三 敗者
カンファレンス・ルームの閉まった扉のほうを見ながら、深夜というより夜明け近くというべき時刻の静かな事務室で、ふたりのエージェントが黙って応接コーナーに座っていた。
一人は小柄な黒髪のショートカットの女性、もう一人は痩せて背の高い長髪の男性である。
「逸希くんに、まだ言ってないんだけど」
女性のほうが赤い口紅をひいた唇をやや苦しそうにゆがめて、つぶやいた。
男性は眼鏡の奥のよく光る両目でもう一度ちらりと会議室のドアを見たあと、明るい長髪を乱暴にかきあげ、足を組み直した。
「言わなくていいよ。ミッションは全部遂行された。それだけなんだから。」
「言わなくてもすぐわかるってこと?」
「そう。」
佐野のやや冷たい目を恨めしそうに見返し、松原は半分しか吸っていないたばこを灰皿へ押しつけ、新しいものを取り出し火をつけた。
「事務所内は禁煙だぞ」
「今は時間外よ。・・・あのね、浅香は、なにか処分とかされてしまうのかしら・・・」
会議室とは反対側の壁へ視線を移し、佐野はため息をついた。
「俺にわかるわけないだろ。庄田さんがお決めになることだ。」
チームのふたりのエージェントが不安げに見詰めていたドアの向こう、カンファレンス・ルームではチーム・リーダーとその筆頭エージェントが向かい合っていた。
庄田直紀は椅子の背に左手をかけて立ち、ドアの前に直立している部下を見つめ、上品な唇からようやく言葉を出した。
「報告内容はわかりました。ミッションはこれで全て完了しました。」
「はい」
「松原さんと逸希さんが、残る二名を続けて殺害成功しました。ひとりは学校のプール、もう一人は公園の噴水で。行方不明者の行方は、潜入した別のチームのエージェントが確認しました・・・残念ながら既に亡くなっていましたが、まもなく発見されるでしょう。そしてあなたと佐野さんも、二名のターゲットの殺害を完了した。四人全員完了です。」
「はい」
「ここまでなら問題なかったわけです。」
「・・・・・」
庄田は椅子にかけた左手を持ち替え、自分より十センチ以上背の高い相手の顔を、厳しい表情で見た。動いた椅子に立てかけてあった杖が離れ、床へ倒れ転がった。
「浅香さん。あなたは、無用な行動によって、自己の生命を危険にさらした。」
「・・・・・」
「怪我がなかったのは、結果論に過ぎません。幸運だったに過ぎないのですよ。」
「・・・・はい」
「あなたがあのまま海中で死傷していたら、我々のミッションに、どれだけの迷惑がかかったかわかっていますか」
「・・・はい。・・・・・申し訳ありません。」
浅香は顔色を蒼白にしたまま、頭を垂れる。
庄田は一瞬うつむき、すぐに部下のほうへ視線を戻す。
「こちらへ来なさい」
「はい」
テーブルを時計回りに回りこみ、浅香は庄田の近くへと歩み寄った。
「葛城の行動は警護員として非常識なものでしたが、あなたの行動もエージェントとしてあってはならないものです。」
庄田の、椅子の背を持ち体を支えていないほうの手が、ゆっくりと上がった。
浅香は目を閉じた。
チーム・リーダーの右手が部下の左頬へ強烈な平手打ちを見舞い、鋭い音は部屋の外まで響いた。
思わず少し右へよろめいて浅香が椅子をつかんで踏みとどまり、テーブルと椅子とがぶつかる音も静かな事務室内へと響いていった。
「二度と繰り返さないでください。」
息が混じった声で、庄田は部下へ最後に言った。
会議室から出てきた同僚を、松原と佐野は応接コーナーから駆け寄るように迎えた。
浅香は二人の顔を見て力なく頬笑み、近くの自席まで歩いて、ドアの閉まった会議室の方を振り返った。
「叱られるのは当然のことだ。本当に・・・、心配かけてごめん、佐野・・・・・すみませんでした、松原さん。」
「送るよ。」
三人は地下駐車場から、佐野の運転する車で明け方の街へと走り出した。
助手席の松原が、後部座席の浅香のほうを振り返る。
「ルール違反の行動でさえなければ、社長表彰ものの手際の良さだったのにね。」
「松原さん・・・優しいですね・・・」
浅香が苦笑した。
「いえ、実際そうよ。浅香、あなたはあの短い時間しかない場面で、夜の海へ沈んでいく車の中で、三つのことをやってのけたんだもの。」
「・・・・・・」
「まず、警護員を襲撃しその妨害を封じて、そして気絶してないほうのターゲットをナイフで絶命させて、そして最後に脱出し海面までたどり着いた。」
「・・・・佐野がオートバイのヘッドライトで海中を照らしてくれたおかげです・・・・。そのため、完全な闇にはならず、視界があった。」
佐野が笑う。
「まあ、光は諸刃だけどね。」
「感謝してるよ。それから・・・松原さん」
「なに?」
「ひとつ、内容に誤りがあります。俺が最初にやったのは警護員の妨害を封じることではなく、妨害される前にターゲットを殺害しようとしたんです。ですから、葛城警護員をナイフで刺したのは意図したことではなく、結果的にでした。」
佐野はさらに声に出して笑った。
「ボディガードというのは、そういう人種なんだね。追い詰められると最後は無意識に、自分の体を盾にする。」
「そうだよ。そして結果的に葛城が刺されて抵抗を終えた、そしてたまたま止めを刺すべきターゲットは失神してなかった一人だけで、それが俺に近い方にいた。それだけのことだ。」
「まあそうだけど、そんなに自虐的になるなよ、浅香」
「・・・・・・」
カンファレンス・ルームでひとりでしばらく椅子に座っていた庄田が、ようやく再び立ち上がろうとしたとき、腰のホルダーの携帯電話が着信を知らせた。
「待ちきれなくて電話したよ、庄田。」
「社長」
「しかも先に聞いたよ。うちのボケの弟は、浅香とホットラインがあるからね。」
「はい」
「祐耶が浅香に電話したら、なんか死にそうな声だったって」
「・・・・・」
「ずいぶん、きつく叱ったんだね、庄田。」
「はい。致し方ありません。」
「そうだね。」
電話の向こうの上司の声に、温かさと戸惑いとが同居していることに庄田は気がついた。
「すみません、社長にもご心配をおかけしてしまい・・・・」
「いやいや、チームとしてのミッションは完全に遂行できたんだから、何も問題はないよ。基本的にはね。」
「・・・・」
「電話した一番の理由は、明日大森パトロール社に誰が電話するかの相談だよ。」
「・・・・それは、確か佐野の・・・・」
「それでもいいんだけど、やっぱり知り合いのほうがいいんじゃないかと思ってね。」
「?」
「かける相手は、あの高原晶生でしょ?」
「はい。」
「前の月ケ瀬のこともあるし、酒井のこともあるし、私がやってもいい?」
「えっ」
「言いにくいことを言うのは、慣れているからね、私は。」
「はい」
「・・・・どうしたの?」
「・・・いえ・・・社長に、ここまでお気を遣わせていることが、少し情けないと感じています。」
「・・・そういうことを、言わないで。」
「・・・・」
「今回のことで、一番動揺しているのは誰だろうね。」
「・・・・・」
「自分でも信じられない行動に出てしまった浅香かな。違うね。」
「・・・・・」
「そもそも浅香はどうしてあんなことをしたのか。警護員を助けたかったのか。ターゲットを助けられてしまうのを妨害したかったのか。」
「それは、本人も、分からないと言っています。」
「そうだろうね。そして今、何にせよ反省しているだろう。・・・で、庄田、お前のことなんだけど」
「・・・・・」
「頭の中、整理できてる?」
「・・・・いいえ」
しばらく黙った後、阪元航平は慈愛のこもった声で言った。
「庄田。お前が部下を引っ叩いたのは、愛情が大部分、そして残りは、不安なんだね。」
「・・・・・」
「自分もよくわからない混沌に、部下が陥っていく。そして、嫌な予感がしているんじゃない?」
「・・・しています。なにか、この後・・・」
「お前がそう感じるなら、それは必ず、現実になるよ。」
「・・・・・」
「防ぐ最善を尽くすしかない。」
「はい。」
朝の光が明るく部屋を照らし、人工の照明が不要になったことを示していた。
朝日がベランダ側のガラス戸から差し込み、三村英一がソファーから体を起こすと、足元の毛布が動きやがて大きな音がした。
「痛てててて」
ソファーの反対側に頭を向け足をこちら側にして寝ていた茂が、目を覚ましたとたんに床に転落した模様だった。
「大丈夫か」
反対側のソファーで寝ていた高原が上体を起こし、足だけをソファーの上に残し上半身が床に落ちている後輩警護員を心配そうに見た。
「はい・・・・おはようございます・・・・」
「おはよう。三村さんも、おはようございます」
「おはようございます、高原さん」
高原が立ちあがり、カーテンを開けてテレビをつけた。
茂は頭をさすりながら、ふらふらと台所へと向かう。
一同が朝食のテーブルを囲もうとしたとき、朝のニュースの画面に三人はくぎ付けになった。
「これは、例の殺人鬼のことですよね・・・・」
「・・・・そうみたいだな・・・・」
「これまでに殺害された幼児たちと、同じ場所で・・・・・そして最後が、昨夜の葛城さんの向かった現場ですね・・・・」
”殺人鬼M”を構成していたと思われる四名の若い男性が遺体で見つかったという報道だった。
「犯人を制裁しようとした者の犯行の可能性も、って・・・・」
「当然、そう受け取られることですね・・・・」
三人は押し黙った。
高原は念のために手元の携帯電話をチェックする。
「着信はないな。まだ新たな情報はなし、か・・・。」
「食べましょう、高原さん。おいしい目玉焼きつくりましたから」
「うん、ありがとう。三村さんも、一緒に泊り込んでくださって、ありがとうございます。うち、ちゃんとしたベッドさえなくて、すみません」
「いえいえ、遠くで心配しているよりずっと気が楽です」
そして高原の携帯電話が鳴ったのは、茂が二杯めのコーヒーを淹れに台所へ立ったときだった。
朝日が長い影をつくる歩道から敷地内へと入り、従業員用の目立たない鉄の扉を暗唱番号を押して明け、浅香は建物へとそっと足を踏み入れた。
たちこめる消毒薬の匂いの中を、殺風景な廊下を突っ切り、向こうからストレッチャーを押して歩いてきた看護師らをやり過ごしてからエレベーターに乗る。
目的の階で降りると、社員証を示しナースステーションのガラス窓口越しに軽く会釈する。中の看護師が、どうぞというしぐさをした。浅香はそのまま廊下の突き当たりの小さな病室へと入っていった。
病室には別の看護師がいた。
「おはようございます。今朝方、一度意識が戻ったと伺ったので・・・先生の許可を頂いて、来ました。」
「お疲れ様です。今はまた眠っておられますが、そばにいらしていて構いませんよ。まもなく目を覚まされるでしょう。」
「手術の結果も良好ということで、ありがとうございます。」
「現場での応急処置がとても適切だったと先生が感心しておられました。さすが、医師免許をお持ちの浅香さんだけのことはありますねって。」
「・・・日本の、じゃありませんけどね・・・。」
「鎮痛剤は少なめにしてくださっています。お話はしやすいですが、痛みは相当のはずなので、会話は短時間でお願いしますとのことです。」
「わかりました。」
浅香は一礼して看護師を見送り、ベッドわきの椅子に腰を下ろした。
ベッドの上では、点滴の針が刺された左腕を掛け布団の上に出し、しかし既に酸素マスクは外されて、葛城が静かな寝息をたてていた。
「もしもし。・・・・また番号非通知ですみません。阪元です。」
高原の応答した携帯電話の先で、阪元航平は明朗に名乗った。
「・・・・」
「高原さんだよね?」
「・・・そうですが。・・・阪元探偵社の社長さんが、何の御用ですか?」
茂と英一がぎょっとして高原を見つめる。
「葛城さんを、お預かりしているんです。そのご連絡と、今後の予定についてのお願いです。」
「・・・怜は生きて・・・・いるのか・・・?」
「ええ。うちのエージェントを邪魔してケガされましたが、うちのエージェントがお助けしました。親切をモットーにしている探偵社らしいでしょ?」
「・・・・怪我の、状態は・・・・?」
「水中での負傷ということもありちょっと出血も多くて、意識はさきほど戻ったばかりですが、経過は良好ですよ。上腹部の刺し傷が一か所。それほど深くありませんし、幸い内臓もほぼ大丈夫です。しかし大丈夫じゃないのはうちのほうなんですよね。」
「・・・・・」
「一刻を争うため、直接うちの関係の病院へお連れしましたが、三週間程度の入院になりそうです。まずはその間、お世話が大変なこと。」
「・・・・・」
「もっと早くお返ししたいのはやまやまなんですが、いくらお人よしの我々とはいえ、入院が必要な状態での手間のかかる引き渡し方法を強いられて、余計なリスクを取る気はさらさらありません。」
「・・・・」
「致し方ありませんので、自宅療養できる程度の状態になるまで、お預かりします。費用は請求させて頂くかもしれませんけど。」
「怜と、話がしたい」
「まあ、もう少ししましたら、させてあげますよ。・・・で、うちが大丈夫じゃない件のふたつめですけど、高原さん。」
「・・・・」
「あなた方のクライアントでもない人間に余計な手出しをした葛城さんを、お助けするために、うちのエージェントは死にかけました。」
「・・・・・」
「酒井のように実際に負傷したわけではありません。しかし、紙一重でした。」
「・・・そうですか」
「さらに、体というより、精神的なダメージがものすごいんですよ。わかりますか?」
「・・・・・」
「仕事の無用な妨害をしてくださった警護員さんが目の前で死にかけられて、つい命をお助けしてしまったエージェントの哀れさを汲み取って頂き、ひとつ私からのお願いを聞いてください。」
「・・・・・」
「二度と、うちのエージェントを危険な目に遭わせないでください。もしも次にこういうことがあったら」
「・・・・・・」
ソファーに浅く腰かけたまま受話器に耳を凝らす高原の、顔から血の気が引いていくのを、茂と英一は固唾をのんで見守る。
高原の耳に、阪元の乾いた言葉が響いた。
「うちのエージェントがなにをしようとどう思おうと、私が自ら、その警護員を殺す。」
「・・・・・・」
「わかりましたね」
電話が切れた。
浅香が病室の明かりを落とし、ブラインドを少し明けて日の光を入れる。
そして再び浅香がベッド脇の椅子に腰をおろし、手元の本に目を落として小一時間ほど読み、ふとベッドへ視線を戻したとき、葛城が目を開けてこちらを見ていることに気がついた。
本を閉じて浅香は微笑した。
「おはようございます、葛城さん」
「・・・・浅香・・・」
「意識状態が良好でなによりですよ。」
「・・・・・・」
「そしてあなたの一般常識も、同じくらい良好であったら、どんなによいかと思います。」
浅香の表情は、穏やかな口調とは異なり、微かな憤りが見え隠れしていた。
「人殺しを仕事にしている貴方がたに、言われたくはありません。」
「”人”ではありません。社会のゴミですよ。」
「・・・・・」
「あなたも、ああいった、社会へパラサイトしつつ反社会的行動をして恥じないゴミたちの行為を見て、胸がすくタイプのかたなんですか?葛城さん」
「そんなはずはないでしょう」
「・・・・ではなぜ」
「浅香さん、私の感覚は、あなたのそれと、ほぼ同じです。」
葛城はおそらくはじめて、浅香を「さん」付けで呼んだ。
「そうですか?」
「近寄るのさえ汚らわしいですよ。そしてできるなら、この手で殺して八つ裂きにしたいくらいですよ。誰だってそう思いますし、私も変わるところはありません。」
「ええ」
「でも」
朝日に照らされた葛城の美しい切れ長の両目が、浅香の穏やかで気品ある表情を捉えた。
「・・・でも、なんです・・・?」
「彼らが、社会のおかげで生きているくせに、その恩を仇で返す行為を社会に対してやったなら、なおのこと。なおのこと・・・・社会のルールに則った、罰を受けてほしいんです。」
痛みと熱で、葛城の顔つきは少しぼんやりとし始めていたが、口調はきっぱりとしたものだった。
「・・・そうですか。」
浅香は静かにそれだけ答え、そして立ち上がった。
「・・・・・」
「少し長話になり過ぎたようです。手術後まだ間もないですし、お痛みのことと思います。看護師さんにもう少し鎮痛剤を入れるようお願いしておきましょう。では、失礼します。」
事件後の一週間は、大森パトロール社の人間たちにとって一日千秋のようなものだったが、阪元探偵社の関係者たちにとっての長さに比べればまだ程度は軽いといえた。
街の中心にある古い高層ビルの事務所を日に何度も出入りし、所属エージェントの単独ミッションを続けて三つ遂行しながら、庄田直紀のチームはひとつひとつの日が、永遠に続くものであるかのような重い足取りで時を過ごしていた。
定例のミーティングを終えると、昼近くになっていた。
「庄田さん。たまには皆でランチでも行きませんか?お天気も良いですし。」
「浅香さんがいないのはちょっと可哀想ですが、でも全員そろう日は当分ありませんから・・・では二度に分けて、今日はその一回目にしますか」
「ええ。ぜひ。近くに少し面白いお店ができたんですよ。」
松原は逸希のほうを見て微笑し、そしてチーム・リーダーへ優しいまなざしを向けた。
佐野がメガネの縁を持ち上げ、足を組み直す。
「今頃ミッション完了しているころかな。篠崎さんのチーム、難しくないミッションだから、管理は事後報告形式にしてますね。でも報告はいずれにせよすぐに庄田さんに入るのでしょう?」
「はい。」
松原が笑う。
「庄田さんだったらどんなときも、このカンファレンスルームで三台以上の通信機器を置いて、現場をリアルタイムで管理されるでしょうね。」
「内容的には、私のようなやりかたは無用な、簡易なミッションです。技術面での勉強にはあまりなりませんが、浅香さんも他のチームの仕事に積極的に参加することで視野が広がると思います。」
そのとき、ドアをノックして事務職員が顔を出した。
「お話し中すみません。・・・社長が、庄田さんをお呼びです。」
佐野が苦笑した。
「げっ。庄田さん、社長にランチに連れて行かれてしまうんじゃないですか?」
庄田が部屋を出ながら佐野を見て笑った。
「十二時になっても出て来なかったら、助けに来てください。」
そしてあらためて、三人のチーム・メンバーの顔を見る。
色のぬけるように白い、そして気品のある顔立ちに、優しい微笑が満ちた。
「佐野さん、松原さん、逸希さん。色々気遣ってくださって、ありがとうございます。」
朝比奈逸希が微かに赤面し、そして松原が微笑し、佐野は咳払いをしてうつむいた。
簡素な個人の書斎のような部屋へ入ると、阪元航平が控えめな微笑で部下を迎えた。
「元気?庄田」
「・・・・はい。」
「ミーティングが終わったら、たまには部下と一緒にランチでも行ってきなさい。天気もいいしね。」
庄田は微笑んだ。
「はい。」
「部下達はみんな大人だ。それぞれ、そのうち自分のやり方で乗り越えてくれると思ってるよ。」
「はい。」
「みんなに、これをあげてくれる?」
阪元が円卓に置いてある小さな紙袋五つを示した。
「お得意様が南米旅行をされて、現地でしか手に入らないスペシャルなコーヒー豆をくださった。ホントはここで淹れて飲ませてあげたいんだけどね。」
「ありがとうございます。」
そのとき社長室の固定電話が鳴った。
「・・・ごめん、それじゃ、行ってらっしゃい」
「はい」
右手を振って電話に向かった阪元に一礼し、円卓の紙袋を手にとろうとした庄田は、すぐに自分の携帯電話も鳴ったことに気がついた。
社長室を一旦後にした庄田は、しかし事務室内で電話の相手の話を聞き終わるとすぐに再び社長室へ、ノックもせずに入っていた。
部屋に入ると、電話を終えた阪元が円卓のこちら側まで歩いてきたところだった。
「篠崎からだ」
「はい、私のところにも彼のチーム・メンバーから電話がありました」
「じゃあ、聞いたね。」
「はい。」
阪元は庄田に歩み寄り、その両肩を強めに両手でつかんだ。
「大丈夫だね?」
「大丈夫です」
「・・・私は、ここにいて、引き続き指示出しをするから。・・・本当は駆け付けたいところだけれどね・・・・。庄田、君はすぐに病院へ行って。」
「はい。」
一礼し、踵を返して庄田は社長室を出て行った。
カンファレンス・ルームへ戻ってきた上司の顔を見て、三人ともすぐに非常事態を悟った。
「今、篠崎さんのチームから、社長と私に連絡がありました。」
「はい」
「浅香さんがミッション中の事故で負傷しました。協力病院へ搬送され、手当てを受けているとのことです。」
佐野が立ち上がった。
「浅香の、容体は?」
庄田は佐野の顔を見て、息を整えて、言った。
「有毒ガス中毒です。重体だそうです。」