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「ま……待つニャン、夏芽」
「ソウセキ……もう逃がさないから」
壁際に追いつめたソウセキに、両手を広げてじりじりと近寄っていく。
二本足で立って、ぶるぶると震えながら怯えた目でこちらを見つめてくるソウセキ。かわいそうだけど仕方ない。ここは心を鬼にしなければ。
「ソウセキ、覚悟!」
がばっと覆いかぶさった瞬間、ソウセキは私の肩を踏み台にして、ぴょんと飛び越えて行った。
「水は嫌だニャンーーーー!!」
そんな捨て台詞を残して、お風呂場から出て行ってしまう。
「今日もダメだったか……」
ソウセキを猫用シャンプーで洗おうと試みて、数日。毎回すんでのところで逃げられてしまう。最初は、抱っこしただけで何かを察して逃げられ、次はお風呂場の前で逃げられた。今日は自然にお風呂場まで連れて来られたのに、そこで気付かれてしまった。
ソウセキはそのへんの見極めがうまくて、私が何も用意していないときは普通に寄ってくる。お風呂場にシャンプーとバスタオルを用意して、「さあ洗おう」と思ったときだけ気付かれるのだ。この勘の鋭さは猫特有のものなのだろうか、それとも猫又だから?
そんな攻防を繰り広げているうちに、季節は八月になり、夏休みも序盤を通り過ぎた。おばあちゃんの家で過ごす生活にもだいぶ慣れ、最初からここにいたような気までしてくる。
私が高校生じゃなくてもっと大人だったら、このままずっとおばあちゃんのお店を手伝って生活できていたかもしれない。家にも、学校にも戻らなくて良かったかも。
高校生ってどこか宙ぶらりんだ。まわりの大人は「高校生になったらもう大人だね」と言ってくるけれど、実際の扱いはまだまだ子どもだ。アルバイトだって限られたところでしか雇ってもらえないし、一人暮らしをしようと思っても部屋だって借りられないし。
それに、高校生なのに学校に行ってないというだけで、かわいそうな目で見られるし。
大人は自由でいいなと思ってしまう。学校に行かなくてもいいなんて、だいぶうらやましい。でも、お父さんもお母さんも、「子どものほうが楽なのに、この子は楽なうちからつまづいている」と思っているのはよくわかってる。
「夏芽ちゃ~ん、お昼ごはんよ~!」
台所からおばあちゃんの呼ぶ声が聞こえる。今日はお店の定休日だ。
「は~い!」
返事をし、茶の間のちゃぶ台にお昼ごはんを運ぶのを手伝って、座布団に腰を下ろす。
今日のメニューはいなり寿司。午前中、油揚げを煮るのは私もお手伝いした。お祝いのときは中に五目ご飯を詰めるけれど、今日は酢飯を詰めただけのシンプルないなり寿司。甘~く煮たお揚げの味が引き立って、私は大好きだ。
「いただきま~す」
お吸い物と漬物も用意して、手を合わせる。大きないなり寿司をお箸でつかむと、重みで落としてしまいそうになる。このずっしり感が、おばあちゃんのいなり寿司の醍醐味という感じ。
ひとくち頬張ると、お揚げから甘い煮汁がじゅわっとあふれる。口の中でお米のひとつぶひとつぶに絡みつくみたい。
「おいしい~! おばあちゃんのいなり寿司、久しぶりだけど変わらないねえ」
「ふふ、ありがとうねえ」
おばあちゃんは大きないなり寿司を、上品な仕草と小さな口で上手に食べている。
「中に五目ご飯の詰まっているのも好きだし、上に具が載せてあるのも好きだったなあ。確か、とりそぼろとか、炒り卵とか」
保育園の運動会や、遠足のときに作ってもらったいなり寿司を、遠い記憶から引っ張り出してくる。いなり寿司は外で食べるとより一層おいしく感じるのはどうしてなのだろう。『特別な日のごちそう』という感じがする。
「お揚げの口の部分を開けておいて、そこにそぼろを載せるやつだね。とりそぼろを甘辛く煮るからお揚げはもう少し薄味にするんだよ。おじいちゃんは、わさび漬けを載せたのも好きだったねえ。そのときはお揚げをうんと甘く煮て」
「わあ、おいしそう。私それは食べたことないなあ」
そぼろの甘辛いのとわさび漬けの辛いの、交互に食べたら止まらなくなりそうだ。
「子どもにわさび漬けは辛すぎたからねえ。今度はそれも一緒に作ろうか」
「うん、楽しみ」
大きく作ったいなり寿司をみっつ、ぺろりと平らげてしまった。おばあちゃんちに来てから体重も元に戻ってきた。がさがさだったお肌もつるつるになっているし、やっぱり食べものが身体を作っているんだなあと実感する。
「夏芽ちゃん、今日は定休日だからどこかに遊びに行ってきたら?」
食後にあったかい緑茶、私はアイスグリーンティーにして飲みながら、おばあちゃんが提案する。
「遊びにって行っても、このへん車がないとどこにも行けないし……」
「真鍋の商店街なら、歩きでも行けるんじゃないかい? 図書館も新しくなったし、お肉屋さんのコロッケを久しぶりに食べ歩きするのはどうかねえ。夏芽ちゃん、好きだったでしょう?」
真鍋町の古い町並みの商店街は、夏祭りの会場にもなる場所だ。いくつか遺産登録されている建物もあるし、江戸時代のころは城下町だったらしい。
シャッターが下りてしまったお店も多いと聞いていたけれど、お肉屋さんが健在だと聞いて嬉しくなってしまった。
「じゃあ、そうしようかな」
「暑いから、熱中症にならないように帽子をかぶっていくんだよ。あと、水筒も」
「うん」
午前中は夏休みの課題をすませて、お昼ごろに家を出る。お昼はコロッケの食べ歩きですませるとおばあちゃんに話してある。
今日は、キャップにデニムのワンピース、スニーカー、トートバッグというカジュアルなおめかしスタイルだ。マスカラと色つきリップ、眉を描いたくらいだけど、メイクもしてみた。
また、初恋の人に会うかもしれないとか、そういうことを考えたからではない。単にお出かけが久しぶりだったからである。
てくてくと、田んぼ道を通りすぎ、小学校を通りすぎ、水筒の中の麦茶を飲んだりして、歩いて二十分。やっと商店街に到着した。帰省したときにお祭りには来ていたけれど、なんでもない昼間に来るのはだいぶ久しぶりだ。
小さいころは道幅ももっと広くてお店も大きかった記憶なんだけど、今見るとこぢんまりして風情のある商店街だ。きっと私の身体が大きくなったからだろう。
お祭りのときは暗いし人も多いし、街並みよりも屋台に気を取られてしまっていたから、今日はちゃんと街並みを堪能しよう。これだって立派なお散歩だし。
夏の昼間のせいか人がまったくいない道路を歩きながら、図書室を目指す。神社の隣にあるその建物は、公民館とあわせて新しくなっていた。黒い木の壁でできていて、和モダンな雰囲気だ。建物は和風だけど、中はふつうの洋風な作りだった。
少し図書室で涼んだあと、帰りに本を借りよう、と決めて先に向かいのお肉屋さんに行くことにする。
道路を渡ろうとしたとき、神社の前で動物が喧嘩をしているのが見えた。びっくりして、足を止めてまじまじと見つめてしまう。
夏祭りの間に天狗さまのご神体が置かれる神社は、図書室の駐車場と民家に挟まれていて、縦に細長い。商店街を歩いているとひょこんと急に顔を出すような、控えめな佇まいの神社だ。そんな場所の鳥居の近くで、動物三匹が取っ組み合っている。
猫が喧嘩をしているならそんなに珍しい光景じゃないかもしれないけれど、そこにいた動物は狐と狸とうさぎだった。絡み合いながら、前脚でぽかすかと殴り合っている。
狸は出るって聞いたことがあるけれど、北海道じゃなくても狐っているの? そしてうさぎは、どこかのペットなの?
私の頭にハテナマークが浮かんでいるうちに、三匹の乱闘はおさまり、はあはあと息を荒くした動物たちがにらみ合っている。
よく見ると、うさぎは勾玉のような首飾りをかけているし、狸は釜のようなものを背負っている。そして狐は、赤いよだれかけのような前掛けをかけていた。まるで、稲荷神社のお狐さまのような。
ああ、この子たちも神さまかあやかしなんだな、とやっと気付いた。
でも、神さまが神社の前で喧嘩なんてするのかな?
興味津々で目が離せなくなっていたら、狐が私に気付いた。




