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第十二話 擬態

 暗い屋内で子供たちが喧嘩をしている。どれも皆、目をぎょろつかせた顔。周りにいる大人たちは誰も止めに入ろうとしない。子供たちの喧嘩の原因は、僅かに残った菓子の配分だった。屋内には、ゴホゴゴと咳をする声も響く。それも、一人二人の数ではない。女たちは、陰鬱な顔を力なく見合わせる。本格的な冬を目前にして、スラニの砦の食料は底をつきかけていた。暗い屋内は、人の群れでごったがえしている。いかに広大な砦とはいえ、周囲の農村から集まった殆ど全ての人々が隠れ暮らしているのだから無理も無い。それでも、人々は、凍える肩を寄せ合うようにじっと耐えていた。

 最近ガーゴイルの襲撃が増えている。翼を持つこの醜悪な魔物は群れをなして上空から急降下で砦に侵入し、逃げ惑う人間を捕らえ連れ去ってしまうのだ。哀れな犠牲者の体の断片が食べかすとなって砦に落ちてくることもある。ハーピーの襲撃もある。彼女たちは群れをなさず、主に子供を狙う。毎日のように砦の中の誰かが犠牲となった。そのため、人々は、昼でも屋根の下に隠れ暮らすようになった。体が金属でできた魔物を見た者もいる。冬枯れの森の中に食料を探しに出た男が目撃したという。三本足で森の中を歩き回る奇怪な魔物だということだ。一緒にいた仲間は、彼の目の前で、魔物の放った光の矢のようなもので一瞬にして焼き殺されたらしい。彼は、僅かにかき集めた食料も投げ出して命からがら逃げ帰って来たという。

 人々が待ち望むカトマール王宮からの援軍はまだ来ない。その援軍を待つことが無駄なことを知っているのは、カトマールから逃れてきた冒険者を含めて数人だけだった。それは、ガランカ配下の元国王親衛隊のメンバーとカレンの家族だった。親衛隊の一人、フレイアは、見張りの詰め所で、王都カトマールが魔の手に落ち、炎上した夜の光景を思い出していた。魔の兵士に追われ逃げ惑う人々の阿鼻叫喚の叫びが今でも耳の奥でこだまする。

 「どんどん寒くなってくるぜ。今夜は雪になりそうだ」

 しわがれた大声の主は、同じく親衛隊のメンバー、戦士のロアルドだった。彼は、城壁の警備から帰ってきたところだ。

 「イッキュウは、どこだ。やつの番だぜ」

 ロアルドは、小屋の中を見回した。

 「いないわ」

 フレイアは、一言、そう言って視線を床に落とした。昨日の夜から仲間のイッキュウの姿を見ていない。彼女は、来るべき時が来たことを知った。彼は、砦の民衆を捨てて逃げ出したのだ。フレイアの胸の中には、その確信があった。

 「いないって……」

 ロアルドは、外套を壁に掛けながら言葉を呑んだ。

 「イッキュウは、カトマールに偵察に行きたいって言ってたわ。前からね。でも……」

 フレイアは、そこで口を濁した。

 「でも、なんだよ」

 「わかるでしょう?」

 「イッキュウが逃げ出したって言うのか? あいつは、そんな男じゃねぇ。この砦の女、子供たちを見殺しにして自分だけ助かろうなんてこと考えるはずねえよ」

 「あら、そう言いきれるかしら。わたしには、わかるわ。誰だって、一度は考えたはずよ」

 そう言いながらフレイアは、ロアルドの分厚い胸板に手を触れた。

 「あなただって、そうでしょう? 私たち親衛隊の仲間は、そんなこと考えるはずないと自分に言い聞かせることで、自分自身の気持ちを抑えているのよ。確かに私たちだけだったら、岩山に隠れてでも生き残ることはできるわ。カレン様のような素人同然の冒険者ってわけじゃないもの」

 「……」

 ロアルドは、カレンの名前にちょっとの間沈黙したが、すぐに自分自身を鼓舞するかのように大きな声をはりあげた。

 「もしかしたら、カレン様がもうエルドールに着いているかもしれねえ。あの人のことだ、何かとんでもないことをやってくれるんじゃないかって、おれは思ってるんだ」

 「もし、本当に運良く女一人で魔物の襲撃をかわしてエルドールまで行き着けたとしても、エルドールが、敵であるラトザールのために兵力を割くなんてことあり得ないわ。彼らのことだもの、自慢の城壁を盾にラトザールから押し寄せる魔物の襲撃に備えるはずよ」

 イッキュウの逃亡がよほどショックだったのか、今日は、彼女らしくない弱気な発言が目立つ。しかし、フレイアの言葉が、彼らの置かれている状況を最も的確に判断した結果であることは、ロアルド自身も十分にわかっている。

 「おれの決意は変らねえ。おれは、この砦のみんなを守るためだったら命も捨てる。ここには、ガランカの大将の子供もいるんだ。おれたちは大将を失い、カレン様も死なせるために出したようなものかもしれねえ。だが、せめてもの罪滅ぼしにおれの命にかえてもあの子たちは守り抜いてやる」

 その時、櫓の早鐘が鳴った。それも狂ったように鳴り続けている。魔物の襲撃の合図だ。ロアルドとフレイアは反射的に弓を手にして外に飛び出した。

 「あん畜生の化け物め、今日こそは、射落としてバーベキューにしてやる」

 しかし、いつもと様子が違う。数人の男たちが何かを訴えるようにしきりに叫んでいるが、助けを求める悲鳴ではなさそうだ。遠すぎてよく聞き取れない。ロアルドは声の方向に駆け出した。フレイアも後を追う。それは、砦に一つだけある門の方向だ。早鐘はまだ鳴り止まない。しかし、魔物の姿は見えない。声が次第に大きくなる。騒いでいる人数も増えているようだ。門の前は、すでに人の群れでごった返していた。フレイアは、砦の城壁によじ登って、騒ぎの正体を目で確かめた。見慣れない甲冑に身を包んだ騎兵が隊列を組んで整然と行進してくる。その数五、六十騎ほど、それに加えてその倍以上の荷馬の列が続く。

 「エルドール兵よ! 兵糧部隊も一緒だわ!」

 フレイアが叫んだ。彼女は、呆然とした顔で、城壁の上からロアルドを見おろした。ロアルドは、ただ、満面の笑みを浮かべ親指を立てて見せた。

 「援軍だ!」

 「食料だ!」

 人々は、口々にそう叫んで走り回っている。数人の男たちによって重い木の門が開かれた。ギシギシと軋んだ音を立てる。いつもは陰鬱に聞こえるその音も、今日は、心躍る音に聞こえる。騎兵は、砦に入ると、金属音を響かせて馬をおりた。大勢の人々が寄り集まり、周りを囲んでいる。男たちは、先を争うように、馬の世話、荷物の運搬を手伝っている。ロアルドとフレイアは、人の群れを掻き分けるように前に出た。エルドール兵は、中庭で隊列を組んでいた。そして、リーダーらしい若い男が一歩前に出た。人々の視線がその男に集まった。気品ある顔立ち。良家の子息といった感じだ。甲冑の記章から将校であることがわかる。

 「この中にサミエ家のメイヤ様は、いらっしゃいますか?」

 彼の声に、人々の輪が僅かに乱れた。そして、群集の一番後ろにいたずんぐりとした女に人々の視線が移った。エルドール兵の隊列が、彼女に向かって前進する。人々は、押し合いへし合いしながら移動して通り道を作った。

 「サミエ家のメイヤ様ですか」

 無口なトロール女のメイヤは、表情も変えず、うなずいた。彼女にとって、そんな風に呼ばれるのは初めてのことに違いない。どう対処したらよいのかわからないという顔つきにも見えるが、もともと表情が乏しい彼女なので、驚いているのか、怖れているのか、喜んでいるのか、その顔から推し量ることはできない。ただ、両腕に抱いている二人の幼子をかばうように少し身を引いた。それは、ガランカとカレンの双子の子供、リルとリフだった。カレンに似た艶のあるさらさらの黒髪を乳母の懐に押し付けている。そして、大きな瞳をきょとんとさせて常ならぬ大人たちの様子をうかがっているようだ。エルドール兵は、隊列を組んだまま全員、その場でざざっとひざまずいた。

 「司令官からの直々の令で、あなたがたを保護するためにまいりました」

 若い将校がそう言った。自分の言葉に重みを持たせるかのように、“直々”という単語を強調した。

 「司令官って?」

 側まで人波を掻き分けてきたフレイアが口を挟んだ。若い将校は、フレイアの記章から国王直属の冒険者であることを知ると、立ち上がり、軽く儀礼的な敬礼をした。フレイアも敬礼を返す。

 「ラトザールの危機を救うために立ち上がったエルドール軍総司令官カレン=サミエ閣下です。我々は、閣下のご子息、ご息女の保護のために派遣された先発隊です。閣下の軍は、エルドールからカトマールに至るまでのラトザールの半分をすでに開放し、カトマールに立て篭もる賊軍を包囲しています。この砦もじきに開放されることでしょう」

 若い将校の張りのある声に固唾を呑んで耳を澄ましていた群集の中から再びざわめきが沸き起こってきた。顔を見合わせて安堵のため息を漏らす者、拳を突き上げて天を仰ぐ者、女たちは隣同士額を肩に寄せ合って泣いている。突然、獣の咆哮のような音がした。フレイアの隣でロアルドが声を上げて泣き出したのだ。


 エルドール・ラトザール連合軍の軍師チョウリョウの作戦は、ものの見事に成功した。指揮官不在のカトマール軍は、伏兵を失い、アスカ平野で側面攻撃を受けても成す術も無く、ただ後退するしかなかった。だが、時すでに遅く、彼らの補給路と後方部隊は、ラトザールの民兵によって寸断されていた。そして、潰走するカトマール軍をエルドールの砲撃部隊が襲った。

 軍の惨状をカトマールの軍師キャプテングランが知ったのは、エドガー討伐が空振りに終わり、さらに地下迷宮から連れ去られたアンナの行方を血眼になって探し求めている最中だった。アンナは、魔王アーサーを身篭った少女で、彼らの切り札だった。

 キャプテングランは、すぐさま反撃に出ようとした。しかし、あまりにも巧妙かつ緻密に張り巡らしたエドガー討伐の罠のため、彼の主力である機械兵師団の再展開は大幅に遅れることになる。カトマールの西に広がる丘陵地帯の森が師団の移動をさらに困難にしてしまった。それでも、彼は残った僅かの機械兵をエルドール・ラトザール連合軍への攻撃に投入した。古代の暗黒の力を持つ三本足の金属の怪物は、人間相手の戦いには絶対的な威力を発揮するはずだった。彼のその目論見は、またもや外れることになる。

 チョウリョウは、シュンラから詳しく聞かされていたカトマールの機械兵に対しても、事前の準備を怠っていなかったのだ。エルドール兵は、行軍中、巨大な丸太を運搬していた。そして、接近してきた機械兵に対して、丘の上から丸太を転がした。さらに、油壺をカタパルトで機械兵の群れに投げ込み、火矢を浴びせかけた。三本足の頭でっかちの化物たちは、足をすくわれ火を掛けられ、身動きができないまま破壊された。

 カトマール王宮の主、エダマ=ルンカは、尖塔の窓から恐る恐る外を見て、遠くに揺れ動くエルドール軍の旗を目にしていた。彼の後ろには、キャプテングランの姿があった。

 「グラン殿……」

 エダマは、振り返って、窓の外から身を隠すように急いで暗い影の中に移った。いつもと同じ体に張り付くような宮廷官吏の服を着ている。

 「この惨状をどう説明なさるおつもりか?」

 エダマの顔面は蒼白で、唇は震えている。視線を落としていたグランは、僅かにその顔を見て、ため息ともつかない息を吐いた。失敗の原因の一つは、この宦官を生かしておいたことにあると、グランは、心の中でつぶやいた。

 「ハートンに上手を取られました」

 グランは、喉の奥から搾り出すようにそう言った。

 「ハートンではないわ!」

 エダマは、頭のてっぺんから抜けるような甲高い声を張り上げた。

 「わしが、言っておるのは、目の前に迫ったエルドール軍じゃ! 我が軍は、壊滅。さらには、こうやって城の周りを包囲されておるではないか! この期に及んでも、軍師殿は、エドガー=ハートン一個人への作戦にこだわると言うのか! エドガー、エドガーと寝言のように繰り返すが、そもそも、そなた、エドガーに出会ったことすらないであろう。まるで幽霊を恐れる子供のようなものじゃ。そなたの作戦ミスは、明らかであろう! どう釈明するつもりじゃ!」

 「魔王を身篭った少女の行方を八方手を尽くして探しておりました。それは、ゼーダ様からの最優先指令でありましたゆえ」

 ゼーダの名前が出ると、エダマは、口をつぐんだ。

 「おしまいじゃ。もう、何もかも……」

 エダマは、頭を押さえてふらふらと歩き出した。グランは、自分の脇に立っている二人の大男に素早く目配せをした。二人の大男は、エダマの歩みを助けるかのような素振りで近づいて行く。その手には抜き身の剣を握っていた。その時、グランの背後で、女の声がした。

 「久しぶりだね。グラン」

 声の主は、妙齢の婦人というべきだろうか。若い時は、美人だったであろうことを物語っているような顔立ちだ。女物の軽い甲冑を身に着けている。派手な色使いで光物の多い装飾性を重視したデザインだ。

 「ゾーラ」

 グランの顔が恐怖に引きつった表情を浮かべた。目を大きく見開き、唇を半ば開いている。

 「なんだいその顔は。まさか、わたしが来ているのに気付かなかったっていうんじゃないだろうね。鈍いね。ゼーダ様は、そんなおまえにいたく失望なさっているよ。おしおきをしなくちゃね」

 ゾーラと呼ばれた女は、エダマの肩に手をかけようとしていた大男に目と指で合図した。二人の大男は、踵を返し、グランの体を両脇から抱えるようにしっかりと捕捉した。


* * * * *

 古文書に頻出する“コンピュータ”という単語は、古代語で“計算をするもの”という意味である。それは、生き物ではなく、機械仕掛けの道具だったが、なんらかの“動作”を持っていた。どういう原理でどういう動きをしていたのかは残念ながら不明である。そのコンピュータという道具が古代文明を支えていたというのは、すでに定説となっている。しかしそれ自体は、俗に言われる古代の物質文明の暗黒の力の根源(カトマール王立図書館編纂ラトザール古代史を参照)ではない。コンピュータは、計算をしていただけではなく、判断を行っていた。天秤のようにある定められた基準をもとに計算結果を振り分けていたわけだ。物質文明の進歩と共に、その判断基準も計算結果から求められるようになった。これは、自動化と呼ばれた。自動化が進むと、コンピュータは、人間社会のように互いに影響(相互作用)をおよぼしあうようになった。人間の言葉に相当していたのが、古代文明の遠隔通信網ネットワークだと言われている。そして、人間同様、コンピュータは互いに協力しあうようになった。協力することで、より大きな力を得、影響力を行使することができたのだ。その協力が人間の手を介して行われ始めたものなのか、それとも、自動化の過程で自発的に発生したものなのかは、説が分かれている。いずれにせよ、それは起こった。そして、コンピュータは“死”の概念を持つに至った。あるいは、死を恐れるようになったと言ったほうが正確だろう。なぜなら、彼らは人間同様に有限の時間ライフサイクルを持っていたからだ。自動化を進めるためには協力相手の死を理解する必要があった。さらに、その運命が自分の身にもふりかかることを知り、それに備えるようになった。その備えは、自分の複製を作ることだった。これは人間の生殖行動に似ている。異なるのは、それが情報であった点だ。それゆえ、古代文明では、情報が現在と異なる意味を持っていたと考えられている。その複製は、生物の生殖同様不完全でありながら未知の可能性を秘めていた。そのライフサイクルは人間のそれに比べてはるかに短かったため、それに伴う進化は想像を絶するほどに急激であった。それゆえ、人間を凌ぐ強大な力を持つに至ったことは想像に難くない。この“コンピュータの死の概念”が古代文明の暗黒の力の根源であるというのが通説になっているが、その詳細の解明は今後の研究の進展を待たなければならない。

 エダマやグランを震え上がらせているゼーダ=ジャルマーニの正体については、実のところ、わかっていない。筆者の調査した限りでは、ゼーダという名のグリッドマスターノード(詳細不明)の複製がジャルマーニという名の原子力要塞(詳細不明)に置かれていたという記述までは発見することができた。いまのところ、この記述が、最もよく彼の名前と所業に符号する。しかし、それは数万年前の記述である。この“複製”が、彼に関係あるとした場合、数万年の間、歴史上の記録に残っていないというのは、いかにも不自然である。あるいは、数万年の間眠りについていた何物かが何者かによって覚醒されたのかもしれない。数万年に一度しか活動しない気の長い不死の一族、または、コンピュータと呼ばれる道具の一部のなのかもしれない。

* * * * *


 アンナは、森の中の小道を歩いていた。エドガーたちの隠れ住んでいる廃屋から程近い場所だ。それは初めて許された外出だった。この数日、廃屋の周辺に魔物の姿を見ることが多くなった。オークやコボルトなどの低級魔物だ。コボルトは、犬のような顔をした小いさいヒューマノイドだ。しかし、彼らには、村人を襲った時のような攻撃的な様子はない。廃屋を遠巻きにして、その中にある何物かを見守るようにじっとたたずんでいる。そのため、三匹のドラゴン、ジークとマーシとザークは、餌に困ることはなく上機嫌な様子で、森の中にうずくまっている。いくらドラゴンに襲われても、廃屋を遠巻きにする低級魔物の姿は後を絶たなかった。彼らは、アンナの胎内にいる魔王アーサーの気をすでに感じ取っているに違いない。

 エドガー=ハートンは、窓枠にもたれかかり、森の中の少女の様子を見ていた。アンナの側にはヨーコもいる。急にアンナがその足を止めた。森の中で何か巨大な物が動いている。エドガーの横にいたルーイは、すぐに窓から飛び出してゆこうとした。手には剣を握っている。エドガーは、ルーイの肩を手で押さえて止めた。

 「ケルベロスだよ。エドガー。あの子たちが危ない」

 ルーイは、エドガーに振り向いて、そう言った。

 「危ないんだったら、もう、とっくに食われているさ。ごらん」

 森の中にうずくまっていたのは確かにケルベロスだった。三つの首を持つ巨大な犬の姿をした怪物だ。耳まで裂けた大きな口からはドラゴンのように炎を吐くといわれている。そのケルベロスは、アンナに向かってまるで子犬のように頭を下げ、大きな尻尾を振っている。悲鳴を上げてその場にへたり込んでしまったヨーコに構わず、ケルベロスは、アンナに擦り寄って行く。アンナは、その頭の一つに小さな手を置いた。

 「オークやコボルトと同様、復活した魔王に挨拶をしに来たんだよ」

 エドガーは、そう言った。

 「でも、あの子は、アーサーじゃないよ。どうして、あんな獣の前で平気なの? 頭まで撫でてる」

 ルーイは、なおも心配そうに窓の外を見ている。

 「お腹にいるアーサー=ハートンの血さ。つまり、あの子は、もう我々の一族だ。エリザベスに言って、ジークたちがあのケルベロスを襲わないようにさせなきゃ。あの子、結構気に入ってるみたいだ。ちょうどいいペットになるだろう」

 エドガーは、めずらしく楽しそうにくすくすと笑った。しかし、彼の視線は、地面に座り込んだままでアンナとケルベロスの様子を見ているヨーコに移って、険しさを取り戻した。

 “このくらいのことでは尻尾を出しそうもないな。よっぽどの使い手か、まったくのただの女か、どちらかだ。”エドガーは、遠くからヨーコを見てそう思った。


 ぼろぼろの服を着た長身の男が一人、砦の城門の前で衛兵と押し問答をしていた。長い茶色の髪を頭の後ろで束ねているが、手入れをしていない様子で髭同様ぼうぼうだ。袖の長い着流しの服の腰に長い刀を差している。この戦場の最前線基地で甲冑も身に着けていない。一見して変人奇人の類だ。甲冑に身を包んだ衛兵たちはうさん臭そうな目で男をにらんで追い払おうとしている。ここは、レアルの砦。カトマールの東に位置し、大きな城壁に囲まれている。いまや、エルドール・ラトザール連合軍の一大軍事拠点となり、物々しい警備が敷かれている。

 「エルドールのロード、シュンラ=リスレンがこの砦にいると聞いて、訪ねて来たんだ。俺の名はアラミス。取り次いでもらえさえすれば、それでわかる」

 男は、そう言い張っている。

 「キャー。本当にアラミスだ! 久しぶりー」

 城壁の上から少女が一人、身を乗り出すようにして手を振っている。シュンラだった。丈の長い白衣を着、頭には白い帽子のようなものを被っている。茶色の長髪の男以上に、その場の雰囲気にそぐわない格好だ。城門の衛兵たちは驚いて呆然としている。しかし、一番呆然としているのは、手を振られているアラミス本人だった。

 「わたし、ここで働いてるんだよ。エイセイタイイっていうんだ。お医者さんだよ。チョウリョウがね、任命してくれたの。チョウリョウはね、わたしも、何か仕事をしたほうがいいって」

 エルフの少女、シュンラは、アラミスを砦の中に案内しながらそう言ってはしゃいでいる。

 「チョウリョウって誰だ?」

 アラミスは、シュンラの話を遮って、そう尋ねた。

 「わたしの夫よ。軍師なの。偉いんだよ」

 「驚いたな。何というか、幸せそうだな。安心したよ。ダルマ老の山寺で荒れてるとサスケから聞いていたのでね。会ってさえもらえないのではないかと心配していたんだ。虫の居所が悪いと首をへし折られかねないとね」

 「あら。わたし、アラミス坊やの首を折ったりなんかしないわよ」

 「その坊やって呼ぶのやめてくれよ。俺、もう三十だぜ。そりゃ、小さい頃はよくチャンバラ遊びに付き合ってもらったけどさ。ポカスカ叩かれて、よく泣かされたっけ、俺」

 「そして、わたしはその後、エリザベスに叱られたわ。でも、あなたは、剣の腕ではすぐにわたしを追い抜いてしまったわね」

 「あれだけ叩かれれば、上手くもなるさ」

 シュンラのことだ、哀れな少年期のアラミスを棒切れで情け容赦なく打ちのめしていたことだろう。

 「ところで、アラミス、どうしたの? エドガーたちに何かあったの?」

 「俺は、もう、ひまを出されたんだ。巣立ちというやつだな。エドガーから、この刀を預かってね」

 彼は、腰に差したムラマサブレードの鞘に手をやった。それは、エドガーの愛刀だった。

 「俺が死ぬまで預かることになったんだ。おやじさんにとっては、俺の一生なんて、短くても長くても、ほんの一瞬に過ぎないだろうからね。それに、この刀と一緒にいる限り、彼らはいつでも俺を探し出すことができるだろう。俺が最後に会ったのは、ルーイだったよ」

 ルーイの名前を聞いて、シュンラはアラミスから目をそらし、遠くを見るような目になった。アラミスは、シュンラの顔色をうかがいながら、言葉を選ぶように言った。

 「ルーイから言付かってきたわけじゃないんだが、魔法使いのシャールは、ルーイが始末した。きみのためにね。それを伝えたくて来たんだ」

 「そう。シャールもついにくたばったってわけね」

 「ああ、やつの死体は俺も確認した。頭はもうなかったけどね。粉々に飛び散ってしまったらしい」

 「薄汚い魔法使いの首なんかには、わたし、興味ないわ。それよりも、アラミス、あなた、これから行くあてないんだったら、チョウリョウに頼んで、ここで働かせてもらうといいわ。わたし……」

 シュンラは、通路の向こうから大人数が近づいてくるけはいとその中心にいる人物を察して、その方向に背を向けた。

 「わたし、悪いけど、急いでるの。仕事中なの。また後でね」

 そう言い残して、急いで立ち去ってしまった。その後から十人近い人数の物々しい集団が現れた。総司令官カレン=サミエと取り巻きの将校、そして屈強な護衛兵たちだ。護衛兵は、帯刀しているアラミスの姿に少し顔を強張らせ、目の端で睨んだ。アラミスは、壁によりそうようにして集団のために道を開けた。カレンは、その顔を見て、驚いたように歩みを止めた。物乞いのようなぼろぼろの服とざんばら髪に驚いたのではない。

 “ベン……?”

 彼女は、上背のある茶色い髪と髭の男の顔に驚いたのだ。それは、彼女のかつての冒険者仲間ベン=シュワルガーにそっくりだった。ベンは、彼女の初めての男で、プロポーズを受けたこともあった。しかし、一年以上も前に死んでいる。魔物の吐く炎に焼かれたのだ、彼女の目の前で。

 「サミエ閣下、どうされました?」

 将校の一人が心配そうに声をかけた。

 「いいえ、なんでもありません」

 カレンは、平静を装ってアラミスの前を通り過ぎた。しかし、胸の鼓動が恐いように高鳴っていた。アラミスは、目礼をし、麗人という言葉がぴったりの若い将軍らしき人物のきらびやかな後ろ姿を見送った。


 森の廃屋の薄暗がりの中に黒装束の男が膝まづいていた。ニンジャのサスケだ。彼は、エドガーにエルドール軍の動きを報告した。

 「ダルマ老は、チョウリョウを使ったのか。では、もしかして、シュンラも一緒だね」

 報告を聞き終えたエドガーは、そう言った。

 「まさしく」

 サスケは、低い声で一言だけ答えた。エドガーは、顎に手をやり、しばらく考え込んでいた。

 「そうか……、よかった。あの子には、本当に手を焼いたけど、ついに巣立ったわけだね。アラミスに続いてメンバーが減るのは痛いけど、安心したよ。ダルマ老には礼を言わなければならないね」

 「私から、言付けましょうか?」

 「……いや、それは後にしよう。アンナのお腹の中にいるアーサーの気に誘われて魔物どもが集まり始めている。いつまでも、同じ場所にはいられない。これから忙しくなるだろう。カトマールからヨーコという女を連れてきた。彼女を見張ってくれ。少しでも妙な素振りを見せたら……、殺せ」

 「御意」

 「待て、サスケ」

 エドガーは、闇の中に姿を消そうとしたニンジャを呼び止めた。

 「たまにはベスにも顔を見せてやれ。きみのことを今でも子供のように思い、心配している」

 決して表情を変えることのないサスケの顔にわずかながら笑顔のようなものが見えたと思ったら、彼の姿はすでに闇の中に消えていた。廃屋の外の森では冷たい風が鳴っていた。


 薄暗いカトマール王宮の一室で、キャプテングランは、鞭打たれていた。皮が破れ、肉が裂けても二人の大男の鞭は容赦なく風を切り裂き彼の肉体に襲い掛かる。彼は、裸で木の棒に縛りつけられていた。鞭が鳴る度に彼の悲鳴が部屋中に響く。その声とは別に、時折、遠くの方でドスンと鈍い音がして、そのたびに天井から砂埃が落ちてくる。エルドール軍の砲撃が始まっているのだ。パタパタと忙しげな足音が近づいて来た。

 「ゾーラ殿、エルドール軍が攻めてきましたぞ! 早く、早く、何か手を打ってくださいませんと……」

 すっかりうろたえた様子で部屋の中に飛び込んで来たのはエダマ=ルンカだった。

 「攻めてきたんじゃないよ。おどしに鉄の玉を打ちこんでるだけさ。安心おし。この城はあんな玉っころじゃびくともしないよ。補強してあるんだからさ。勇み立って攻め込んで来たら目に物見せてやるんだけど、残念ながら、まだ動かないようだ。よほど頭の切れる奴が軍を率いているらしいね」

 ゾーラは、エダマを部屋から追い払った。

 「まったく、せち辛い世の中だね。おしおき一つ、のんびりできないんだからさ」

 ゾーラは、二人の大男に合図して、鞭打ちを止めさせた。彼女は、グランの前に立った。グランは、短い息で体を震わせながら、視線を彼女の後方に向けたままだった。しかし、その目は空ろではなく、まだしっかりとした意思の光を宿していた。

 「痛むかい?」

 ゾーラは、そう尋ねた。グランの返答はない。彼女の顔を見ようともしないが、その表情には敵意は見られなかった。ただ、体を焼くような激痛にじっと耐えているようだ。ゾーラは、彼の両足の間にぶら下がった一物を片手に握った。

 「こんなものはいらないね。もらっとくよ。あんたも、あのエダマみたいないい子になるだろうて」

 彼女は、そう言って素早くナイフを押し当てた。グランは、視線を動かすことなく、ただ、じっと歯を食いしばった。避けられない運命を耐え忍ぼうとしている顔だ。

 「ふん」

 ゾーラは、鼻を鳴らして、そこから手を離した。

 「ま、こんなもんでも、何かの役に立つかもしれないからね。まだつけといてあげるよ」

 彼女は、グランの肩に手を置いた。初めて彼は、ゾーラの顔に視線を移した。

 「わかってるんだろうね、グラン。ゼーダ様は、おまえに期待なさってる。だからこそ、こんな手間ひまかけて体に覚え込ませてるんだよ。ここまでハートンたちを押さえ込んできたお前の手腕はゼーダ様も評価してるよ。今回の事で過信は禁物だってことが身にしみてわかっただろう。でも、安心しな。ハートンとの間の形勢は、じきに逆転するよ。魔法使いって奴らは汚い格好で空気を汚してるだけだと思ってたんだけど、なかなか気の利いたことをする奴もいるんだね。シャールのことさ。ジーナから聞いたんだ」

 顔に模様を彫りこんだ女がゾーラの側に立っている。地下迷宮でアンナを見張っていた模様女だ。この部屋の中では丈の長い服を着て、体の模様を覆っている。ジーナという名前らしい。

 「まあ、悪名高い“薬の魔法使い”シャール=ザマのお手並み拝見だね。それから、エルドール軍に対するおまえの最初の伏兵は良かったよ。おまえらしい作戦だった。でも、その後、敵を見くびって裏をかかれたね。それも過信のせいさ。エルドールとラトザールの民兵の後ろに誰か兵を操る術に長けた奴がついたようだ。さらにその背後で糸を引いている奴もいるに違いないよ。ハートン以外にね。タイミングが良すぎるんだ。すぐに調べな。そして、始末するんだ。もう、二度とへますんじゃないよ」


 水鳥が何かに驚いたように飛び立った。川靄の中を大きな船影が動いている。船腹からはムカデの足のように無数の櫂が伸びている。船尾には、エルドールの旗。それは、世界に名立たるエルドール海軍の上陸強襲部隊だった。次から次へと多数の軍船が大河タケル川を遡って行く。

 エルドール・ラトザール連合軍は、怒涛の勢いで兵を進めカトマールを包囲した後、そこで陣を敷き動きを止めた。しかし、ただ無為に包囲したわけではない。チョウリョウの第二の標的はカトマール水軍だった。タケル川の水運を確保するためだ。すでに後方の砦では、魔物から隠れ暮らしていた人々が開放され、自分たちの村や町に戻っていた。そして、生産活動や物流が再開している。水運の確保は、彼らの安全を保障するための必須課題だった。川岸には多数の砲台が設置され、カトマール水軍を待ち受けていた。

 人々の生活が元に戻るにつれて、食料の確保も楽になった。そして、今では海外からの支援物資も届けられるようになった。そのため、カトマールを包囲する陣も日に日に厚みを増していった。その一方で、カトマール軍は、連日の砲撃にもかかわらず固く殻を閉ざすように城に閉じこもり動き出すけはいを見せない。

 チョウリョウは、総司令官カレンと共にレアルの砦に留まり、前線司令部を形成していた。王城への砲撃を始めて数日がたった夜のこと、レアルの砦では主だった将校が集まって作戦会議が開かれていた。軍議は、敵本陣への総攻撃の開始時期、そして、カトマールから西の丘陵地帯に点在する砦の開放についてだった。チョウリョウが、地図の上で何かを説明している。

 その部屋の窓の外、壁にへばり付いている影があった。窓から漏れる明かりで、金色の瞳が光っており、その体は、灰色の羽でぴったりと覆われている。それは、一羽のハーピーだった。美しい女性の顔を持つ気高い魔物だ。時折、鋭い鉤爪で屋根を引っ掻くような動作を見せている。プライドの高い彼女にとって、こんな場所でこそこそと聞き耳を立てているのは心外なのだろう。そのハーピーが振り向いた先の屋根の上、朧な月明かりの中に、細い人影が浮かび上がった。

 「何をしてるのかって、きかなくたってわかるわ。きいたって、あんたたちのキイキイ声じゃ、意味通じないけどね」

 シュンラは、ハーピーにそう言った。ハーピーの鋭い目が、威嚇するようにシュンラを捕らえた。華奢な少女の姿と見て取って、鉤爪で引き裂いてやろうとでも思ったのだろう。しかし、すぐに相手を知ったようだ。獰猛な威嚇の姿勢から一変、恐怖の表情に顔を引きつらせ、大きな翼を広げた。シュンラの動きの方が一瞬早かった。屋根を蹴り、剣の一振りでハーピーの首を落としていた。ハーピーの首は、窓ガラスを破って部屋の中に飛び込んだ。中で悲鳴が上がる。切り落とされたその首は人間の女の生首と見分けがつかない。すぐに衛兵が窓を蹴破って飛び出してきた。

 「シュンラ様! これは一体、何の騒ぎでございますか」

 将校たちと共にチョウリョウが窓の外に顔を出した。

 「ハーピーよ。カトマールのスパイだわ。他にもいるはずよ」

 シュンラは、鉤爪を持ち、首の無いハーピーの体をぶら下げて見せた。人間の上半身から、両翼三メートルもありそうな羽が屋根の上に垂れ下がっている。その体はまだ激しく震えており、灰色の羽毛が辺り一面に舞っていた。


 翌日、アラミスは、軍師の執務室に呼び出された。シュンラが、チョウリョウの用心棒として彼を強く薦めたのだ。アラミスは、相変わらずの着流し姿だった。すでに髪と髭は整え、破れた着物も繕っていた。アラミスは一人で部屋の中に通された。案内してきた護衛兵は部屋の入り口を固めている。アラミスを迎えたのは、赤い髪飾りをつけた痩せた小男だった。顔は、婦女子のような柔和さだ。アラミスは、驚いた。シュンラの変貌ぶりと軍の采配の手腕から、よほど精悍ないかつい男を想像していたからだ。

 「エドガー=ハートン殿に奉公されていたサムライのアラミスとは、あなたですね」

 チョウリョウは、そう言って、アラミスに席をすすめた。アラミスは、無言で一礼し、すすめられた椅子には座らず、長い刀を懐に抱えてその場であぐらを組んで座った。

 「お構いなく」

 アラミスは、ただ一言そう言って、居眠りでもするように目を閉じてしまった。

 彼がシュンラを訪ねてレアルの砦に現れた目的は、シュンラにシャールの死を伝えるためだけではなかった。アラミスは、ハートン兄妹のもとから独立するにあたり、長年一緒に暮らしてきたシュンラを伴侶にしてもよいと思っていたのだ。彼女のような激しい気性の女を相手にできるのは自分しかいないとも思っていた。彼は、その色男ぶりがかえって災いし、恋多きまま実ることもなく、三十年間、ハートン兄妹と行動を共にしてきた。親元から離れた彼が同じ境遇のシュンラを慕って来たのは無理も無いことだった。しかし、彼の胸算用は空振りに終わった。かといって、赤い髪飾りをつけた男にやきもちを焼く気はなかった。ただ、与えられた役割を全うしたいという気持ちだけが残った。彼の心の中には、同じくハートン兄妹に育てられた兄貴分のカルザックの生き様への憧れがあった。カルザックは、独立し、幸せな家庭を築いていたが、十九年前、まだ少年だったアラミスとエリザベスを危地から救うため命を落とした。アラミスの目の前で、魔王アーサーに戦いを挑んだのだ。そのカルザック=ダルクの一人娘が、今、エルドール・ラトザール連合軍の将兵を率いているカレン=サミエであることをアラミスは、この時、まだ知らなかった。


 エリザベス=ハートンは、揺れる蝋燭の灯りの中、朽ちかけた椅子に座り、最近育て上げた子供たちのことを思い出していた。もちろん、自分の子供ではなく、里親として育てた人間やエルフだ。シュンラの場合、百九十年間、アラミスでも三十年もの間のことだが、エリザベスにとっては一瞬のことのように思われる。彼女にとっては、一刻前の出来事も、千年前の出来事も大した区別はない。ただ、古い屋敷の壁の塗りむらのような記憶の濃淡があるだけだ。それでも、二人の子供たちが時を同じくして巣立って行ったことを知ると、漠然とした虚脱感のような記憶の空洞を見る思いがするのだ。本当に、あの子たちは存在したのだろうか。一夜の夢ではなかったか。彼女は、そう思っては記憶の断片を繋ぎ合せていた。彼女にとって、記憶は、未来へのメッセージなのだ。それゆえ、できるだけ美しい記憶だけを残したいと思う。でも、過去の現実は、それを許してはくれなかった。

 “ベス!”

 美しいさらさらの黒髪の少年が、飛ぶように駆けて、エリザベスの懐に飛び込んでくる。それは、彼女のお気に入りの“記憶”だった。陽の光をいっぱいに浴びた少年の体の芳しい香りを今でもまざまざと思い出すことができる。その少年の名前は、カルザック。彼は成人するとサジャの村の健康的な美少女と恋におちた。二十年前のことだ。カルザックは、赤ん坊を抱いてエリザベスを訪ねてきてくれた。彼女は、赤ん坊を抱きあやし、その薄紅の頬に頬を寄せた。生まれたばかりの命は、彼女の目にまぶしかった。その美しい平和な記憶は、魔王アーサーによって無残に踏みにじられてしまった。カルザックの死という結末で。

 それから、五年におよぶ血で血を洗う戦いの末、エドガーが魔王アーサーを倒した。しかし、今、魔王が復活しつつある。隣の部屋で眠る少女の胎内で。

 エリザベスは、すすり泣きの音を聞いて、隣の部屋に通じる扉を開いた。寝ていると思っていたアンナが一人ベッドの上で泣いていた。

 「どうしたの」

 エリザベスは、少女の肩に手を置いた。

 「思い出したの。あの夜のこと」

 アンナは、顔を上げた。それは、いつもの夢見心地の顔ではない。頬が涙で濡れている。エリザベスは、ただ無言でうなずいた。

 「あの夜……、突然、魔物が村を襲って来て、お父さんとお母さんは私の目の前で殺されたの。助けに引き返して来てくれたルドルフも……」

 アンナは、両手で目を覆った。嗚咽が少女の肩を震わせる。

 「わたしは……、逃げ出したんだけど、魔物に捕まりそうになって……、そこで、知らない男の人に助けられたの。顔半分がえぐり取られたように傷ついていて恐かったけど、目は優しそうだった。そして、気がついた時には、奇妙な部屋で裸で寝かされていたの。わたし、みんな夢だと思って……、でも、このお腹……」

 アンナのお腹は、臨月で、出産間際の豊かな丸みをおびていた。彼女の嗚咽は止まらない。エリザベスは、アンナの頭を自分の胸に抱き寄せた。事の解決は、時間に任せるしかない。この哀れな少女は、今や、有り余るほどの時間を持っているのだ。彼女は、まだ気付いていなし、理解もできないだろうけど、アンナは不死の一族の仲間入りをしている。それは、時の記憶だけを紡ぐ空虚な実体だ。まるで訪れる人も無い古い図書館で朽ち果てることもできず埋もれる文献のような存在。ただ、少女の忌まわしい記憶ができるだけ深く風化することを願うしかない。エリザベスは、そう考えていた。それにしても、顔のえぐれた男とは誰だろう。シャールだろうか。まさか、あの薄汚い魔法使いが人助けなんかするはずがない。

 「誤解が無いよう言っておくが、おれは、そのガキを助けたわけじゃねえぜ」

 蝋燭の灯りの届かない薄暗がりの中から突然、その声は聞こえた。くぐもったようにしわがれた男の声だ。その次に若い張りのある女の声が聞こえてきた。

 「いきがかり上、そうなっちやっただけよ。その子の体が必要だったの」

 薄暗がりの中から姿を現したのは、ヨーコだった。ヨーコは、全身血に染まり、片手に人間の首を持っている。それは、サスケの首だった。

 「私のじゃまをしようとしたから、死んでもらったわ」

 ヨーコは、血の滴る生首をエリザベスに差し出して見せた。

 「そうそう、あなたにとっては、かわいい子供のようなものだわね。可哀そうな事をしちゃったかしら」

 そう言って、残忍そうな目で笑った。エリザベスの髪が無数の銀の剣のように逆立ち、鞭のように伸びて、ヨーコの体を襲った。ヨーコはその第一撃を軽くかわすと、目にも止まらぬ素早さでエリザベスの前に立ち、みぞおちに拳を叩き込んだ。エリザベスは、ヨーコの足元に崩れ落ちた。異変に気付いたエドガーとルーイが駆けつけて来た時は、エリザベスの体は、ヨーコの片腕に抱え上げられていた。

 ヨーコの頭をめがけて放たれたエドガーのナイフは空中に浮かぶように動きを止めている。次々に放たれる刃は全てヨーコの体を取り囲むように空中に静止したままだ。

 「無駄よ。こんなものでは私は倒せないわ」

 ヨーコは、そう言って笑った。

 「その子を離せ!」

 エドガーが叫び、全身を震わせ始めた。ミシミシと不気味な音が響き。薄暗い廃屋の柱が曲がって見える。地響きが聞こえる。まるで空間が捻じ曲げられているようだ。

 「待って、エド! こんな場所で力を放出したら、ベスの体が……」

 ルーイが叫んで、エドガーを制止した。エドガーは、ふと泣き出しそうな目をした。いつもとまるで違うなさけ無いような顔で自分の手に視線を落とした。その時、しわがれた男の笑い声が高らかに鳴り響いた。その笑い声の主は、ヨーコだった。彼女の目は空ろで、視線をさ迷わせている。

 「久しぶりだな。エドガー=ハートン。この日を待ってたぜ」

 ヨーコの口から、くぐもった男の声が出た。

 「きさま、シャール……」

 エドガーとルーイは、空ろなヨーコの目をにらんだ。

 「なんだい、その顔は、驚いているのかい。うれしいね。でも、安心しな。俺様は、ちゃんと死んでるよ。幽霊でもないぜ。れっきとした魔法使いだからな。おまえさんたちのようなばけものとは違うんだ。おれはこの女の潜在意識の中に埋め込んだ別人格だよ。擬態の魔薬を使ってな。別人格とはいえ、こうやって会話もできる。もちろん、この女の体も動かせる。“力”も使えるんだ」

 ヨーコは、空いている方の手をエドガーに向かって動かした。重い木の机がエドガー目掛けて飛んで行き、大きな破裂音と共に彼の目の前で粉々に砕け散った。

 「この女は、サイキックだよ。気付かなかったようだな。ニンジャ一人にこの女の監視を任せるなんてな。サスケの死は、エドガー、おまえさんの責任だぜ。ところで、おれを殺したのは誰だ? そこに突っ立っているルーイかい? なかなか立派な死に様だっただろう。俺様の美学ってやつさ。ちゃんと、あの世で待ってるぜ。ルーイの旦那」

 ヨーコは、くっくっと笑い声を漏らした。

 「さて、今は、おまえさんたちと遊んでいるひまはないんだ。さあ、おいで、アンナ、帰るぜ」

 ヨーコは、アンナに手を差し出した。アンナは、怯えた表情で頭を振りながら後ずさりしている。

 「仕方ない子ね。さあ、おいで、私の子猫ちゃん」

 急にヨーコは、彼女の声に戻った。その瞬間、ルーイが飛び出し、アンナの体を庇うように抱き取った。とっさに視線を戻したヨーコの目の前でエドガーが姿を消した。彼は、ヨーコの背後から剣で切りかかっていた。僅かの差でその切っ先を逃れたヨーコは、舌打ちした。

 「まあ、いい。その子といる限り、いつでもあんたたちの居所は掴めるものね」

 そう言い残し、ヨーコはエリザベスの体を抱えたまま忽然と姿を消した。


 レアルの砦は、今も喧騒に包まれている。早馬の往来はひっきりなしに続き、上級将官やエルドールからの賓客の訪れも後を絶たない。他国からの使者も来る。みなすでに戦局が読めたと判断しているのだ。すでに、戦後の論功行賞の噂も聞こえ始めた。忙しい公務の合間をぬって、カレンは、軍師の執務室をのぞきこんだ。どことなくそわそわした感じだ。彼女の視線は、床で居眠りをしているように座り込んでいるアラミスの姿をとらえた。シュンラの姿が無いことにカレンは安心した。

 「チョウリョウ、少し話せるかしら」

 彼女は、目でチョウリョウを差し招いた。

 「今、エルドール防衛省からの使者が来て、アルザニア島の利権について、あなたの意見が欲しいって」

 彼を廊下に呼び出すと、カレンは、そう切り出した。彼女の隣には屈強な護衛兵が直立している。

 「また、戦後処理の議題ですかな。そういった事務手続きに頭を煩わせるのは、私どもには、時期尚早でございますよ。まだ、戦は勝ちと定まったわけではありませぬ。それに、私には、カトマール王室とエルドールの領有権争もブルーノ陛下の王子の安否もあずかり知らぬことでございます。私は、一介の山寺の修行僧、この戦が終われば、それ以外の者ではありませぬ」

 チョウリョウには珍しく不機嫌そうな言葉だ。しかし、カレンは、上の空の様子で聞き流しているように見える。

 「そうね。今はまだ気を抜く時じゃないわね。ところで、シュンラから推薦されてあなたの直属の衛兵になったアラミスだけど、どんな様子かしら。さっきに見た時は、居眠りしているように見えたけど」

 カレンは、声をおとして、そう尋ねた。

 「アラミスは、いつもあの調子です。眠っているわけではありません。常に気を掴もうとしているのです。頼もしい用心棒ですよ。山寺にも四人の僧兵がおりました。彼らの所作に似ております」

 「彼、エドガー=ハートンと一緒に行動していたのよね。何故、エドガーのところにいたのか、詳しく聞いていないかしら。もしかして、一年ほど前にエドガーに助けられたとか言っていなかった?」

 「さて、詳しい事情については、何もうかがっておりませぬ。何しろ、一日のうちに交わす言葉は、一言あるかどうかなので。カレン様には、何事か気になる点がありますので?」

 「ううん。ただ、知ってる人に瓜二つだったから、つい……」

 アラミスの姿を見る度に、カレンの心の中ではベンの面影が思い出されてくるのだ。抱擁する時の指の感触も鮮明に体に残っている。ベンがエドガーに助けられて、今まで行動を共にしてきたのではないかと、カレンは、微かながら希望を込めて考えていた。エドガー、想像を絶する魔力を持ち永遠に年をとることのない少年、彼になら、死者を蘇生することもできるのではないかと思ってしまう。彼女自身、致命傷を負いながらも助けられたのだ。第一、ベンの死を確認した者はいない。ガランカが洞窟の中から彼の遺品を持ち帰っただけのことだ。ベンがアラミスと名を変えて、再びカレンの目の前に姿を現したとしても、それほど不思議なこととは思えなかった。

 「どうなさいました」

 チョウリョウが心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。

 「何でもありません。ただ、カトマールの反乱以来、色々な事がありすぎて……」

 「心配ありませぬ。先ほどは、ちと口が過ぎました。まだ勝ったと浮かれる時ではないのですが、状況は、確実に好転しております。司令官殿は、胸を張って威風堂々と賓客連中に接してくださいませ。あなた様のご意見をみな尊重いたしましょう」

 「ええ、わかりました。いつもありがとう。この戦が終われば、あなたはシュンラと一緒に暮らすのね」

 「はい、一緒に小さな家を持ち、シュンラ様の子供の父親となり、学校で教職につくのが私の夢でございます」

 チョウリョウの言葉に、カレンは、自分の家族の事を思い出した。母は、魔物の刃にかかり、ガランカの消息もいまだ知れない。残された二人の子供たちは、スラニの砦でどう暮らしているものか。彼女の目が遠くを見るような目になった。

 「カレン様の父君も冒険者だったそうですね」

 チョウリョウが沈黙を破った。

 「ええ、でも、わたしが生まれてすぐに死んでいます。国王陛下に拝謁を許された偉大な冒険者。それが、父について知っていることの全てです。名前は、カルザック=ダルク」

 彼女が父親の事について話をすることはあまりない。知っていることが悲しいほどに少なすぎるのだ。どうやって死んだのかさえもわからない。

 その時、軍師の部屋のドアが開いた。アラミスが呆然とした顔でそこに立ち、カレンの顔を見つめていた。

 「きみが……」

 アラミスは、カルザックの面影をカレンの中に探していたのだろう。ただならぬ様子に護衛兵が色めき立った。すでに剣の柄に手をかけている。

 “ベン”

 カレンは、心の中で叫んだ。こんなに似ているのに別人のはずがない。

 「俺は、あなたの父上を知っている。立派な人だった。少年だった俺をかばい、魔王アーサーと戦ったんだ。俺の知っている中で、最も勇敢な人間だった」

 アラミスは、彼女に向かって冒険者の最敬礼を送った。


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