第一話 空の器(その二)トロールが偉そうにしている件
眩い光が見える。見覚えのあるカトマールの街並みだ。その光の中をメルフィーヌは、エルフの少女に肩を支えられながら歩いていた。ようやく、光に目が慣れてきた。
寄り添って歩くシュンラは、メルフィーヌより頭半分ほど背が高い。尖った耳の先が短めの金髪の下で見え隠れする。今は、黒地に淡い青のローブに着替えている。男性的で、長身の体にはよく似合っている。
メルフィーヌはダンジョンの中で破損した防具の代わりに着せられた丈の長い服に身を包んでいる。胸の下が太い飾り紐で絞り込まれ、赤い刺繍のある襟が少し開き過ぎで、胸の谷間が見えている。激しく動くと中身が出てしまうだろう。冒険者の装備ではなく、村娘がお祭りで着るような服だ。
メルフィーヌは、目が慣れるにつれ、今日の出来事を頭の中で少しづつ整理し始めた。でも、まだ頭の中はぐちゃぐちゃで混乱している。何から考えたらいいのか。何から話したらいいのか。
「あの……、助けてくれてありがとう」
メルフィーヌは、とりあえず、声を出した。
「わたしが助けたわけじゃないわ。あなたを治療したのは、ルーイ。プラチナブロンドの男の子、……のように見えるわね」
エルフの視線がメルフィーヌの胸元に落ちた。
「あいつ。あなたの胸を触っていたわよね。いやらしい。にやけ顔で。不潔だわ。思い出すだけでも、鳥肌立っちゃう。そんなお肉触ってどこがいいのかしら」
エルフの無遠慮な視線を受け、”お肉”呼ばわりされている胸元をメルフィーヌは両手でかばった。このエルフなら、いきなり触ってきかねない。そう思った。
「でも、ルーイは、エドガーに気があるみたいなの。男同士よ。変態ね。考えただけで悪寒がするわ……、あ、もちろん、ここだけの話よ」
「あの……、エドガーって」
メルフィーヌには、お肉とエドガーなるものの関連が理解出来ない。
「呆れた。あなた、エドガーも知らないの? あの変態と一緒にいたでしょ」
すでに変態のレッテルを貼られている哀れなルーイの容姿をメルフィーヌが思い出そうとしていた時、彼女たちは城門に着いた。
屈強そうな衛兵が、長い槍を差し出し、二人の少女の行く手を遮った。兜の下の髭面が物色するようににらみ回している。シュンラはローブの襟をめくった。ロードの記章。髭面は、バッタのように跳ね返り敬礼した。すぐに城門が開いた。
メルフィーヌは、城内に入るのは初めてだった。多くの冒険者たちは、王に謁見し直属の親衛隊にとり上げてもらうため冒険に精を出すのだが、そのほとんどは城に入ることさえ許されぬまま挫折し、元の職業に戻るか、最悪の場合、中途で非業の死を遂げることになる。メルフィーヌの仲間たちのように……。
「あなた冒険者に向いてないわよ」
エルフの少女は、唐突にそう言った。聞き覚えのある言葉。まるでデジャヴのようだとメルフィーヌは思った。そうだ、つい今朝、女魔法使いが同じ事を言ったんだ。わたしが何をしようと、わたしの勝手だ。ほっといて欲しい。メルフィーヌはそう思ったが口には出せなかった。
「見た感じ、そう敏捷そうでもないし、その細腕じゃ、剣も握れないだろうし、魔法使いってわけでもないわね。冒険者になって何がしたいってわけ? あなた、女プリーストでしょ。肌も露わな装束で、遠征中に男たちの目を楽しませるくらいしかとりえ無さそう。そうそう、名前もきいてなかったわね」
「メルフィーヌ=ダルネよ」
無遠慮を通り越して、ぶしつけな言葉を投げかけてくるエルフに、むっとしてメルフィーヌは冒険者の作法通りフルネームで答えた。
エルフの鮮やかな緑色の瞳が見開いて、メルフィーヌの顔に向けられた。一瞬たじろいだようにも見える。
「ふーん。そういうことか。へー。そうなんだ。緊急事態だなんて不思議に思ったけど、なるほどね」
「何が、そういうことよ!」
エルフの態度に、ついに、メルフィーヌは顔色を怒らせ、声を荒げた。勝手に納得されても、彼女自身には何の説明にもなっていない。
その時、大きな手がシュンラの肩を掴んだ。そして、有無も言わさず、細長い少女の体を百八十度回転させた。見上げるような大男だ。緑色がかった肌、首から上には一本の毛もない。トロール族だ。その粗暴な巨体に似つかわしくない立派な高官風の衣装を着ている。
「やあ、シュンラ=リスレン殿。エルドールからこっちに来てるって聞いて、捜してたんだ。会いたかったぜ」
雷のような大声、今にも抱き付かんばかりの勢いだ。
「ばばっちい手で触るんじゃねえよ! このうすらでかの脳味噌なし男!」
声の大きさでは、シュンラも負けていない。見物人が集まってきた。城の役人、使用人、女官、御用聞きの商人といった風情の人垣だ。遠巻きにして、一様に物見高い目で事の成行きを見守っている。
「なんだよ、水臭いじゃねえか。俺とおまえの仲なのに」
トロールは、意味ありげな笑いを漏らしている。シュンラの顔が、みるみる赤くなった。
「いつ、あんたとわたしが、なにかの仲になったって言うのよ! なによ! エドガーがいないと、えらく威勢がいいじゃない!」
「な、なにおう……」
今度はトロールの顔色が紫に変わる。大男は、エルフの衿がみを掴み、その細い体を宙に持ち上げた。
シュンラは、ぶら下げられたまま、トロールの紫に歪んだ顔に向かって唾を吐きかけた。
「この、あまァ……」
トロールの拳が振り上げられる。
「やれるものなら、やってみな! わたしの体に傷一つでもつけたら、エドガーが、なんて言うか。もっとも、その前にあんたのそのこぶしが使いものになっていなければの話だけど」
シュンラの顔色はすでに平常に戻っている。
「けッ! 勝手にしな!」
シュンラの体は地上に戻された。
「てめえら! 見せもんじゃねえんだ! 散れ!」
トロールは、腕を振り回し、見物人を追い払った。
「そっちの乳のでかいネエちゃんは、何ものだ? どっかで拾ったのか?」
トロールは、メルフィーヌに向けて長い腕を伸ばしてきた。シュンラは、盾になってメルフィーヌをかばった。無言でトロールの顔をにらみ返している。
「へッ!」
トロールは、かけられた唾を顔から拭いながら立ち去っていった。五、六歩のところで一度、振り向いて言った。
「可愛いルーイ殿によろしくな」
シュンラは、トロールの後ろ姿に向かって、自分の靴を投げつけた。その靴はトロールの大きな背中に命中した。
トロールは、あたりの見物人を見渡して、にやにやしながら独り言のように言った。
「まったく、あんなじゃじゃ馬、誰も乗り手なぞないわな」
トロールの大きな背中は、見物人をかき分けるように消えていった。
「ずいぶん見苦しいところを見せちゃったね。あのうすらでかは、ガランカという名のトロール。あれでも、ブルーノのお気に入りの戦士なんだっていうから笑っちゃうわ」
ブルーノは、このラトザール国の王、カトマールの城主である。メルフィーヌも、戦士ガランカの名は知っていた。国王の親衛隊きっての実力者として名高い。メルフィーヌのような新米冒険者にとっては、雲の上の存在だ。実物を見たのは初めてだった。
「なによ、ボーってして。あなた、あんなのが好みだって言うんじゃないでしょうね」
とんでもない、メルフィーヌは、即座に首を横に振った。ただ、びっくりしただけだ。
「あいつは、悪党よ。わたし、以前あいつにひきょうな方法で、その、危ない目に会わされそうになったことがあるの……。あッ、でもこれはここだけの話よ、他の人には言わないでね、特にエドガーなんかに知れたら、あのトロール、殺されちゃうわ。エドガーは、そういうことには、めちゃ、うるさいの」
「だから、そのエドガーって、なんなの? さっきから、勝手に納得したり、冒険者に向いてないとか……」
メルフィーヌは、再び血の気を顔にのぼらせながら言った。
「向いてないのは事実でしょ。あんな洞窟の中を一人でさまよったりして」
「わたしだって、一人であんなところ入ったわけじゃないわ。ちゃんと仲間がいて……」
メルフィーヌは、また言葉を詰まらせた。
「ふーん。仲間がいたんだ。それはお気の毒さま。それで、一人ではぐれちゃったわけ。それとも、仲間を見殺しにして逃げたとか?」
顔に笑みを浮かべながら、メルフィーヌにとって最も残酷な言葉を平気で口にするエルフの少女に、メルフィーヌはわなわなと震えながら返す言葉を失った。
「あら、図星だったかしら。でも気にしないで。新米冒険者にはよくあることよ。だから、世話を焼かせるの。はた迷惑だけど仕方ないわね。ところで、この城に来たのは、わたし、久しぶり。でも、ぜんぜん変わってないのね。ブルーノって、頭固いから。性格悪い上に、頭固いなんて最低」
往来で肩を震わせているメルフィーヌを置き去りに、シュンラの話題は、早くもよそに飛んでいる。国王の悪口も平気だ。二人組の通行人が彼女の言葉を聞きとがめたようだが、ひそひそと言葉を交わし、シュンラの顔をちらりと見て急ぎ足で立ち去った。まるで、関わり合いを避けるように。
このエルフとは、一生、分かり合える日はこないだろう。シュンラの後ろ姿を見ながら、メルフィーヌがそう確信したのは、この時だった。