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ほたる亭のあやかしごはん~天狗の町で過ごす夏休み~  作者: 栗栖ひよ子
一ノ膳 猫又と食べられないキャットフード
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(1)

 私には、ぼんやりと覚えている初恋の思い出がある。

 

 あれは、小学一年生の夏休み。

 お父さんの転勤のため、二学期から遠い町に転校することが決まって、できたばかりの友だちと離れるのが嫌で毎日泣いていたっけ。

 その日は、駄々をこねる私を見かねて、お父さんが夏祭りに連れだしてくれた。

 りんごあめを買ってもらい、べそをかきながらなめている途中で、お父さんとはぐれてしまった。

 着慣れない浴衣は動きにくいし、草履で足も痛かった。それに加えて雨まで降ってきたものだから、私は途方にくれて立ち尽くしてしまった。

 そのとき。


「小さな娘。おいで」


 屋台と屋台のあいだから、私を呼ぶ声があった。


「……だぁれ?」


 裏に誰かいるのかと思って探してみたけれど、汗だくで焼きそばを作るおじさん以外は誰もいない。

 どうしてその声が“私を呼んでいる”とわかったのか、よく覚えていない。


「そのままじゃ濡れてしまうから、こっちにおいで」


 低い、でも優しくて落ち着いた声。思わず言う通りにしてしまう安心感が、その声にはあった。

ふしぎな声に導かれて、私は神社の境内に入って行った。山の上の神社から移動してきた天狗さまのご神体が、夏祭り中に祀られている神社だ。

 賽銭箱の前まで進むと、お社の軒先の一部がやわらかく光っているように見えた。


「……ホタル?」


 その場所に行ってみると光は消えてしまったが、木と屋根のおかげで、ちょうど雨に当たらないスポットになっていた。

 お父さんに見つけてもらえるまで、ここで雨宿りしていよう。

 そう決めて、ほっと肩の力を抜く。


 そうしてそのあと、私は誰と出会ったんだっけ――?



 ピピピピ、と無機質な電子音が鳴り響く。うるさい生き物をなだめるように、ベッドサイドにある目覚ましを止めた。なんだか懐かしい夢を見ていたような気がするけれど、思い出そうとする前に目の前の現実に引き戻される。

 ぼうっとした頭のまま、上半身を起こして部屋の中を見回す。昼でもカーテンを閉めっぱなしの、私の部屋。居心地のいい場所だったはずなのに、不安や焦りやどろどろしたものが部屋中に充満しているみたいで、今はとても息苦しい。

 パジャマ姿のままクッションに座り、非常食ボックスの中からペットボトルのお茶とポテトチップスを取り出したけれど、口をしめらせただけで終わってしまった。


 時計の針は、もう午前九時。クラスメイトは一時限目の授業を受けていることだろうな。教室の風景を思い出すと、胸がしめつけられるように痛んだ。

 学校を休めば、楽になると思っていた。つらい場所から解放されるんだから、きっと楽に呼吸ができるようになるはずって。

 でも、現実はそうじゃなかった。学校に行かなくても、私の中にあるつらい気持ちは消えてくれない。

 むしろ、「みんなはちゃんと授業を受けているのに」とか、「どうして私だけこんなふうになってしまったんだろう」とか、「これからどうすればいいんだろう」とか、余計なことばかり考えてしまって胸が苦しい。

 一日中頭はぼんやりしているし、教科書を開いてもなにも頭に入ってこない。身体も重くて、ごはんを食べる気力すらわかない。


 ――私はもう、一か月も学校に行けていない。

 きっかけは今年の六月……、ううん、もっとずっと前からあったのかもしれない。

 小学生のとき、今まで住んでいた田舎町から都会に引っ越してきた。お父さんの転勤についてきたんだけれど、そのときはまだ『新しい町に行ける』ってわくわくした気持ちも少しはあった。

 でも、私は都会になじめなかった。流れる時間が早くて、友だち同士の空気もなんだか乾燥していて、みんなが夢中になるニュースも毎日めまぐるしく変わって。

 缶蹴りや長縄をしていれば仲良くなれた今までとは、違った。まわりに合わせて、浮いてないふりをして。「ぜんぜん無理なんてしてないですよ」って顔をしていなければ迷子になりそうだった。箱からひとつだけ飛び出してしまった欠けたビー玉みたいに。


 それでもまだ、中学まではマシだった。勉強さえちゃんとやっていれば、ひとりだけテンポが遅くても許されたから。「頭はいいけれど、ちょっとのんびりしてる子」って思ってもらえたから。

 でも、高校は違った。ちょっと無理をしてレベルの高い進学校に行ってしまったら、もうそこは別世界だった。

 情報量が多くてパンクしてしまいそうな授業をこなして、部活もして、さらに家でも勉強して。できる子はプラスして委員会活動までしている。私の中に流れている時間と、みんなの中に流れている時間が、三倍速くらい違うんじゃないかって感じた。


 なんだか、酸素が薄いなあ。みんな活動量が多いから、酸素の消費も多いんだろうなあ。でも、ちょっと、息苦しい。

 そう思ったときには、呼吸ができなくなって教室の真ん中で倒れていた。運ばれた病院のお医者さんからは、自律神経失調症の過呼吸発作だと言われた。

『こころの病気ですよ』『あなたはみんなと違うんですよ』って、世界からはっきり拒絶されたみたいだった。


 それが、高校に入学してすぐの、六月のこと。そのままずるずる学校に行けなくなって、もう夏休み前。

 お父さんもお母さんも、そんな私をどう扱っていいかわからなくて、トゲトゲのヤマアラシみたいにおそるおそる触れてくる。それがつらくて、部屋からも出られなくなってしまった。

 これから私の人生、どうなっちゃうんだろう。このままずっと学校に行けなかったら、どうなるんだろう。学校を退学するなんて想像したこともなかったから、どういう選択肢があるのかもわからない。ちゃんと生きていけるのかってことさえも。

 今の私は、世界に取り残されて冬眠したクマみたい。六畳一間の澱んだ洞窟で、毛皮みたいな着たきりのパジャマに包まれたクマ。

 クマだって春が来たら目覚めるのに、私の時間は六月で止まったままだ。



 そんな日々に変化があったのは、夏休み前日のこと。終業式が終われば、学校のみんなも夏休み。私だけが休んでいるわけじゃないからちょっとだけ気が楽になるな、と思っていたときのことだった。


夏芽(なつめ)、おばあちゃんからの電話なんだけど、かわって欲しいって」


 私の部屋には入ってこなくなったお母さんが、ドアの外側から遠慮がちに声をかける。


「……わかった」


 少しだけ開けたドアの隙間から子機を受け取って、すぐ閉める。お母さんのため息が聞こえた気がした。


「――夏芽ちゃん?」


 受話器からおばあちゃんの声がして、あわてて耳にあてる。


「あ、おばあちゃん? 夏芽だよ」

「夏芽ちゃんの声を聞くのも久しぶりだねえ。なんだかお姉さんらしくなったみたい。元気だったかい?」


 数か月ぶりに聞くおばあちゃんの声はとてもなつかしく、視界がぼんやり滲んでしまう。


「うん……。元気だよ」


 溢れてきそうになった涙を手の甲でぬぐいながら、とっさに嘘をついてしまった。

 おばあちゃんは、きっと私が毎日元気に学校に通ってると思ってる。高校に受かったときも、すごく喜んでお祝いをたくさん送ってくれたっけ。

 小さいころからかわいがってくれたおばあちゃんに心配はかけたくなかったし、何より大好きな人にがっかりされたくなかった。


「そうかい、それなら良かった。おばあちゃん、いつも夏芽ちゃんのことを応援しているからね」


 おばあちゃんが、屈託のない明るい声で言う。


「……うん。おばあちゃん、電話かわってくれって、何か用事だったの?」


 胸がチクチク痛むのをごまかすように、強引に話を切り替えた。


「ああ、そうそう。あのね、夏芽ちゃん去年は受験生だったから夏休みもお正月も泊まりに来られなかったでしょう。だから今年はちょっと長めに泊まりに来たらいいんじゃないかと思ってねえ。なんなら夏休み中ずっといてくれたら助かるし、バイト代も出せるからと思って電話したんだよ」

「夏休み中、ずっと……? おばあちゃんのお店を、手伝うの?」

「そんなに難しく考えなくてもいいんだよ。遊びに来るだけでもいいんだから」

「――行く。夏休み中ずっと、バイトもする。ううん、したい」


 お母さんに許可を取らなきゃとか、そんなことを考える前に返事をしていた。受話器の向こうで、おばあちゃんが微笑んだ気配がする。


「じゃあ、決まりだね。今年の夏はずっと、夏芽ちゃんといっしょだ」


 おばあちゃんの声が嬉しそうだったから、私の顔もほころんでしまった。

 そういえば、笑ったのも一か月ぶりだなって、電話を切ってから気付いた。


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