(5)
「おばあちゃん。今日の夕ご飯ね、食べたいものがあるの」
夕方の仕出し弁当も作り終わり、明日の仕込みをしているときに、おばあちゃんにそっと切り出してみた。
「あらあら。リクエストなんて嬉しいねえ、何が食べたいんだい?」
おばあちゃんは糠床をかき混ぜながら、嬉しそうに顔を上げる。
「あのね、おじいちゃんによく作ってあげてた減塩メニュー……。それでお魚の料理ってあったよね。餡かけのやつ」
おじいちゃんは、高血圧で味の濃いものをお医者さんに止められていた。脳梗塞で亡くなる何年も前からずっと、おばあちゃんはおじいちゃんのために減塩メニューを工夫して編み出していた。
「揚げ焼きにしたアジやサバに、野菜を入れた餡をかけたやつかい?」
「うん、それ。それをね、玉ねぎ抜きで作って欲しいんだ。できればみっつ……。ひとつはぬるめにして」
「玉ねぎ抜きで、ぬるめ……?」
おばあちゃんは、何かに気付いたみたいだ。
「夏芽ちゃん、もしかして」
「うん。実は裏の川で猫又に会って……。お腹がすいているみたいだったから、うちにおいでよって誘っちゃったの。その子、キャットフードとかが食べられなくなっちゃったんだって。……まずかったかな?」
「ぜんぜん。猫又のお客さまが来るなんて嬉しいねえ。だったら夏芽ちゃん、一緒に作りましょ。おばあちゃんが教えてあげるから」
「えっ、でも私、料理はぜんぜん」
調理実習でシチューを作ったとき、水の分量を間違えて班のみんなから無言で責められたことがあった。もともと器用というわけでもないし、あの日から自分で料理をすることはトラウマだ。
「大丈夫大丈夫。おばあちゃんが作るところ、いつも見てたじゃない。お手伝いだってしてくれていたし」
「それは小さいときのことで、今はお母さんのお手伝いすら……」
「だったらなおさら、覚えてびっくりさせてあげましょ。ね?」
おばあちゃんが、私の手を握る。ぬかを洗い流したばかりの手はつるつるしていて、ひんやりと気持ち良かった。
「……うん」
ため息を呑みこんだような、両親の顔を思い出す。お料理が上達すれば、少しは安心してもらえるのかな。あきらめなくても大丈夫、夏芽はまだいろんなことができるって、思ってくれるかな。
「じゃあさっそく、今日の夕飯から始めましょうね。大丈夫、夏芽ちゃんは昔から繊細で几帳面だもの。そういう人のほうがね、お料理は上達するのが早いのよ」
おばあちゃんは、うつむいた私の顏を覗きこむように微笑んだ。その瞳の光はとても優しくて、おばあちゃんが言うと本当になるような気がした。
まだまだ明るい夏の夕暮れ。のれんを外したほたる亭の厨房で、私とおばあちゃんは奮闘していた。
「夏芽ちゃん。いきなり魚を三枚おろしにするなんて、そこまで頑張らなくていいんだよ。野菜を切ったり、餡を作ったりしてもらえれば……」
「う、うん。でも……」
包丁を握ったままぷるぷる震えている私を見て、おばあちゃんがおろおろしている。
恥ずかしながら、魚は切り身しか触ったことがない。頭がついたままの魚を自分でさばこうとすると、目が合ってしまって手が動かない。
「ソウセキに……。あ、猫又の子にね、私が作ったものを食べて欲しくなっちゃったっていうか……」
あんな肉球でぷにぷにの手で釣竿を作って、魚を釣ろうとして。悲しそうな顔で、ひもじいのはつらいって言っていた。
きっと私にしか見えないあの子に、何かしてあげたい気持ちになってしまったのだ。
「夏芽ちゃんは、もうすでに、お料理で一番大切なことをわかっているんだねえ」
「えっ、そうなの?」
「そうだよぉ。お料理で一番大切なことは、食べてもらう相手のことを考えること。その人に喜んでもらいたいって気持ちを込めること。誰かにおいしいものを食べさせたいって気持ちがあれば、もう一流の料理人なんだよ」
おいしいものを食べさせたい気持ち。誰かに喜んでもらいたいという気持ち。おばあちゃんがにこにこ顔で語るそれは、私がずいぶん長く忘れていたものだった。
「……私でも、誰かに喜んでもらえるのかな」
喜んでもらうことより、嫌われないこと、迷惑をかけないことのほうが私にとっては大事だった。目立ちすぎないこと。空気になりすぎないこと。そんなことばかり気にしていて、親にもクラスメイトにも、積極的に何かをしてあげることなんてなかった。
「絶対喜ぶに決まっているよ。少なくともおばあちゃんは、こうして夏芽ちゃんといっしょに厨房に立てて、すごく嬉しいよ。孫に料理を引き継いでもらえるなんて、最高の婆孝行だよ」
「そんな、大げさだよ」
こんなちいさなことでもおばあちゃんは喜んでくれる。もしかして自分が「ちいさなこと」と思い込んでいただけで、私にできることはたくさんあったんじゃないかな。
都会のスピードについていけないダメな私でもできることが、たくさん。
「夏芽ちゃん、勇気を出して頑張ってみようか。まずはおばあちゃんの手元をよく見ていてね」
おばあちゃんが隣のまな板で、魔法のようにアジをさばく。抵抗なんてないみたいに、するっと包丁が入っていく。
「同じようにやってごらん。ゆっくりで大丈夫だから」
つばをごくりと飲み込み、覚悟を決めてえいやっと包丁をアジのお腹に刺し入れる。なるべく目は見ないようにして包丁を動かしたけれど、三枚おろしの出来は悲惨だった。ガタガタの切り目だし、骨にたくさんの身がついてしまったせいで食べる部分が少なくなってしまった。
しょんぼりする私の肩をおばあちゃんが叩いて、明るく声をかける。
「最初でこれだけできれば上出来だよ。じゃあ次は……」
片栗粉をまぶしたアジをフライパンで揚げ焼きにしている間に、餡を作る。餡に入れる具材は、細切りにしたピーマンとにんじん、枝豆。しょうゆと砂糖、だし汁を入れたもので具材を軽く煮込み、片栗粉でとろみをつければ完成だ。
とろみをつけると薄味でも満足感があるから、と言って、おばあちゃんはおじいちゃんによく作ってあげていた。
「この料理を作るのも久しぶりだねえ。おじいちゃんが亡くなってからは、減塩メニューは作らなくなっちゃったから……」
おばあちゃんはいろいろ工夫しておじいちゃんの高血圧を気遣ってあげていたけれど、脳梗塞で意識不明になり、そのまま亡くなってしまった。
「おじいちゃんはおいしいものが大好きだったし、本当は減塩メニューも嫌だったんじゃないかな、って思うときがあるんだよ。あの人は優しいから何も言わなかったけれど……。どうせ死んでしまうなら、最後まで好きなものを食べていたかったんじゃないのかねえ」
「おばあちゃん……」
おじいちゃんが亡くなってから、おばあちゃんの気持ちを聞くのは初めてだった。こんな後悔を何年も、おばあちゃんは抱え続けていたんだ。
「そんなことを言ったら、私だって後悔しているよ。私たちが引っ越さなければ、倒れたおじいちゃんをすぐに見つけて、助けてあげられたんじゃないかって……。少なくとも、死に目に会えないなんてことはなかったんじゃないかって、ずっと……」
そうしたらおばあちゃんが、ひとりでこんなに責任を感じることだって、なかったかもしれない。
「夏芽ちゃん……」
フライパンの中で、餡がふつふつと沸騰を始めている。うつむいてしまった私のかわりに、おばあちゃんがコンロの火を消した。
「ごめんね。おばあちゃん、変なこと言っちゃって。さあ、猫又ちゃんが来ちゃうかもしれないから、完成させちゃおう」
気を取り直して、揚げ焼きしたアジの上に透明感のある餡をとろりとかけていく。ふわっと立ちのぼる湯気のあいだから、つやつやの魚が顔を覗かせ、見ただけでつばがあふれてきた。
「うわあ、やっぱりおいしそう! 餡をかけるだけで、つやが出てお魚がすごくおいしそうに見えるね!」
ピーマンと人参の鮮やかな色も食欲をそそるし、これに白いご飯とお味噌汁をつければもうごちそうだ。
「ふふふ、ありがとうねえ」
おばあちゃんは、うちわでソウセキ用の料理をあおいで冷ましている。
「ガタガタになっちゃった三枚おろしも、餡をかければごまかせるし、おいしそうに見えるんだね。おばあちゃん、すごい」
私が興奮して料理をいろんな角度から眺めていると、カラカラ……とお店の扉が開く音がした。




