なんだか変な感じだ。
小奇麗な洋風の一軒屋はしーんとしていて、人の気配はしない。
「ねえ、やっぱり、今日は誰もいないんじゃ」
そう言いかけたとき、玄関のドアがガチャっと開いた。
「飼い主ニャ!」
ソウセキは私の腕からぴょんと飛び降りると、一目散に玄関に向かって走って行ってしまう。
「ソ、ソウセキ! ちょっと待って」
私も慌てて、門の入り口から家の敷地に足を踏み入れる。
「その名前……」
足元にすり寄るソウセキに気付かない男の人は、私を見て目を丸くしていた。
ちょっと癖のある長めの黒髪で、眼鏡をかけた男の人。細身で、半袖のシャツから出た腕が白かった。大学生か、社会人になりたてくらいの歳に見える。
「あ、あの。こんにちは……」
一応こちらも失礼がないように、荷物の中から清楚なブラウスとスカートを引っ張り出してきたのだけど、やはり不審に思われているだろうか。むりやり笑顔を作るが口元が引きつっているのが自分でもわかった。
「今、ソウセキって言いました?」
「は、はい。あの……」
どうしようどうしよう。いやな汗が噴き出てきたけれど、ソウセキの前だし私がしっかりしなければ。飼い主さんの足元で、不安そうに私を見上げているし。
「えっとあの、お宅のソウセキちゃんのことでお話があって……」
汗だくになりながらそう告げると、男性のうしろから中年の女性がひょこっと顔を出した。
「あら、もしかして皐月さんのところの夏芽ちゃんじゃない!?」
「あ、はい、そうです……」
久しぶりに会った親戚のおばさんみたいな高いテンションで迫ってこられたので、思わず身を引いてしまった。太めで明るくて、男性とはだいぶ雰囲気が違うけれど、親子なのだろう。
「何年か前のお正月で見かけたっきりだったけど、大きくなったわねえ~! 今、高校生だっけ? おばさん、赤ちゃんのときの夏芽ちゃんを抱っこしたこともあるのよぉ!」
「そ、そうなんですか?」
「皐月さんとは仲がいいからねえ。そうそう、修治も、夏芽ちゃんが小さいころ、ほたる亭で会って遊んだことがあるじゃない」
「ああ、そういえば……」
男性は思い出したようにつぶやいたけれど、私の記憶からは出てこない。
「で、夏芽ちゃんがなんでうちに?」
おばさんはやっと、困ったように立ち尽くす私の様子に気付いてくれたみたいだ。
「ああ、ソウセキのことで用があるみたいで」
話を遮られたかたちの男性も、やっと我に返ったように真剣な顔を取り戻した。
「だったら、立ち話もなんだし、あがってもらいなさいよぉ! ちょうど昨日焼いたマドレーヌがあるし」
「は、はあ……」
おばさんは手招きしながら、早足で家の中に消えてしまった。
「母もああ言っているので、どうぞあがってください」
「じゃあ、おじゃまします……」
絨毯が敷かれた、立派な応接室に通される。アップライトのピアノやガラス戸つきの棚が置いてあって、いかにも『いいおうち』という感じだ。
長くてふかふかのソファに腰を下ろすと、飼い主さんはななめ隣のソファに座った。ソウセキがすかさず、その上にぴょんと飛び乗る。
紅茶とマドレーヌを運んでくれたおばさんは、電話がかかってきたみたいで「ちょっとごめんね」と言いながら席を外してしまった。
「ご挨拶が遅れました。僕、日暮修治といいます。地元の大学の教育学部を卒業しまして、今年の春から真鍋中学の国語教師をしています。あなたはもしかして、卒業生?」
夏休みだからきっと家にいる、とソウセキが言っていたのは先生だったからなのか。国語の先生というのがこの人の雰囲気に似合っていると思った。
「いえ、私は小学生のときに真鍋町から引っ越してしまって、今は夏休みの間だけ祖母のほたる亭を手伝いに来ています。あ、箸本夏芽っていいます」
「そうだったんですか。だから母もしばらくお見かけしていなかったんですね。僕が夏芽さんにお会いしたのはたぶん引っ越し前でしょうし。あ、どうぞお茶を召し上がってください」
「い、いただきます」
華奢なティーカップは高価そうで、持つ手が震えてしまう。貝殻の形のマドレーヌもお茶請けに出してもらったが、どのタイミングで食べればいいんだろう。
日暮さんはリラックスした様子で紅茶を口に運び、それがとても様になっていた。
「さっき、ソウセキと言っていましたね。ソウセキは僕が飼っていた猫なんです。去年亡くなってしまったんですけど……。もしかして、夏芽さんはソウセキが生きているときの知り合いなんですか?」
生きているときは知らないし、なんならソウセキは今もあなたの膝の上で丸くなってますよ、なんて急に言えるわけがない。
「えっと……」
どう説明しようか言葉を選んでいると、日暮さんは申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません。急にこんな知らない男の家にふたりきりじゃ緊張しますよね。今は父も母も出かけていて」
「いえ……」
私の緊張を違う理由にとってくれた日暮さんは、間ができないように自分のことをいろいろ話してくれた。
「僕の修治っていう名前、太宰治の本名と一緒なんですよ。幼い頃にそれを知ってから、古典に目覚めてしまいまして。好きが高じて国語教師にまでなってしまいました。ソウセキ、という猫の名前も、僕がつけたんですよ」
「そうだニャ。飼い主はこの家の中でいちばん吾輩をかわいがってくれたニャ。飼い主が子どものころから、ずっと一緒だったんだニャ」
ソウセキが、膝の上で目を細めながら自慢げに教えてくれる。
「そういえば、夏芽さんもソウセキと同じ文豪の名前なんですね。ふたりで夏目漱石になるなんて、いいなあ」
「ソウセキと、おんなじこと言ってる……」
そうぽろっとこぼしてしまうと、日暮さんがカップを持ったまま固まっていた。
「今、何て……?」
まずい、と言い訳を考えている間に、日暮さんは前のめりになって尋ねてきた。
「あの、夏芽さん。変なことをお聞きしますけれど、あなたはその、ソウセキの声が聞こえているんですか? もしかして霊感があって、ソウセキの霊が見えているとか?」
日暮さんの必死な表情は、まるでその可能性にすがっているようで、この人の中でソウセキはまだ過去になっていないんだ、と息が苦しくなった。
「夏芽……。飼い主に説明して欲しいニャン。吾輩がここにいること……」
「うん……」
私は日暮さんに、あやかしや神さまが見える体質なこと、猫又になったソウセキと偶然出会って、ここに連れてきて欲しいと頼まれたことを話した。
「猫又……!? それって確か、長生きした猫がなる妖怪ですよね。ソウセキは十二歳までしか生きていないし、どうしてそんなことに」
「私にも、詳しい理由はわからないんですけれど……。でもソウセキがいるのは本当です。今も日暮さんの膝の上で丸くなっています」
「ソウセキが……」
日暮さんは震える手で、ソウセキの身体をなでるように手を動かした。いつもこうしてなでていたのだろう。見えていないはずなのに、その手はソウセキの身体にぴったりと一致していた。
ごろごろごろ、とのどを鳴らしながら顔をすりよせて、ソウセキもその手に応える。
ぽろぽろと涙を流し始めた日暮さんが、眼鏡を外して顔をぬぐった。
「すみません……。いい歳した男が人前で……」
「いえ、ぜんぜん気にしていません」
私は唇をぐっと噛みながら、もらい泣きしてしまいそうなのを必死に我慢していた。
「だめですね、僕まだソウセキのこと、ふっきれていないんですよ」
はぁ、と息をついて、日暮さんは自嘲するように笑った。膝の上の透明なソウセキに目を落とす。
「ソウセキね、太っているでしょう? 餌は普通の量しか食べないのに、太りやすい体質で。獣医師さんにもね、亡くなる数年くらい前から『ダイエットフードに変えろ』って言われて……。低カロリーの高齢猫用キャットフードに変えたんですけど、これがまた全然食べてくれなくて」
私がじっ、とソウセキを見つめると、ばつが悪そうに目をそらされた。
「ふつうのキャットフードと混ぜて与えてみたり、いろいろ工夫はしてみたんですが、ソウセキは嫌がっていましたね。いたずらをする回数が前より増えたし……。結局、数年後に腎臓を壊して亡くなってしまって。僕は今でもずっと後悔してるんです。ソウセキは長生きできなくても、ずっと自分の好きなものを食べて生きていたかったんじゃないかなって。僕がそれを奪ってしまった……」
日暮さんの懺悔を聞いて、私はハッとした。これは、おばあちゃんがおじいちゃんに対して抱いている後悔と、おんなじ……。
「健康に気を遣うなら太り始めた時点で、心を鬼にしてダイエットフードだけ与えていれば良かったんです。ソウセキかわいさに甘やかしてしまって、どっちつかずで……。晩年を幸せに過ごさせてあげられなかったのは、僕のせいなんですよ。そのせいでソウセキは猫又になってしまったんじゃないかな。おいしいキャットフードに未練があって……」
「違うニャン!」
膝の上でおとなしくしていたソウセキが、急にすくっと立ち上がった。
私が目を丸くしてソウセキを見つめているので、日暮さんが私と膝の上を交互に見ている。
「吾輩が猫又になったのは……、キャットフードが食べられなくなったのは……、飼い主のせいじゃないニャン! 吾輩が、吾輩が悪いんだニャン……!!」
「ソウセキ……?」
ソウセキの目からも、日暮さんと同じ大粒の涙がぽろぽろとこぼれていた。
「吾輩、飼い主が健康のためにキャットフードを変えてくれたこと、わかっていたニャン。でも、味が薄くて、おいしくなくて、わがままで食べなかったニャン……。自分があと数年で死ぬなんて、思っていなかったのニャン……!」
雨のしずくが垂れたように、ズボンがソウセキの涙でじわっと滲む。日暮さんは不思議そうに首をかしげていた。
「しかも、皐月さんや他の町の人から、毎日おやつももらっていたニャン。ダメなのがわかっていて、ねだりに行っていたニャン。だから、吾輩が病気になったのも、治らないで死んでしまったのも、飼い主のせいじゃないニャン。ぜんぶぜんぶ自分のせいなのに、飼い主をこんなに苦しませている吾輩は、ダメな猫なんだニャン……!」
ソウセキは、膝からぴょんと下りると、止める間もなく走り去ってしまった。
「ソウセキ! 待って!」
立ち上がってあとを追おうとしたけれど、今大事なのは日暮さんのほうだ、と思い直して振り返る。
日暮さんもまた、不安な顔でソファから立ち上がっていた。
「夏芽さん。ソウセキは……、ソウセキはどうしたんですか?」
私はぐっとこぶしに力を入れて、日暮さんに向き合った。初対面の大人の男性とソウセキ抜きで話すのは緊張して、のどがからからになっていたけれど、私には伝えなければいけないことがあった。
「日暮さん、ソウセキは日暮さんに謝りたいことがあってここに来たんです。ソウセキは行ってしまったけれど、今の話を聞いてくれますか」
日暮さんもまた、覚悟を決めたようにうなずいた。
キャットフードが食べられなくなったソウセキが行き倒れていたこと。減塩メニューの魚料理をふるまったこと。そして今聞いた話を、できるだけ詳しく日暮さんに話す。
話を聞き終わった日暮さんは、疲れたような表情で大きく肩を落としていた。
「そんなことをソウセキが……。猫又になってしまうくらい、未練を残していたなんて」
未練。その言葉に少し引っかかりを覚える。猫又になるのは、長生きした猫か強い未練を残した猫だ、と日暮さんが教えてくれたけれど、果たして本当にそうなのだろうか。
「夏芽さん。ソウセキを探したいんです。協力してくれますか。僕はまだ何もあの子に伝えていない」
「もちろんです」
私は、力強く返事した。ソウセキのぬくもりを思い出しながら。




