四 甘えと責務
茂は葛城のいない大森パトロール社の事務所へ来ることに、一週間以上経っても慣れることはなかったが、仕事が当分入らないことがわかっていても、以前にも増して必ず一日一度は顔を出すようにしていた。
それは自分の意思でもあり、また、波多野部長や山添から頼まれていたからでもあった。
「こんばんは、高原さん」
自席で作業をしている高原のところまで行き、挨拶する。
いつもと変わらぬ優しい笑顔で、顔をあげた高原の、顔にはしかし蓄積された疲労の色が濃い。
「お前もほんとに優しいやつだよな、河合」
「はい。先輩思いの後輩ですから。どんなときも、頼りにしてください」
「はははは」
高原は打ち合わせコーナーへ茂と一緒に移動し、過去の警護案件のレビューや、警護技法についての講義を始めた。業務案件の間隔が開いているときの、先輩から後輩への指導としては特段珍しいものではないが、高原のそれはシリーズもののようによく考えて構成され、一緒に聞きたいという他の後輩警護員達も多い。
「あの、ご一緒してもいいですか?」
「もちろんです、槙野さん。・・・・あ、高原さん、大丈夫ですよね?」
「もちろんだよ。山添は肉体派だから、理論の先生には飢えているだろうからね」
パシッという音ととともに、高原の頭を書類を丸めた筒が叩く。
槙野と一緒に来ていた山添だった。
「肉体派で悪かったね。講義はいいけど、くれぐれも俺の大事な後輩を頭でっかちにするなよ、晶生。」
高原と山添は顔を見合わせて微笑した。
一時間ほどの講義が終わると、槙野は山添に連れられて食事へと出て行った。
テーブルで資料をひとまとめに片づけている高原へ向かって、茂が頭を下げる。
「ありがとうございました、高原さん。」
「こういうときは、何かしているに限るからね。お前の協力にも感謝してるよ」
「というより、単に俺が勉強できてメリットを受けてるだけのような感じもします」
「あははは。・・・・奴らから、一日一回来るメール、今日も届いてたけど」
「はい、転送していただいたものを今日も読みました」
「だんだん、なんだか、悪いのは全面的にこっちなんじゃないかっていう気になってくる」
「・・・・・・・」
「奇妙なもんだけどな」
茂は携帯端末の、もう十通ほどたまったメールを読み返してみる。
「文面だけ読むと、この世のものとも思えない、親切なメールですよね。おそらく世界最高レベルの医療ケアが行われている様子が、丁寧に書かれてます。」
「うっかりすると、感謝しそうになるもんな。まあ、我々が警察へ届けないのは、怜の安全を考えてのことだけど、届けないことが当たり前のような気にさえなりそうになる。」
「はい」
茂が、高原に負けないほど深刻な表情になり、高原はふっと表情を和らげて後輩を見た。
「でも、ここ数日、少し様子が違ってきたな」
「そうですか?」
「うん。少し文体が単調になってる。書いている人間が同じなんだとすると、なにかあったんじゃないかな。」
「なにか、って・・・・」
「表現しづらいんだけどさ、例えば、俺だったら・・・家族とかに不幸があって、でも仕事場では変わらずものを書かなきゃいけない、そんなときに文章に微妙に現れるような違いだね。」
「葛城さんの容体が実は悪いんでしょうか・・・・」
「それはないね。治療の流れを考えても、急変する時期はとっくに過ぎてる。むしろもっとなにか、彼らにとっての重大な事件とかがあったんじゃないかな」
「・・・・・・」
高原の洞察力はよく承知している茂だが、自分が前から気になっていたことが、さらに先輩の思考を助けるのではないかと感じた。
「探偵社の社長が、高原さんに、うちのエージェントが危ない目に遭うことは・・・って、おっしゃっていましたよね」
「ああ。」
「今思えば、ほとんど逆ギレでしたよね」
「そうだよ。月ヶ瀬のことで電話してきたときとは、まったく様子が違っていた。」
「俺、思い出したんです。俺がメイン警護員を務めた案件で、庄田というエージェントが自分の命を犠牲にしようとした。そのとき近くにいたのは、浅香というエージェントでした。」「そうだね」
「浅香は多分、庄田の部下ですよね。で、浅香はこれまで、この件を含めて三回俺たちに会っていますが、一回目は山添さんの命を助け、二回目はターゲットの殺害を妨害した三村を殺さずに返した。」
「・・・・」
「酒井じゃないことは明らかだとすると、今回、葛城さんを助けて危険な目に遭ったのは、浅香なんじゃないでしょうか」
「うん」
「目の前で警護員が死にそうになっているのを見て、助けてしまった、っていうことですよね。そしてそれも初めてのことじゃない。」
「阪元の部下達・・・・庄田にせよ浅香にせよ、俺たちのせいでめちゃくちゃなことになっている、それが今回、そろそろ堪忍袋の緒が切れたということなのかもな。・・・そうなのかも、しれないな・・・」
「・・・・はい」
高原は再び書類を片づけようとしていた手を止めた。
「怜を・・・うちの警護員を、再び浅香が助けたのだとしたら、阪元があれほど憤っていたのは、そのエージェントが危険な目に遭ったというだけじゃなく、なにかこれからも続くような、問題を抱えたということかも知れない。」
「すみません、高原さん」
「ん?」
「俺、さっき高原さんがご自分のことについておっしゃっていた、それ以上に・・・俺は、今、あいつらのことを・・・・なんか心配してるんです。」
「・・・・・・」
「あんなに反社会的なことをしている、そして大きくて恐ろしい存在のあいつらなのに。」
「・・・ああ」
「でも、俺たちが葛城さんのことを死ぬほど大事に思って心配している、それと同じくらい、あいつらが葛城さんを助けて、大事に治療していること、これってどういうことなんだろうって。」
「そうだな」
「そして、あいつらがどんどん危ない目に遭って、追い詰められているって・・・・どういうことなんだろうって、思うんです。なんというか、それは・・・・」
「痛々しいな。」
「はい。」
「適切な表現かどうか、そしてそもそもこういうことを言うのが適切なことかどうか、それは分からないけど。」
「はい。」
「でも、この言葉しか浮かばない。・・・痛々しいんだよな。」
「はい。」
「怜の、馬鹿野郎」
「・・・・・」
「皆を不幸にしてるぞ。あいつは・・・・。戻ってきたら、ただじゃおかない。」
「俺も、今度ばかりは、葛城さんをゆるさないつもりです。」
「そうだよな」
「会って、ありったけの苦情を言いたい。責めたいです。」
「そうだよな」
「早く・・・・会いたいです・・・・・」
「・・・ああ、そうだよな・・・。」
茂が目と鼻を赤くしているのを見て、高原は右手を後輩の頭に置き、その絹糸のような髪をくしゃくしゃにした。
午後の病室に、ブラインド越しに曇り空の柔らかい光が届いている。
看護師に付き添われて葛城が車椅子で病室へ戻ると、ベッドは新しいリネンに取り替えられていた。
「ありがとうございます」
葛城が礼を言い、看護師に手伝われてベッドへと戻る。
「いえいえ。回復が順調でなによりです。来週には、歩いて移動できるようになると思いますよ。」
「だとしたら、看護師さんにかけるお手数も少し減りますね。毎日、お風呂場まで連れて行っていただいて、すみません」
「この部屋はお手洗いはついていますけど、シャワー室がついてないですからね。こちらこそ、ご不便おかけしてます。・・・・あ、こちらのお薬を飲んでからお休みください」
「はい。」
「お顔の色もよくなってきましたね」
「毎日、体調が良くなっていくのを実感します。」
「自分でできることが増えてくると、治ってきている実感がありますよね。看護する側も嬉しいものです。先行きが見えないときは、とてもつらい。浅香さんはまだ自分で呼吸もできないから・・・・」
葛城は一瞬沈黙し、そして静かに看護師の顔を見返した。
「ほかの看護師さんにも伺いました。状態は変わらないのですか?」
「ええ。もう六日になりますけど、肺の状態が悪くて。あんな事故に遭うようなエージェントさんじゃないのに・・・」
「心配ですね・・・」
「はい」
数時間後、夕食を運んできた看護師に、葛城は声をかけた。
看護師が去った後、日がすっかり暮れた時刻に、来訪者はやってきた。
「失礼します。葛城さん」
「お呼び立てしてしまい、すみません・・・・庄田さん。」
葛城はベッドのマットレスを操作して、上体を起こした。
病室へ入ってきた庄田は、ドアを閉めると、左手に持っていた杖をその脇に置き、ベッドサイドまでゆっくり歩み寄ると椅子に腰を下ろした。
気品ある顔立ちに微かな苦笑をよぎらせ、庄田直紀は葛城怜の長い髪に覆われた美しい顔をほぼ正面から見た。
「看護師から、うまく話を聞きだされましたね、葛城さん」
「すみません」
「まあ、最初に口を滑らせたのは看護師のほうですから、仕方がありません。・・・浅香について、何をお知りになりたいですか?」
「私のせいですね」
「・・・・・」
「私を助けてしまったために、苦しまれたに違いないと思います。」
「あなたが亡くなっていたら、さらに浅香はもっと苦しんだことでしょう。」
「・・・・」
庄田は天井からの照明を受け、光を反射した瞳を、切れ長の瞼で静かに隠した。
「ミッション遂行中の、ありえないミスでした。本人の責任です。」
「・・・・・あれほどの、実力のエージェントが・・・・」
苦笑をさらにはっきりとしたものにしながら、庄田はもう一度葛城の顔を見た。
「技術を高めた者に、最後までつきまとう課題が、精神力であり感情です。彼はそれがまだ未熟だった。それだけのことです。」
「・・・回復の、見込は・・・」
「心身ともに、非常に困難といえます。」
「・・・・・それは、庄田さん、あなたも・・・」
庄田は右手を伸ばし、ボディガードの美しい額の髪にその白い指で触れた。
「あなたは、なにも気にされることはありません。早く回復して、退院なさってください。」
葛城の表情に、ほとんど懇願に近いものが満ちた。
立ち上がった庄田を、葛城が呼び止める。
「庄田さん」
「なんですか?」
「浅香さんに、お会いしたい。彼は、意識は・・・・」
「今は、体力の消耗を抑え治療効果を高めるために、薬で意識レベルを下げられています。肺の力が弱まっていて人工呼吸器もつけています。言葉を発することは不可能です。会話はできません」
「私の話す言葉を、聞くことはできるのでしょうか」
「・・・完全に眠ってしまっているわけではありませんから、声は、聞こえています。」
葛城の希望は翌日の午後には叶えられた。
同じ病院の違う階の、四人部屋のベッドの奥の一つだけが使われている部屋に、葛城は見知らぬ大柄の男性に車椅子を押され、庄田に付き添われて入った。
ベッドのマットレスはわずかに上体部分が起こされている。薄く大きな枕を頭の下に、そして細長いクッションのような枕を首と肩の下に敷かれて、長身の青年が穏やかな表情で目を閉じていた。
自分で微かな呼吸をしながら、しかしそれだけでは必要な空気を十分に取り入れられず、定期的な機械の助けを得て息をしている、という感じだった。
人工呼吸器が固定された顔には、微かな赤みがさしていたが、それは健康的なものではなかった。
「話しかけてもいいですか」
葛城が斜め後ろの庄田のほうを見て尋ねる。
庄田は頷いた。
「はい。聞こえていると思います。」
葛城は再び浅香仁志の顔へ視線を戻し、昏睡しているように見えるエージェントへ、ゆっくりと言葉を投げ始めた。
「浅香さん。葛城です。」
息を飲みこみ、もう一度深呼吸し、葛城は言葉を続ける。
「・・・・浅香さんが、勘違いされないように、念のためです。・・・浅香さん。私はあなたに、助けられたとは思っていないし、ましてや何か借りができたとも思っていません。警護員としても、個人としても、自分が人を守るために選ぶ行動とその結果とは、自分の責任であり、誰にも助けてほしいと頼んだ覚えもありません。」
庄田が微かに、苦笑した。
葛城は、細くよく通る声で浅香へ向かって話し続ける。
「むしろ、とても迷惑しています。殉職していれば会社は後任の警護員を雇うだけでよかったものを、あろうことか警護員が警護現場で殺人を犯したあなた達の病院に収容され、何日ものあいだ不安定な状況におかれた。ほかの警護員たちにも示しもつかない。これが我々の会社の運営をしづらくする工作なのだとしたら、かなり成功されたと思います。」
ブラインド越しに、窓の外の雲が一瞬切れ、太陽の光が閃いた。
「お願いしても無駄ではありましょうけれど・・・、こうした妨害工作は今後やめて頂きたい。」
庄田は、眠る浅香の顔を見て、そして、話し終えた葛城の顔を見た。
葛城の美しい横顔は、蒼白になり表情はこわばっていた。
病室を出て扉を締め、廊下に出たとき、庄田が前方の葛城へ低い声で言った。
「葛城さん。ありがとうございました。」
葛城は振り向かなかった。
退院の日は、葛城が浅香の病室を訪ねた日からさらに八日後の、小雨の降る日だった。
夜になり、看護師に手伝われて身支度を済ませたころ、葛城の病室へ庄田が訪れた。
「こんばんは。葛城さん。」
庄田は左手の杖をついたまま、病室へ入り、ベッドの脇に立った。
ベッドに腰掛けている葛城の顔をその切れ長の涼しげな両目で見下ろし、軽く微笑む。
「すっかりよくなられたようで、何よりです。」
「・・・・浅香さんは、その後・・・・・」
「全身状態は少しずつですが回復しています。人工呼吸器から近々離脱できる可能性も出てきました。」
「そうですか。」
「また彼が仕事の現場で貴方たちにお会いするようなことも、あるかもしれません。貴方がた大森パトロールさんにとっては、残念なことでしょうけれどね。」
「はい。」
「その服、お似合いですよ」
「・・・・着るものまで面倒みていただき、ありがとうございます」
「深山の見立てです」
「・・・・・」
「高原さんによろしくと言っていました。」
「・・・・・」
「リンゴの木、だと。」
庄田は、哀しそうに笑った。
葛城はしばらくためらった後、意を決したように顔を上げて、目の前のエージェントの気品ある両目を見た。
「庄田さん・・・・。うちの、河合警護員が、・・・・あなたのことをとても気にしていました。」
「え?」
「あの日、観光船のデッキであなたに”襲撃”された、そのすぐ後にです。そしておそらく、その後もずっと。」
「・・・・そうですか」
「今回、お世話になったからというわけではありませんが、正直に申し上げます。彼は・・・・・、あなたのことが、忘れられない。一瞬で、一目ぼれみたいに・・・人間としてなにか尊敬してしまったんだと思います。不覚にも。」
「・・・・・・」
「絶対にあってはならないことです。人殺しですから、あなたは。」
「そうですね」
大柄な男性二人が病室へ静かに入ってきた。
庄田に一礼し、葛城の脇へと立ち、ひとりが葛城に目隠しをし、もうひとりが靴を履かせ荷物を持った。
葛城が目隠しをされたまま言葉を続ける。
「うちに、月ヶ瀬という警護員がいます。」
「はい」
「今お話ししたような、困ったことを目の当たりにしたとき・・・・彼の言葉を、今は私も支えにしています。」
庄田は静かに尋ねた。
「・・・それは?」
ふたりの男性に導かれ、葛城は立ち上がり病室出口へと向かう。
ドア口で葛城が立ち止まり、目隠しをされたままの顔で、最後に庄田のほうを振り返った。
「”愛しているかどうかと、味方であるかどうかは、何の関係もないこと。”」
葛城が部屋を出ていき、ドアがゆっくりと閉まった。