第三話『英国的一夜一夜物語』(1/3)
━━そのルーツは、実に220年も過去のことである。
すなわち、現代から2世紀以上の時を遡った1864年。
将来、偉大な電気技術者となる男が、イギリスのリヴァプールに生を受けた。
『おお、偉大なるリヴァプール。ダーティ・プールの名を授けられし、いとおしき港町』
その港はイギリス中央の西岸にあった。
文字にたとえるなら『く』の字を左右反転させたど真ん中にあたる。
対岸にはアイルランド島が行く手をふさぐようにそびえており、地図でみるならばいかにも狭苦しい場所にある港湾都市、それがリヴァプールだった。
『だが、まさにそれは要衝だった』
とはいえ、地図においていかに狭苦しく見えたとしても。
船の通行には十分すぎるほど広い水路があり、北に南に、もちろん西東にと、あらゆる意味でアクセスの良い土地、それがリヴァプールである。
まさにイギリス経済上の、そして地政学上の要衝であり、この場所が英国第一の港湾都市として栄え━━遠い未来にドイツ空軍の猛烈な爆撃にみまわれたことは、歴史の必然と言えた。
『そして、戦争の勝者を正しく当てたのもリヴァプールだった』
もっとも、その『戦争』はイギリスとドイツの戦争ではない。
さらに言うなら、国と国の戦争ですらない。
それは大西洋を挟んだ隣国、すなわちアメリカ合衆国との間で行われていた大戦争であった。
『片や、直流。片や、交流!
すなわち、エジソン。すなわち、ウェスティングハウスとニコラ・テスラ!』
もちろんそれは国と国の戦争ではない。
さらに言えば、アメリカ人同士の内戦、つまり南北戦争とも違う。
それは電流戦争━━後世にそう呼ばれることとなる、歴史上の超有名人同士で行われた規格争いだった。
当時、電気なるものが事業所へ、家庭へ届き始めたばかりの時代。
そのために建設される送電網において、トーマス・エジソンは直流を推し、ウェスティングハウスとニコラ・テスラは交流を推していた。
戦いは熾烈きわまりなく、良識ある人ならば眉をひそめるであろうネガティヴ・キャンペーンのために、電気椅子まで作り出された。
『だが、我らの創業者は交流が勝つことを見抜いたのだ!』
それこそがリヴァプールの生んだ一大電気技術者であるセバスチャン・ジアーニ・ド・フェランティだった。
ビートルズが結成されるより1世紀前に、リヴァプールは既に偉人を輩出していた。
彼は交流の将来性を見抜き、イギリスの電気技術発展に貢献した。きわめて優秀な発電機をつくり、一大製造企業を興した。
『それこそが、我々の戴くこの名「フェランティ」だ』
無数の電気製品を作り、売り、社会に貢献した。
ナチス・ドイツとの戦いにおいては、救国戦闘機スピットファイヤの照準器製造を引き受け、祖国を支える一員となった。
『我々はさらに発展する』
『これからはコンピューターの時代だ』
『これぞ頭脳。新しい頭脳。すなわち、電子頭脳!』
『我々はマンチェスター大学と共同でコンピューター『Baby』を作り出した』
『さらなる飛躍が我々フェランティによって為される』
『フェランティ。我々フェランティの一号機』
『その名はフェランティ・マーク・ワン!』
時に1951年。
既に始まりのコンピューター……であると、当時ほとんどの者が考えていたENIACの名は世界に轟いていた。
しかし、遂にあの大陸国に続いて、紳士の国はそれに比肩するものを造りだした。
我々は追いついたのだ。
我々はまだ脱落していないのだ。
BBCが報じた。タイムズが報じた。あらゆる英国の報道機関が賞賛した。
第二次世界大戦の終結から6年。苦しい勝利から6年。
英国が世界の盟主から明確に転落した戦いから6年。
その成功が当時のブリテン人を、ウェールズ人を、あるいはアイルランド人ですらも、大いに勇気づけ、愛国心とかアイデンティティといったものを刺激したことは、想像に難くなかった。
『無論……当時は皆知らなかった。知らされてはいなかった』
実のところ、英国は第二次世界大戦中からコンピューターを実用化していた。
しかしそれは007よりも分厚く、徹底的な秘密のヴェールで守られており、そして1950年代当時、その防諜は完璧に機能していた。
『まだ知らぬがゆえに。過去を知らされていないがゆえに』
英国の大衆はそのコンピューターこそ、英国で『初めて』のものであると。
『まだ知らぬがゆえに。未来を知らされていないがゆえに』
そして世界で『初めて』のものであると。
『これは世界で最初の商用コンピューターだ!』
『売るぞ!』
『もはやコンピューターは政府や軍事組織だけのものではなくなったのだ!』
『アメリカではない! 我々イギリスこそが商用コンピューター時代の覇者となるのだ!!』
商用コンピューターの最初期に生まれしその名は、フェランティ・マーク・ワン。
その一号機が原型機の開発にも協力していたマンチェスター大学に納入されたのは、1951年2月だった。
━━実に。
ユニバック・ワンの一号機がアメリカ国勢調査局に納入される、1ヶ月前のことである。
~~~~~~UNIVAK the zuper computer~~~~~~
「うつひと~。朝ご飯できてるわよ~。二度寝したらダメよ~」
「わかってるって……」
けたたましい目覚ましのアラームと同時に、部屋の扉を乱暴にノックする音が響く。
「っ……」
目を覚ませば、視界を覆い尽くす数字の羅列。
ズキリと走った脳裏の痛みをこらえて、津瀬現人は枕元の単眼鏡を右眼にはめると、まだ8月初旬の表示になっているカレンダーを見た。
「まあ……いきなり部屋に入ってこないだけ今朝はマシか」
志保が毎朝、起こしにくるのは夏休みになっても変わらない。食事を作るのもまた毎日のルーチンである。
じわり、と胸元に汗が滲む程度の室温。
津瀬宅が建てられたのは21世紀になってからである。地震大国らしい免震構造と、十分過ぎるほどの断熱構造をそなえた快適なこの一軒家だが、困ったことにエアコンの室外機は集中管理されており、それが壊れると宅内の空調は全滅するというウィークポイントもある。
「あの頃は地獄だったよな……」
ほんの数日前を遠い過去のように思い出しながら、現人は服を着替える。
どうやらこちらが眠りこけている間に志保が部屋へ入ったらしく、綺麗にアイロンをかけられた制服が用意してあった。
「おはよう」
「おっはよー、現人!」
「おはようウツヒト……私はとても眠い。夏休みはもっと寝ていたい」
「んも~、ダメよユニちゃんったら。規則正しい生活と朝ご飯は元気のもとよ~」
2階の自室から1階のリビングへ下りた現人に向けられる志保の笑顔。それはいつものことだった。
眠そうにしているユニ。これもいつものこと。
せいぜい違いがあるとしたら、当たり前のような顔でテーブルに座っている安澄━━つまり、京の実姉にして、現人たちの自称・姉くらいである。
「安澄姉もおはよう」
「おはよう、うーくん! ちゃんと挨拶できるのはいい子の証よ! えらいえらい♪」
「ちょ、頭は……いいって」
感激したように目をきらきらと輝かせて、現人の頭を撫でようとする安澄。
困ったように体を反らせる15歳の少年を、志保とユニが嫉妬とも非難ともつかない視線で見つめている。
「あー、現人が逃げたー」
「ウツヒトは1人だけずるい。私とシホはさっきまでたくさん撫でられていた」
「それはそっちの問題だろ。僕まで巻き込まないでくれ」
「はぁっ、うーくんにフラれちゃうなんて……お姉ちゃんショックだわ」
「安澄姉も本気で落ち込まないで。
そもそも、今朝はどうしたんだい? 僕たちは今日、登校日なんだけど」
「そうそう、それよ!」
南多磨高校の制服を着込んだ男女3人を幸せそうな顔で眺めながら、安澄はぽふりと両手を打った。
「みんなの制服姿が見たくてね~。ああっ、こんなに大きくなって……お姉ちゃんは嬉しいですっ」
「僕と志保はともかく、ユニとはこの前会ったばかりだろ」
「まあまあ細かいことはいいっこなしで」
「でも、安澄お姉ちゃん、制服なら京くんも着てるんじゃない?」
「私もそう思う。少なくともケイはウツヒトと同じ服を着ている」
「ああ~、ダメよぉ。
京はねえ。血のつながってる弟は、ちょっと眼中にないっていうかねえ」
「………………」
「………………」
なにやらひどく深く、そしてえぐい言葉のように思えたが、その対象がなにぶん京であるので、現人も志保も問題なしと判断する。
「……アンスは少し、こわい」
ユニだけが常識的な感想を漏らしていたが、そのつぶやきはテープデバイスがデータテープを巻き取る音よりも小さく、電源のトランスがしん、と鳴るよりもささやかであるため、安澄の耳に届くことはない。
「ハンカチとティッシュは持った? 学校までの道は覚えてる?」
「当たり前だろ……」
「はあっ……かわいい弟と妹を朝のお見送りっ。夢に見てたのよねぇ~」
「シホ……アンスはいつもこうなのか、教えてほしい」
「安澄お姉ちゃんはみんなのことが大好きなだけよ。
もちろん、あたしも安澄お姉ちゃんが大好きよ! だからしたいようにさせてあげればいいと思うわ!」
「ウツヒト……そういうもの?」
「まあ、悪気があってやってることじゃないからさ」
困ったように笑う現人の表情には、確かに照れや困惑の他にも、優しい家族愛にも似た感情が含まれているように、ユニには思えた。
「ん、わかった。現人がそう言うなら」
「それじゃあ、安澄お姉ちゃんいってきま~す」
「いってくるね、安澄姉」
「いってらっしゃ~い! 気をつけてね~!!」
津瀬宅の主であるかのような笑顔で、玄関に立って手を振る安澄。
(父さんと母さんが……日本にいたら、こんな感じに見送ってくれるのかな……)
ぎこちなく右手を振り返しながら、現人はそんなことを考えていた。
太陽は高く、空気は熱かったが、胸の内は春の午睡のようにぽかぽかとしていた。




