(6)
「ねえ、もうあそこのうどん屋さんに入っちゃおうよ。お弁当が食べられるところがないんだし、しょうがないじゃない」
「ダメじゃ!」
門前通りのうどん屋さんの前で、私とヒノの攻防が始まっていた。
せっかくお弁当を作って持ってきたのだが、腰を落ち着けて食べられる場所がない。公園は遠いみたいだし、かといって神社のベンチで食べるわけにもいかないし。
「せっかく作ってくれたんだから、もったいない気もするんだな」
「あたしだって夏芽のお弁当を食べたいけれど、場所がないんだからしょうがないじゃない」
私のお財布事情と、高校生ひとりでも入りやすい店構えを考えると、あまり選択肢がなかった。
「ほら、ここだったらいなり寿司とのセットがあるから、みんなで分けられるでしょ。ひとりでうどんを何個も頼んでいたら、さすがに不審に思われるし……」
ヒノは私のワンピースの裾をつかみながら、ふるふると首を横に振る。
「なんでそんなに嫌がるのよ」
「あやしいんだな」
ミヅキとミモリにじっとり見つめられて、ヒノが焦った声を出す。
「そ、それは。頼むうどんの種類で、わしらが喧嘩になったら夏芽が困るんじゃないかと思って……」
「注文するうどんは夏芽に決めてもらえばいいじゃない」
「ごちそうしてもらうんだから、わがままは言わないんだな」
自分だけわがままを言っている体にされたヒノのしっぽが、しゅんと下がる。
「じゃ、じゃが……」
「ヒノも見てよ。いなり寿司、すごくきれいだしおいしそうだよ」
入口に台が置いてあり、ガラスケースの中にセットの見本が置いてあった。うどんといなり寿司のセットはこの店の名物らしい。
お揚げの口の部分にトッピングをしたいなり寿司は、とても華やかで豪華だった。
レンコンの酢漬けを薄くスライスしたもの、甘エビとたくあんを載せたもの。おばあちゃんが言っていた野沢菜との組み合わせもあったし、黄色と紫のおひたしは菊の花だろうか。
それらが漆塗りの箱におさまっている様子は、まるで宝石箱みたい。
「暑いし、ここでぼうっとしているなら早く入りた……」
そう言った瞬間、私のお腹がぐ~っと鳴った。
「あっ……」
あわててお腹を押さえるけど、もう遅い。
「……聞こえちゃった?」
顔を赤くしながらみんなを振り返ると、ヒノが気まずそうに、ミヅキとミモリがにやにやしながらこちらを見ていた。
「ばっちりなんだな」
「やっぱり、お腹すいてるの我慢してたんじゃない。早く入りましょうよ」
「し、しかし……」
ミモリがヒノのしっぽをぐいぐい引っ張る。わあ、容赦ない……と思っていると、うどん屋さんの引き戸がガラガラと開いた。
「お客さまですか? 席、あいてますんで、どうぞ」
どうやら、私がずっと外に立っているのを知って出てきてくれたらしい。エプロンと三角巾をつけた小柄な女性が、なごやかに声をかけてくれる。
「あ……あ……」
ヒノを振り返ると、幽霊でも見たような顔でわなわなと震えていた。
「わ、わし、やっぱりダメじゃーっ!」
そう叫びながら、ヒノは稲荷大社の方向に駆けて行ってしまった。
「あ、あの……? どうかしましたか?」
あさっての方向を見ながらぽかんとする私に、お店のお姉さんが不思議そうな目を向ける。
お店の前でうろうろしたあげく不審者に思われるのは避けたかったんだけど。今はそれよりもヒノが心配だ。
「ご、ごめんなさい。用事を思い出したので、また来ます!」
そう言って頭を下げ、私たちはヒノのあとを追った。
「ヒノーっ!」
足の速いミヅキとミモリの後ろを必死でついていくと、稲荷大社の藤棚の近くでヒノがぼんやり座っていた。
「ああ……お前たちか……」
つぶやく声にはさっきまでの覇気がなく、本当にただのおじいちゃん狐になってしまったみたいだった。
「何なのよ、急に走り出して! 心配するでしょ!」
「そうなんだな。夏芽だって、疲れてるんだな」
ハンカチで汗をふきながら肩で息をしていると、ヒノが「すまないのう」とうなだれた。
「だ、大丈夫! 熱中症にならないように麦茶を持ってきたし! あっ、みんなも飲む?」
紙コップに水筒の麦茶を注いで、みんなに配る。藤棚の下にあるベンチに座って、簡単なティータイムだ。
「は~、冷たい。生き返る~」
帽子をうちわ代わりにして顔をあおいでいると、ヒノが私のおでこに前脚で触れてきた。肉球が冷たくて気持ちいい。
「そうじゃったのう……。人間はわしらより弱いと知っていたはずなのに、すまなかったのう……」
「ヒノ……?」
ミヅキもミモリも、耳をぴんと立ててヒノの話に集中していた。
「もう、隠していても意味がないかもしれないのう。わしがきつねうどんにこだわるようになったのは、さっきのうどん屋が原因なんじゃよ」
何かを思い出すように、遠くを見つめるヒノ。そうしてヒノの、昔話が始まった。
*
あれは二十年くらい昔だったかのう。あのうどん屋は今ほどはやってはおらず、細々と経営を続けておった。そんな中、親父さんが過労で倒れてしまってのう……。おかみさんはその看病で忙しく、残された一人娘がひとりで切り盛りすることになったんじゃ。
毎年一緒に初詣に来るくらい仲のいい家族だったんじゃが、久しぶりに見た娘さんはひどくやつれておってのう……。目の下にはクマができ、手もひび割れてがさがさになっていて、それはそれは同情したものじゃったよ。
稲荷大社にひとりで参拝しに来た娘さんは、お父さんが帰ってくるまで頑張りたい、店をつぶしたくないと必死に願っていたよ。そして娘さんは、お賽銭のかわりにいなり寿司を供えていったんじゃ。うどんの腕は親父さんにはかなわないが、いなり寿司を作るのは得意だからと。
わしはそのいなり寿司を食べて驚いた。昔からいろんないなり寿司を食べてきたが、これほどまでにうまいものは食べたことがなかった。甘すぎるくらい濃く煮たおあげの中に酢飯が詰めてあって、上にはいろいろな具が載せてあった。……そう、さっきあの店で見た、あのいなり寿司じゃ。
わしは思ったのじゃ。幸いにもこの町は稲荷大社が有名じゃ。うどんといなり寿司のセットを名物として売り出せば、店も栄えるし町にも名物ができるのでは、と。でもわしの姿は娘さんには見えないし、そのアイディアを伝える術がなかった。そこでわしは、人間に化けることにしたのだよ。
人間に化けたわしは、お供えされたいなり寿司を持ってうどん屋に入った。そこで、自分は神社の者だと嘘をついて、いなり寿司の味を褒めたんじゃ。このいなり寿司とうどんをセットで売り出してはどうか、と提案したら、娘さんも乗ってくれてのう。
それから先は、さっき見た通りじゃ。とんとん拍子で店の経営は軌道に乗り、うどん屋は門前通り一の有名店になった。今じゃ町のパンフレットにも、名物として紹介されるようになったんじゃよ。
これがわしが、きつねうどんにこだわるようになった理由じゃ。
*
「いやいや、ちょっと待ってよ」
満足そうに息をついたヒノに、ミヅキが思いっきりチョップをくらわせた。
「今の話だと、いなり寿司しか出てこなかったでしょ! どこがどうなって、きつねうどんの話になったのよ」
「そ、それは、そのぅ……」
「まだ何か隠してるんだな。全部話すんだな」
ミモリも、ふさふさしたしっぽでヒノの鼻先をくすぐり始めた。
「ひ、ひいい。わ、わかった。全部話すから、やめてくれ! こ、この話には、続きがあるのじゃ」
ヒノは私の膝の上に逃げ、ふうふうと息を荒くしていた。
「わしはそのあとも、うどん屋のことが心配で、ちょくちょく人間に化けて様子を見に行っていたんじゃ。娘さんはわしに恩義を感じていたのか、いつもお金を取らずにきつねうどんを出してくれた。親父さんが退院して、店も活気づいて、これはもう大丈夫だと思って通うのをやめようと思ったんじゃが……」
ここでヒノが言葉を切って、押し黙る。ミヅキが前脚を、ミモリがしっぽをスタンバイしたので「わかった、わかった」と言ってしぶしぶ続きを話し始めた。
「娘さんが、健気で可愛らしくてのう。しかもいなり寿司ときつねうどんで、わしの胃袋は完全につかまれてしまったんじゃ。つ、つまりじゃ。年甲斐もなく、しかも人間の女子に、わしは惚れてしまったんじゃよ……」
ヒノの語尾が、恥ずかしそうに小さくなっていく。自分のしっぽで顔を隠しているその様子は、まるで初恋を打ち明ける乙女のようだった.
「えっ、ええ~っ!? それって、さっきお店から出てきたお姉さん? 確かに小柄で可愛らしかったけど……」
「でもそれって二十年前の話でしょ? 歳が合わないじゃない」
「あ、そっか」
ついつい話を脱線させてしまった私とミヅキを、ミモリが「しーっ」と注意する。しまった。余計なことを言って、ヒノが口をつぐんでしまうといけない。私は平静を装って、続きをうながした。




