第五話『ユニバック vs バイナック』(6/6)
━━この宇宙は、一台の巨大なコンピューターによって造られている。
宇宙のあらゆる事象は本質的に『情報』として記述可能であり、すべてはコンピューターのシミュレーションによって計算された結果に過ぎない。
むろん、それは一つの仮定に過ぎない。推論に過ぎない。科学的に証明されたわけでもない。
━━だが、2085年現在、それを否定する証拠もない。
(そんなこの宇宙をこの眼で『視る』ならば!!)
右眼の単眼鏡を外した津瀬現人の視界には、ヒトの眼球が通常捉えることのできる光学的視界、つまり当たり前の色彩空間にオーバーレイして、莫大な数字の洪水が表示されている。
たとえるならば、数字を記した透明な紙が貼り付けられている━━わけではない。
それは二次元的な深度と階層を持った莫大な情報の渦である。
ヒトが眼球を通して得られる本来の情報とはまったく異質なデータであり、通常のヒトが持つ視覚ではそもそもアクセスかることができない、世界の本質でもある。
(けれど、これはあくまで情報に過ぎないんだ……)
1であり、0である。だが、1011であり、1101101であったりもする。
時には0と1だけで表現される2進数ではなく、ごく普通の10進数、つまり0から9の表示であったり、16進数、すなわち0123456789ABCDEFでもある。
(バイナックは……2進数のコンピューターか!)
そして、今の津瀬現人にバイナックの姿は無数の0と1として捉えられていた。
その0と1を単に数字として受け取るならば、無意味であり、到底理解が追いつかない、難解極まるコンピューターとして見えるだろう。
「……そうか」
だが、今の津瀬現人には見える。
視えるし、識ることもできる。
「お前って、結構単純なコンピューターなんだな」
「!?」
そして、決して理解できない存在でもなかった。
「アタシが……単純だと!?」
「ああ、そうだ。だって、僕なんかにでも理解できるんだからな」
歯ぎしりと共に殺意を剥き出しにするバイナックを、現人は平然と見据えた。
バイナックが内蔵する2系統の計算回路━━つまり、A-CPUとB-CPUが同じ計算処理を行い、それぞれを比較しあっているのが分かる。
お下げの少女の姿を纏おうとも、怒りの感情を表皮に装おうとも、津瀬現人の右眼からは逃れられない。
すなわち、『計算する宇宙』からは。
そう、『計算する宇宙』からは、隠し通すことなどできない。
(弥勒零……System/360の時とは違う)
現人は直視しないように気をつけながら、ちらりと視線を後方へ走らせた。『アーキテクチャの大剣』を手に持つ、ポニーテールの美女がこちらを見ていた。
偉大なる青、IβMのメインフレーム、その頂点であるSystem/360。
これほどの顕現存在ともなれば、その設計や処理、何より存在の内包する歴史はあまりにも複雑で莫大であり、現人の理解など到底およばない。
かつて直接警告された通り、そんな相手を直接見たならば、現人の脳は焼き切れてしまうだろう。
(でも━━バイナックならいける)
口元に笑みが浮かぶ。
考えてみれば、当たり前のことだ。現人はユニをこの右眼で視たことがあるのだから。
その裸体を。内部を。存在し、動作する全ての本質までを見通したことがあるのだから。
確かにはっきりと理解するには至らなかった。けれど、頭が破裂するということもなかったのだ。
なぜなら、ユニバック・ワンは初期の商用コンピューターであり、その動作原理も演算回路も、人間の手で十分に設計・構築可能なレベルである。
まして、バイナックはさらに単純なコンピューターなのである。
(たぶん……彼も)
そう、後方で倒れているフェランティ・マーク・ワンをも。
今の現人は理解することができるだろう。
ほんの一ヶ月も前なら恐らく無理だったかもしれない。
けれど、彼は1人の高校生として『コンピューティング史』の授業で、そして1人の少年として独学で、何よりユニと共に暮らす1人の家族として、少しずつだが知識を得た。
教えられた。考えた。そして、ただの知識は知恵へと辿り着いた。
「………………はははっ」
津瀬現人はバイナックを前にして、なんともさわやかに笑った。
嘲笑ではない。明るく、知的な喜びに満ちあふれた笑顔だった。
ささやかではあるが、自らの経験が、努力が実を結んで、これまで理解できなかったものを、今は理解できている━━その新鮮な歓喜が全身を駆け巡っていた。
「何を笑ってるんだ……アタシの前で! 今から殺される奴が、なぜ笑ってるんだ!」
「そりゃあ……お前なんかに、負ける気がしないからだよ」
「っ!! クソガキがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
バイナックの手に水銀遅延線記憶装置が顕現した。
ただのヒトを全力で打ち据えたなら、殺傷の鈍器としてではなく、この宇宙から情報としての消去を━━つまり、ヒトとしての死ではなく、存在の抹消すらも可能な恐るべき武装である。
「死ね!! 消去ね!! この宇宙から削除されちまえぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
バイナックが跳ぶ。巨大な水銀遅延線記憶装置が頭上から襲いかかる。
「ウツ、ヒ……ト……」
「大丈夫」
息絶える寸前の羽虫が鳴くような声で、ユニが唇を震わせた。
津瀬現人はそんな彼女を見た。
後悔と自責に打ちのめされ、傷つけられ、立ち上がることも出来ないでいるユニを見た。
ほんのミリセコンド秒の後には、己の存在を抹消する水銀遅延線記憶装置が降ってくるというのに、15才の少年は平然とよそ見をしていた。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「━━━━━━」
「……な!!」
だが、現人には何の打撃も加えられることはなかった。
「なん……なんだ! なんだこれは!?」
「お前の中でも、通じる言葉だ」
バイナックの水銀遅延線記憶装置が、津瀬現人の右手に触れた瞬間、ある言語が流し込まれていた。
水銀遅延線記憶装置とは、コンピューターの主記憶装置である。
ユニバック・ワンにせよ、バイナックにせよ、ここから命令を━━いわゆるプログラムを取り込み、実行する。
加算を。減算を。乗算を。除算を。
ありとあらゆる処理は、主記憶装置から読み込んで実行される。
コンピューターのCPUとは、究極的に言えば、主記憶装置との間で、プログラムとデータをやりとりしながら、一定パターンの計算を続けるだけの装置でしかない。
(……だから、こいつはてきめんに効く)
現人が口にしたのは。
バイナックの水銀遅延線記憶装置━━すなわち主記憶装置へ、直接流し込んだのは、原初のコンピューター言語である。
その名はShort Code。ユニバック・ショート・コード。
「バイナックとユニバックシリーズ。
その処理に使われる、ユニバック・ショート・コードを使った」
「………………!!」
それはひどくシンプルで、基礎とすら言えない処理の停止命令だった。
「な、な……なな……な!!」
だが、顕現存在であるバイナックに対する効果は劇的である。
彼女が言うところの生意気なクソガキをぶち殺すはずの武装が、水銀遅延線記憶装置が。
「……バカな! こんなバカな!!」
あっさりと消え失せていたのである。
その両手に握られていた、巨大な円筒形の顕現武装は、跡形もなく消滅している。
それどころか、彼女の手━━何本かの指先すらも、とてつもなく強烈な酸にでも浸されたように、溶けて無くなっているではないか。
「もうやめろ。そして、ユニに謝れ。お前は僕に勝てない」
「ふざけろっ! お前なんかにこのアタシが!!」
「ムダだ」
次にバイナックが顕現させたのは、真空管のチューブであった。
弾丸のように、現人へ向けて撃ちだそうとした瞬間、真空管は爆裂した。バイナックはその勢いで吹き飛ぶ。
「そのくらいなら、直接ショート・コードを流し込む必要もない」
「バカな……アタシが……アタシがただのヒトなんかに……こんなクソガキに……!!」
「僕は確かにただの高校生だけど」
不気味なほど落ち着いた現人の足音が、南多磨高校の体育館に響き渡った。
バイナックは何本もの指を失い、そして真空管が破裂した際に、足にもかなりのダメージを負っているようだった。
「バカな!!」
「もうお前は、そんなただの高校生からも逃げられないんだ」
「……こんな、バカな……!!」
戦場で地雷を踏んでしまった歩兵のように、バイナックは床を這いずって、逃げ延びようとする。
津瀬現人はそんな彼女にトドメを刺すべく、一歩一歩近づいていく。
その周囲には無数の何か━━小さな装置が浮かび上がっていた。
電子部品に詳しい者であれば、それがリレーと呼ばれる部品の集合体であることに気づいただろう。
ユニが驚愕に目を見ひらき、古毛仁直と弥勒零が絶句している。
だが、当の現人自身は自分の周囲に顕れたものに、気づいた様子がない。
「うっ……バカな……!!」
「………………」
「うぐっ……ひぐ……バカな! バカなバカなバカな! こんなことがあってたまるか!!
アタシはなんだったんだ! 名誉もなく! 栄光も奪われ!……ぐすっ、歴史に忘れられ!!
復讐すらも果たせない! ユニバック・ワンをあと一歩で殺せたのに! こんな奴に! やられるなんて!!
そんな……うぐっ……ひっく……そんな無惨な終わりがあってたまるか!!」
「当然の━━報いだろ」
這いずり泣きじゃくるバイナックの襟首を掴むと、現人は子供を持ち上げるように、その体を吊り上げた。
「汚い手ばかり……使いやがって!」
「うるさいっ! アタシは……アタシはっ、強くない! ユニバック・ワンと正面からは戦えない! 正当なやり方だ!」
「ふざけるな! だったらなんで志保を巻き込んだ!」
「かっ!! こんな時代のヒトが1人や2人、死のうが生きようが知ったことか!!」
「っ━━そういうお前だから!」
津瀬現人の頬には、バイナックの吐きかけた唾が付着している。
「僕みたいな奴にも……躊躇なく手を下せるんだよ!」
そして、現人は完全なデリート命令を。
顕現存在として、バイナックを抹消する命令を濃密に流し込んだ。
「ぎゃあああああああああああああああ! あぐっ……が、は! ぐぎゃああああああああああああああああああ!!」
「……もう二度と目覚めるな、バイナック」
「あぎ……ひっ! ぐはがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! ああああああああああああああああああああああああああああ!!」
火刑に処される魔女が苦悶し、叫ぶように。
「くそっ! くそっくそっくそっくそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!
アタシはぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁっ! アタシこそはぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 世界で、最初の……商用……ぎゃああああああああああ!!
あっ……ぁぁ……ぁぁ!……ぁ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
バイナックはその存在が消え去るまで、己の信じる真実を叫び続けていた。
そして、最期には灰の1つも残らず消え失せる。
「……何が、世界で最初だよ」
現人が吐き捨てたその時、彼の背後でリレー装置の1つが、カチリと音を立てた。
「……Zuse……」
傷の痛みに顔をゆがめながら、背後でフェランティ・マーク・ワンが呟いた。




