五 独善
玄関の鍵は開いていた。
廊下を駆け抜け、最初に部屋に入った高原の目に、広々とした和室に所在無げに敷かれた一組の布団と、その上で寝巻姿で腰まで掛布団をかけ、座っている同僚の姿が飛び込んできた。
葛城は、開いた襖から畳へ一歩踏み込んだところで足を止めた高原を見て、安堵の表情になった。
「晶生・・・・」
同僚にその名前で呼びかけた葛城は、しかしすぐに表情を曇らせ、うつむいた。
高原がゆっくりと歩き、葛城の脇まで来て跪いた。
何も言わず、葛城の顔を、本人であることを確かめるように見る。
葛城は一瞬高原のほうを見たが、さらに表情を硬くし、目を逸らした。
「・・・ごめん、晶生」
「・・・・・・」
「いや、詫びる資格もないなら・・・謝らないよ。・・・」
高原が一言も発しないので、しばらくして葛城はもう一度同僚のほうを見ようとして、そして驚いて息をのんだ。
葛城の上体は、強い力で抱き寄せられ、抱き締められていた。
「・・・・晶生・・・」
葛城の耳のすぐ傍で、高原の口からようやく絞り出すように声が出ていた。
「この、大馬鹿野郎」
「・・・・・・」
「いい加減にしろよ。俺たちを・・・なんだと思ってる」
「・・・・・・・」
続いて和室へ到着した茂は、入口でやはり立ち止まり、そして後ろにいる山添と槙野と共に、そのまま廊下でしばらく高原の背中を見ていた。
茂は、泣いている高原を見るのは二度目だと思ったが、今回は先輩警護員を慰めたいという思うゆとりはなく、自分だけは冷静でいることだけで精一杯と思った。
しかもそれさえ達成できなかった。
その場に座り込み、葛城と高原を見据えたままぼろぼろ涙をこぼす茂を、山添が両肩に手を置いて軽く揺する。
槙野も立ったまま鼻をすすっていた。
しばらく経って、ようやく落ち着いた様子の茂の頭を軽くたたき、山添が葛城と高原を見て笑った。
「葬式みたいだな。当人は健康そうだっていうのに。でも、とりあえず健康状態と今後の方針は、念のために確認しておいたほうがいいんじゃないか?」
山添が歩いていき、布団の脇に置いてある薬入れとメモ書きを手に取った。
書いてあることを丹念に読み、そして苦笑する。
「ご丁寧なことだ。怜のこれまでの治療経過と今の状態と・・・・これからの注意事項・・・・薬の飲み方も、分かりやすく書いてある。」
高原と葛城が、それぞれ座ったまま、山添のほうを見る。
山添は二枚目の紙を読む。
「あと、この先、毎日どのくらい運動するべきか、まで書いてあるね。・・・ん、最後にある、これは・・・・」
山添が、三枚目の紙を、皆のほうへ向けた。
槙野と茂が山添のほうへ近づき、高原と葛城も目を凝らした。
白い紙の端に、リンゴがなっている樹の絵が描かれていた。
三十分後、山添が運転する事務所の車が葛城の自宅前から走り出した。
助手席の槙野が、後部座席の茂をちらりと見た後、隣の先輩へ尋ねる。
「あの、高原さんと葛城さんを置いてきてしまって・・・大丈夫でしょうか・・・・万一、葛城さんの体調が悪くなったり、あるいは奴らがまだ近くにいて何か危害を加えてきたりしたら・・・」
「大丈夫ですよ。槙野さん。そういうことがあるなら、もうとっくに起こっているはずですからね。」
「はい」
「波多野部長には一報しましたし。事件以降の経過は怜からほぼ聞いたので、事務所でこれから槙野さんがレポートにしてくれるわけですしね。」
「はい」
「あとは怜の処分を待つばかりですよ。」
「・・・葛城さん、やはり処分されてしまうんでしょうか・・・・」
山添は心配そうな槙野のほうを一瞬見て、微笑した。
「まあ、仕方ないでしょうね。大丈夫、解雇されるようなことはないでしょうから。せいぜい、出勤停止処分でしょう。」
山添は信号待ちをしながら、バックミラー越しに後部座席の茂のほうを一瞥した。
「河合さん。心配そうな顔してますね」
「あ、いえ・・・・・」
「心配の対象は、もちろん、怜と晶生の安否でもなければ、怜の処分の軽重でもないんでしょう」
「はい。・・・・あの、・・・・す、すみません」
沈黙が流れ、やがて信号が変わる。
車が再び静かに走り出す。
山添の言葉がエンジン音の隙間から聞こえてくる。
「いいんですよ、正直に言ってください、河合さん」
「・・・高原さんに今日電話してきた阪元探偵社の社長さんの様子は、落ち着いておられたそうですよね」
「ええ」
「葛城さんの健康を祈る、みたいなことまで言っていた。」
「そうですね」
「でもさっきの葛城さんのお話だと・・・・葛城さんを助けて危険な目に遭った浅香が、そのことがきっかけで、その後、事故に遭って・・・・実際に死にそうな怪我を負った。」
「はい」
「もっと怒り狂っていてもよさそうなものなのに、不思議だと思ったんです」
前を向いたまま、山添は静かに笑った。
「良い視点だと思いますが、まあ、考えるのはよしましょう。河合さん。」
「・・・・・・・」
「あいつらも、色々なところにぶつかりながら、もがいてるのかも知れないですし。なにかが、あったのかも知れませんし。」
「・・・・はい」
「それに、奴らの心配をしているゆとりは、ないですよ。」
「・・・・・・」
「千の攻撃より強烈な攻撃は、”親切”です。」
「・・・」
「それでも警護員としての我々は、明日も、襲撃犯からクライアントをなんとしても守る。それ以外のことは考える必要はないし、考えてはいけないんですから。」
「はい。」
次に山添は、槙野へ言葉を向けた。
「あの絵、意味がわかりますか?槙野さん。」
「もしも明日世界が終わるなら、私は今日リンゴの木を植えるだろう。・・・・でしょうか」
「たぶんね。そしてそれは、明日殺し合うとしても今日は助けよう、というような、甘い意味じゃないと思いますよ。」
「・・・・・」
「そうではありませんか?」
「はい」
「・・・どういうことだと思いますか?」
槙野は唾をのみ込み、言葉を出した。
「我々の力の及ばないところで、運命は回っていて・・・・いつも我々は、なにも分からないままに、自分の仕事をすることしか、できません。・・・でも、天は全て知っている。・・・そう、世界はとっくに終わっているし、同時に、まだ終わっていない・・・。」
「自分の力の及ばないことを心配すること自体が、我々の分を越えた所業なんでしょうね。」
「はい・・・なぜならそれは、時間と労力の無駄で、・・・それは、自分の力の及ぶことをする時間と労力を、無駄遣いすることになるから、です。」
「そうですね。」
「自分たちを罪人だと思うことそのものでさえ、おこがましい。傲慢なことなのかもしれません。」
「・・・はい」
小雨が止み、どんよりとした曇がそこにあるはずの、星のない夜空が、ワイパーを止めたフロントガラスの向こうに広がり、ビルの屋根に遮られた。
茂の声が後方から届いた。
「俺は、葛城さんとは違うやり方で仕事をすると思いますし、今回葛城さんがなさったようなことは、反対です。でも、葛城さんを尊敬しています。」
「はい」
「会社のことを心配しすぎて体を壊すような高原さんも、見ていて歯がゆいです。でも、高原さんのいない会社なんて、考えられない・・・・・」
「そうですね」
「俺は、余計な心配はしないで、仕事をします。会社のことも、先輩のことも、余計な心配はしない。」
「ええ。」
「世界平和のことも、地球温暖化のことも、心配なんかしない。」
「あははは。それは俺も、心配しない主義です。」
「・・・仕事をすること、生き延びること、そのために自分が実際にできて、そして実際にすべきことって何なのか、それは本当に何なのか、・・それだけ考えたいです。それも、思い込みとかじゃなくて、自分の頭で考えたいです。」
「はははは。そう、それだけでも、結構な量の仕事ですからね。世界の終りはいつも過去であり、未来であり、そして今日でしょう。我々、今の仕事をするだけで、精一杯ですね。」
茂と槙野も、笑った。
山添は二人の後輩に、言った。
「だからね、河合さん、槙野さん。奴らをつかまえようとか変えてやろうとか、そういう大それたことを考えるのも、一億年早いのかも。」
二人は黙って頷いた。
「もちろん」
車が大森パトロール社のある雑居ビルへと近づいていく。
「・・・・・」
「もちろん、そのことに挑むことを、やめられるかどうかは、別ですけどね」
「・・・・・・・」
翌日の夕方、大森パトロール社の事務所へ茂が顔を出したとき、槙野がこちらを見て走ってきた。
「河合さん、お待ちしてたんですよ」
「あ、何か、ありましたっけ?」
「これ、おすそ分けしたくて」
槙野の手に小さな紙袋が握られ、中にアルミホイルで包まれたものが入っていた。
「なんかいい匂いがしますね」
「手作りクッキーですよ。先にちょっと頂きましたが、めちゃくちゃ美味しいです。」
「どうしたんですか?これ」
槙野はちらりと事務室内を振り返った。
自席から山添が、そして打ち合わせコーナーから高原が、こちらを見て手を振っている。
「・・・元クライアントの、墨田様から頂いたんです。」
「へえー」
「今日、昼間にお礼にみえたんですよ。警護契約が終了した後、あまり詳しいことはお話していなかったにも関わらず、墨田さんのほうから定期的に連絡をくださってたんですが」
「はい」
「今日、葛城さんが昼間少しだけ出社するとお伝えしたら、それに合わせて墨田さんが来られたんです。」
「なるほど」
槙野から茂は紙袋を受け取る。
「葛城さんと僕だけではなく、会社の皆様に、本当にありがとうございましたとお伝えください、と。」
「はい」
「代金をお支払する以外で、自分には感謝の気持ちを表す術がなにもないけれど、せめて得意なクッキーを大量につくってきたから、って。」
「そうなんですね」
茂は、紙袋のアルミホイルの中のクッキーを、ひとつつまんで口に入れてみた。温かい味が口に広がった。
「槙野さん」
「はい」
「あのとき墨田さんは、葛城さんに、犯人確保を求めたわけではないんですよね?」
「・・・・そうです。」
「葛城さんから許可を求められて、同意したに過ぎない」
「はい」
「犯人が殺されて、よかったと思っておられるか、あるいは・・・・」
「あるいは、警察に生きて逮捕されてほしかったと思っておられるか。それは、僕にも、よくわかりません。・・・もっともっと分からないのは、本当に家族を殺されてしまった被害者ご遺族の方々の、思いです・・・・・」
「そうですね。奴らに依頼したご遺族だけじゃない、かもしれませんからね。」
「はい。」
茂はもうひとつクッキーを口に入れ、微笑した。
「おいしい。」
「でしょう?」
「嬉しいですよね。やっぱり、クライアントに、感謝されるというのは。」
茂が給湯室から麦茶のピッチャーとグラスを持って応接コーナーへ行くと、高原もクッキーを食べていた。
「あれ、高原さん、甘いものって苦手なんじゃ・・・・」
「これはおいしいよ、河合。俺も食わず嫌いはやめて、今度和菓子も食べてみようかと思うよ。」
「あははは。まあ、お店で買うクッキーより、千倍おいしいのは確かですね。」
「そうだよな」
茂に注がれた麦茶を一口飲み、高原は楽しそうに笑った。
「怜もなにか俺たちにつくってきてもいいよな。散々心配かけて」
「そうですよね。でも葛城さんに料理しろというのは酷ですよね」
「うん。ペンギンに空を飛べというくらいのことだな。・・・そういえば、河合。」
「はい」
「崇に聞いたけど、お前、文学論で槙野さんと意気投合したんだって?」
「・・・あ、いえいえ、文学じゃなくって、物語とか漫画とかの話ですよ。」
「言ってた、崇が。今回の怜と槙野さんの担当した案件の犯人って、物語に出てきそうな、お前が一番嫌いなタイプの犯人だったらしいけど、その後のお前の感想を聞いてみたい、って。」
「・・・・・・」
「どうだった?」
「・・・・事実は小説より不快なり、でした。」
「はははは」
「そして、仮にも身勝手な犯罪を擁護するようなことを書くなら、作家には相当の覚悟が必要だと、改めて思いました。大量殺戮シーンとかを気軽にじゃんじゃん描く人間の、気持ちのあり方も、いまだになぞです。」
「反戦ものとか。」
「高原さん、戦争は条約に基づいたものである限り犯罪じゃありませんよ」
「まあね」
「俺が言っているのは・・・・」
「わかってるよ、河合。ごめんごめん。次元の違う話をして悪かった。お前があんまり苦しそうだからさ。」
「・・・結局は、見る側、読む側の判断ではありますけれど・・・・・。そして、高く評価されているものが、本当に良いものかどうかも、わからないですし。」
「そうだね」
「だから少なくとも俺は、自分が感じたことは素直に直視したいんです。よく分からない、納得できないものを、分かったつもりにならないこと・・・・。たくさんの人が、良いとか意味深いとか言っているからって、鵜呑みにしないこと。」
「うん。それが高じると、裸の王様ができちゃうかもしれないもんな。」
「はい。俺は警護員として、クライアントをどんなことがあっても守ります。」
「うん」
「たとえ世の中のすべての人々が、襲撃犯を支持しようと、犯罪者を称賛しようと。」
「ははは・・・そして、クライアントを殺せと世の全員が叫ぼうとも、だな。」
「そうです!」
そのとき、従業員用の出入り口をカードキーで開ける音がして、ひとりの警護員が息を切らせて事務室内へ入ってきた。
高原が軽い驚きの表情でそちらを見たので、茂も振り返った。
「おい、出勤停止処分中の人間が、一日に二度も事務所へ来るんじゃないぞ。」
「ごめん。忘れ物。」
葛城が顔を赤くし、息を整えながら自席に駆け寄り、机の上に置き去りにされていた紙袋を取った。
「もしかして、それ」
「うん。墨田さんのクッキー。」
「お前、甘いもの苦手じゃなかったっけ?」
「もらってすぐ一枚食べてみたんだけど、この世のものとも思えないくらい美味しかった。」
「あははは」
「今度事務所に来るまで放っておいたら、誰かに食べられちゃうに違いないから。絶対持って帰る。」
「なるほど」
茂はたちあがり、事務所出口へとんぼ返りしようとしている葛城へ向かって言った。
「葛城さん、お気をつけて。また出勤されたら・・・お休み中の高原さんの行状については俺から逐一ご報告しますから、ご安心ください。」
「はい、ありがとうございます。茂さん。」
「おいこら、河合。」
「さっきも、なんか、葛城さんのことをペンギンとか言ってましたよ」
「晶生。」
「こら河合」
後ろで山添が堪えきれずに笑い出す声が聞こえた。
葛城が帰ってしまうと、茂がため息をついた。
「どうした?河合」
「なんか、葛城さんがいない事務所は、本当に淋しいので・・・・」
「もう少しの辛抱だよ。がんばれ」
「はい・・・・」
「それに三村さんという大親友がいるじゃないか、お前には」
「・・・・・」
「?」
「そういえばあいつ、高原さんとホットラインがあるから俺のことは何でもわかる、みたいなこと言ってましたが」
「うん」
「でも昼間の会社で会ってもあれからこの事件のことも、なにも言わないです。」
「・・・もうこの件ではお前は大丈夫だと思っておられるからだろうね。」
「そういうのもなんか親みたいで鬱陶しいです、あいつ」
「こらこら」
「でも、そういえば・・・最近ひとつだけ、よく分からないことがありました」
「どんな?」
「前に事務所の前で会ったとき、俺が改めて、俺の警護員の仕事は土日夜間限定だから、って言ったとき」
「うん」
「何かものすごく言いたげにして、なのにすぐにやめて、もう絶対言わないぞっていう決意をみなぎらせて、去っていったんです」
「・・・・・」
「あいつが考えて俺に言いたいことは、大体わかるようになったつもりなのに、あれだけはよく分からなくて・・・・。」
「そうか。」
高原が麦茶を飲み干し、茂が二杯目を注ぐ。
先輩の顔が楽しそうなのを見て、茂は眼鏡の奥の高原の目を凝視する。
「高原さん、わかったのなら、教えてください」
「ああ、いいけどさ」
もったいぶるように笑う高原は、茂が怒った顔をしてみせるのを見てさらに笑った。
「大した実力もないくせに、中途半端な副業をして、ということですよね」
「まあ当たらずとも遠からずだろうけど。もう少し正確に言うなら・・・もうそろそろ、フルタイムの警護員になることを考えてもいいんじゃないか。そういうことなんじゃないかな。」
「・・・・・・・」
「お前もずいぶん修業して、新人というよりようやくちょっと普通の警護員になりかけてきたもんな。」
「・・・・・・そうでしょうか・・・・・」
「でも、三村さんはそれを言おうとして、やめた。そして絶対言うまいと決意したんだ。そういうことだ。」
「・・・・」
「どうしてか、わかるよな?河合」
「・・・・・ううううう」
「・・・パートタイム警護員と、フルタイム警護員の違い。それは勤務時間であり、仕事の難易度であり、そして・・・・」
「ああああ」
「?」
「も、もう大丈夫です、高原さん。もうそれ以上は・・・・」
「あはははは」
高原は椅子の背にもたれるようにして大笑いした。
茂は真剣にうろたえていた。
「すみません」
「謝ることないさ。そういえば、河合。」
「はい」
「お前さ、どうして警護員になろうと思ったんだ?」
「・・・そ、それは・・・・・・」
高原の笑いが、優しさを含んだものに変わった。
「・・・いいよ」
「・・・・・・」
「それは、聞かないよ、やっぱり。」
「はい」
窓の外の月が、薄い雲に隠れ、その光をほのかなものに変えていった。
第二十一話、いかがでしたでしょうか。
ふたつの会社のこの先は、しかしおそらく、ハッピーエンドではないのだと思います。
これからもよろしくお願いいたします。