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第一章 受難 その一 闇のダンジョン

 振り返ると闇の中に、まだ魔物の追手が潜んでいるような気がする。


 カレンは残り少ない魔力を細い指先に集中させるため、そっと目を閉じた。歯が小刻みにふれ合い、耳障りな音をたてている。


 “LIGHT……”震えの止まらない唇から、ようやく呪文を絞り出すと、

 柔らかな魔法の光が暗い洞窟の中を照らし出した。

 冷たく静まりかえった洞窟の中には、すでに魔物の気配はない。

 足元の水の流れが、深い闇へと続いている。

 自分がどこにいるのか分からない。

 仲間たちとは完全にはぐれてしまったらしい。

 「……」

 カレンは、安堵と絶望にため息を漏らし、彼女の体を包む光の輪を見つめた。


 初めて呪文を習い魔法を使えた時のことを思い出す。

 あの時は、夜も眠れないほど興奮した。三年前彼女が王都カトマールで冒険者の修業を始めた時のことだ。体の中に湧き上がる未知なる力を感じた。自分の体が自分の物ではないように思えた。何か底知れぬ大きな力に動かされているような感覚に襲われながら、手のひらの上で揺らめく淡い暖かな光を飽くことなく見ていた。


 その光は大地から沸き出した物のように思えた。


 その呪文もLIGHTだった。冒険者なら誰でも使える初歩的な魔法だ。魔物を倒すわけでも傷ついた体を癒すわけでもない。ただ暗闇から逃れるためだけの光に過ぎなかったが、今の彼女には何よりも必要な物に思えた。


 ほんの数日前のこと、サルテラ山塊の麓の村で魔物の姿が目撃されるという騒ぎが起こった。幸いにして村人に被害はなかったが、見過ごすことはできない。さっそく魔物の動きを封じるために冒険者が雇われた。


 それがカレンと五人の気の合った仲間たちだった。冒険者としては無名と言ってもいい彼らが選ばれたのは、村に高名な冒険者を雇うだけの資金がなかったからだろう。また、目撃情報から判断して、今回はコボルトなどの地上に這い出すことのできる低級魔物が相手と考えられていた。


 仲間たちの中で、カレンは最も年少で経験も浅かった。そして、これが彼女の初めての冒険だった。そのため、カレンは魔法や薬によって仲間たちの戦闘を後方から支援する役割を任された。


 仲間たちは、彼女に、ついて歩いてさえいればいいと言った。

 笑顔で彼女の肩を叩きながら、

 山裾に空ろな口を開ける洞窟の闇の中に鼻歌交じりで足を踏み入れた者たち。

 つい数時間前のことだ。


 それがどうしてこんなことになってしまったのだろう。わたしはどうしてこんなところにいるのか。カレンは頭を振った。長い黒髪が肩の上を哀しいまでに美しくしなやかに揺れる。


 若い彼らは、どんな状況でも油断は禁物だという鉄則を忘れていたのだ。そして、入口付近の弱い魔物どもをあっさりと蹴散らしたところで罠に掛かった。侵入者を撃退するための防御結界だ。床に巧妙に仕掛けられたその罠は彼女たちを洞窟の奥深くへと送りこんでしまったらしい。

 たちまち、恐ろしい見たこともない魔物の一群が、耳まで裂けた口から火を吹きながら、哀れな冒険者たちを襲った。

 最前列で闘っていた三人の戦士が次々と傷つき倒れても、未熟なカレンにはどうすることもできなかった。

 どこを、どう、走ったのか、

 歩いたのか、

 分からない。

 今こうして魔物たちから逃れ得たことが奇跡的なことのように思われる。

 仲間たちの断末魔の叫びが耳の奥でこだまする。カレンは、顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。


 不思議と涙は出ない、ただ、こらえようのない吐き気が胸の奥からこみ上げてきた。

 彼女の胸が、防具に締め付けられ波打っているようだ。動悸がおさまらない。彼女は、防具を紐解いて、大きく息をついた。


 その防具は特殊な金属で出来ていた。軽く、機敏性を犠牲にすることなく、非力な者でも着こなすことができた。氷の鎖帷子と呼ばれている。それは、偉大な冒険者だった彼女の父親の形見だった。


 冒険者の仕事は、地中深くに潜む魔物たちと戦うことだ。時には財宝を奪い返したりすることもある。冒険者がいなければ、魔物たちは地上に出て無抵抗な人々を襲ってしまうだろう。

 そのため、この国では冒険者は最も尊敬される職業だ。それは、死を賭して集める尊敬なのだ。

 魔族の中には高い知能を持つものも多く、魔の領域を侵されることを嫌い、洞窟を掘り、仕掛け扉や死の罠で冒険者の行く手を阻む。それでも、冒険者を志す若者は後を絶たない。

 名誉のため。

 守るべきものを守るため。


 父親の跡を継いで冒険者になりたいという娘の意志が曲げられないことを知った母親は、ふた月半をかけて、娘のために父親の形見の寸法を取り直した。そして、国中のどんな武器屋でも手に入らないような素晴らしい防具に仕上げてくれた。

 魔法の力を宿すその防具は火の攻撃から身を守ってくれる。彼女が、魔物の攻撃から逃げることができたのは、そのためだったに違いない。


 防具を弛めると、ようやく呼吸が落ち着いてきた。カレンは、冷静に状況を判断するよう努めた。


 見覚えの無い岩肌が続いている。

 足元の水の流れは氷のように冷たい。

 氷の鎖帷子によって守られていた肌には、あのすさまじい炎の中をかいくぐりながらも火傷の跡さえない。

 LIGHTの魔法は、若干の発熱作用を伴うため寒さは感じられない。

 携帯の食料、薬を捜したが、見あたらない。

 LIGHTの魔法の効果もそのうち消えてしまうだろう。もう彼女には次の魔法を使えるだけの力は残っていなかった。


 冷たい暗闇の中で一人ぼっちで死ぬのは嫌だと思った。


 冒険者にとって一番大切なこと、それは、どんな状況の下でも決して希望を捨てないことだ。彼女がカトマールで修行を積んでいたときの師匠の言葉だ。

 ほとんど絶望的な脱出の可能性について、彼女は考えを巡らした。このまま、動かずに助けを待つか、自力で脱出するか。再び魔物が出現したら……


 カレンは、いつしか水の流れの上流に向かって歩きはじめた。地上に向かって……、自ら信じる方向へと。

 次第に、水の流れは急になる。彼女の胸に微かな希望の光が芽生えた。急勾配の登りの中で、いつしか呼吸の乱れも忘れていた。


 大きなホールに出た。天井が見えない。カレンは、目の前に立ちはだかった滝に歩みを止めた。

 地中の滝だった。深い暗闇の中から滝は一直線に流れ落ちている。

 ホールの中は水煙に霞んでいる。

 行き止まりだ。

 哀れな若者の胸を再び絶望が支配しはじめた。

 細い肩を落として、しばらく呆然と立ちすくむ。


 引き返すしかない……、背後に獣の低いうなり声を聞いたのは、その時だった。


彼女は、反射的に右に飛んだ。左手に取り直した盾を獣の毛むくじゃらのぶ厚い腕がかすめた。

 鋭い爪が暗闇の中で不気味に光る。

 ワーベアだ、悪の力に身を染めた狂気の熊男であり、洞窟の闇にさまよい込んだ冒険者のなれの果てだとも考えられている。


 カレンは、反撃に移った。背後は壁であり、逃げ場はない。しかし、硬い針金のような獣毛に覆われた皮膚を、彼女の貧弱な武器はかすることさえできなかった。


 ワーベアの第二の攻撃は、カレンの盾を払い飛ばした。そして、立て続けに大きな鋭い爪がカレンの体を襲い、彼女の左脇腹をえぐった。ほとんど致命傷だ。


 カレンは、直感的に死を覚悟した。

 傷みは感じない。

 彼女は、坤身の力を振り絞り、熊男の懐に飛び込んだ。

 しかし、彼女の最後の攻撃も効を奏することはなかった。

 カレンは、その場にくずれ折れ、勝ち誇ったワーベアは、この美味しそうな獲物にとどめを射すため腕を振り上げた。


 闇を切り裂くような爪を目の前にしても、カレンには恐怖はなかった。

 ただ、こんな場所でこんな形で死んでゆく自分自身が無性に腹立たしく思えた。


 その時、信じられない光景がカレンの視界に展開された。

 ワーベアの太い腕が根元から切り落とされて、宙を舞っている。

 ワーベアは、断末魔の叫びをあげる間もなく、地響きと共に倒れた。

 その獣はすでに死んでいた。


 人影がカレンの目に映った。彼女よりも年下にしか見えないような少年の姿だ。

 黒いマントにすっぽりと身を包み、獣の死体の後ろからカレンを見おろしている。手にした剣身は妙に透き通った輝きを放っている。その剣を鞘に納める時、マントの下にロードの記章が見とめられた。ロードは、特に優れた冒険者にのみ許される称号である。


 「ルーイ、どんな様子?」

 もうひとつの人影が闇の中から現れ、つい先ほどカレンを救ったロードに呼びかけた。


 「ひどい怪我だよ。すぐに、手当をしなくちゃ。エド、手伝って」


 “手当”という言葉に初めて、カレンは、身を切り裂くような激痛を覚え、意識を失いかけた。


 「大丈夫、すぐに良くなるからね」

 ルーイと呼ばれた少年は、優しくカレンに語りかけながら、彼女の身につけている物を脱がせた。

 カレンの受けた傷は内臓にまで達していた。断続的に鮮血が吹きこぼれている。

 ルーイは、その傷の上に両手を組み合わせた。“MACURE”呪文を口にして、傷を撫でまわした。


 「よかった。きれいな体に傷が残らなくて」


 撫でまわされているカレンの体からはすでに跡形もなく傷が消えていた。


 「しばらくは痛みが残るけど、やがて消えるはずだよ。内臓の治癒には時間がかかるんだ。間に合ってよかった。ぼくを呼んだのは君だね」


 すでにカレンの体は半身を起こせる程に回復していた。“呼んだ覚えはないけど……” 彼女はもうろうとした意識の中で、視線をさまよわせながら、そう考えていた。


 若いロードは頭をすっぽり覆っていたフードを彼女の目の前で外した。プラチナブロンドの柔らかそうな髪の少年だった。瞳は灰色で、どことなく人間離れした氷の煌めきのように冷たい美貌の持ち主だ。


 「ルーイ、どさくさに紛れてどこを触っているのよ」


 また、人影が現れた。一人、二人、……全部で六人、冒険者のグループだ。全員同じ黒いマントを被っている。


 ルーイは、赤くなって、声の主の方をきっとにらんだ。


 「ふーん、シュンラの洗濯板みたいな体とは、ずいぶん違うなとおもってさ」


 「誰が、洗濯板ですって! それに、いつあなた私の体を見たことがあるっていうのよ!」


 「おやめ、ルーイ、シュンラ。彼女の出血がひどい。城に帰って療養させないと」

 エドと呼ばれた少年が、二人を制した。


 「シュンラ、彼女を連れて、すぐに城までテレポートしてきておくれ」


 「お安いご用よ。ただし服だけは着せてね。そんな格好のままでは恥ずかしくてとても連れて歩けそうにないわ」


 シュンラは、すらりとした長身に金髪のエルフの女の子だった。カレンの手をとって、テレポートの呪文を唱えた。“RULOR”

 たちまち、眩いばかりの光が二人を飲み込み、カレンは手足の感覚を失った。薄れゆく意識の中、カレンの体は吹き飛ばされるように宙を浮いていた。


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