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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君しかいない

作者:

 教室の真ん中に、うつくしく輝く姿がある。すらっと伸びる背筋、文庫本をはらりとめくる白く細長い指、ほどよい肉づき、耳にいつまでも残る柔らかい声と言葉。クラスの、学年の、学校の誰もが彼女を慕い、男子は彼女に好意を持ち、互いにそのことを知っている。だけど、誰もが、そして僕もが、こう思っている。自分には釣り合わない、だけど自分こそが一番彼女を理解していて、好きで、幸せにする自信がある。そのことを知っている上で、だからこそ、僕は、彼女を、殺す、殺してやる、その綺麗な長い髪を引きちぎりズタズタにして、白く艶やかな肌を拳でこれでもかというほど痛めつけて、可憐な口から誰もが耳を塞ぎたくなるような醜い悲鳴を上げさせてやる! という暴漢から、彼女を守る段取りを頭の中で繰り返す。僕には、生まれ持った強靭な肉体も無ければ、これまで積み上げるべきであった知識にもほとほと乏しい。科学を知り尽くす頭脳も無ければ、彼女の心を暖められる言葉も知らず、黄色い声の上がる凛々しい顔でもない。彼女と付き合える可能性を上から並べれば、学校で一番下かその範疇だと思う。それでも、僕は彼女が好きだ。だからこそ、僕は、彼女が一番危険なときに、僕だけにできるやり方で、彼女を助ける準備をする。

 まだ人のまばらな教室で、彼女はすっと立ち上がった。長い黒髪がふわりと揺れた。彼女はつかつかと、一番窓際の、一番後ろの席に座る僕を見つめて歩いてくる。僕は彼女を、まるで夢を見ているかのように、幻を見るように、瞳に映し出す。彼女は僕の隣に立ち、僕の隣に立つ男に話しかけた。僕は再び、顔を下げ、机をじっと見つめた。頭脳を持たない、輝きを持たない、言葉を持たない僕に見える世界。それは机の木目を見て、右端から左端までを一筆でなぞり、隙間を抜けて行く。それだけの単純作業。罵倒に耳を塞ぎ、心を閉ざして、やっと僕は僕を保ち、息が出来る。殻の隙間から、ちょっとずつ入り込む酸素を吸いながら、かろうじて僕は、雛のまま生きる。それが僕の生き方。生き方だった。だから僕は、やがて悟った。君は僕を笑うだろう。それが普通なのだ。口の端を曲げて、嘲笑の言葉を僕にぶつけ、この口の達者で、凛々しく、君に暖かい言葉を投げかけられるであろう男と共に、君はきっと、「気分が悪い」と言うだろう。だから僕は、耳を閉ざす。心を閉ざす。もうこれ以上傷つきたくない。傷つきたくないんだ。皆死ね。死んでしまえ。殺す。殺してやる。殺せない。死なない。じゃあ僕が死ぬ。それでいいだろう。それなら許してくれるんだろう。きっと僕がいなければ、世界はきっと、もっと綺麗に回ったことだろう。

 きっと僕がいなければ。

「違うよ。貴方が、この人に言った汚い言葉に、気分が悪いと言ったのよ」

 僕の殻を、どかん、と何かが貫いた。僕は横目で、男を見た。男は、僕の見たことの無いような顔を見せて、僕に見せたことの無いような隙を見せて、たじろいた。男は取り繕うようにつらつらと言葉を並べ、彼女はそれをほんのちょっとの言葉で一蹴した。男は僕をにらみつけ、彼女に短い罵声を浴びせ、僕のもとを去った。彼女は、僕を見て微笑んだ。その後、ちくりと僕を刺す言葉を口にしたけれど、それは痛かったけど、その痛みが、僕の殻に光を差し込んでくれたのだ。

 ばん! と教室の戸が開いた。僕はハッとして、彼女の方を見た。彼女はいつものように、教室の真ん中で、うつくしく本を読んでいた。僕はいつものように、君を助ける準備をする。頭の中で、段取りを立てる。

「いいか、今から大声を出した奴は殺す!」

 僕の頭の中で、歯車が軋む音がした。違う。こんな台詞じゃない。僕は慌てて教室の入り口を見た。そこには、僕の見たことのあるライフルとは似ても似つかない、見たことも無いような、じゃらじゃらとしたベルトのような薬莢の束をぶら下げた、人を殺すためだけに作られたようなマシンガンを持った屈強な男が、黒い布を被って、微動だにせず、その銃口をこちらに向けていた。教室の和やかなざわめきが一瞬止んだ。そして堰を切ったように、焦りと、困惑と、恐怖をかき混ぜたようなざわめきが教室にどっと湧き上がった。パパパパパン、と、軽い音が響いた。教室が静まり返った。どさ、どさ、どさ、と、何かの塊が落ち、衣服の擦れる音が響いた。と同時に、どちゃ、どちゃ、どちゃ、という、何かの塊が落ち、液体の跳ねる音が響いた。

「だから声を出したら殺すっつってんだよ!」

 静寂は遅れてやって来た。そのときやっと、誰もが、そして僕もが、状況を理解した。相手が誰かは分からない。凶悪な強盗犯かもしれないし、単なる愉快犯かもしれないし、政治的主張を持ったテロリストかもしれないけれど、僕らが確かに見たものは、明確な殺意をその目に宿し、あっけなく僕らの命を奪うような兵器を抱えて僕らを監視している男だった。何人かの女子生徒が、声にならない悲鳴をあげて、呼吸を乱し、その場にへたり込んだ。男は彼女達に、マシンガンの先を向け、小動物を哀れむような目つきをして、銃口を下げた。僕は咄嗟に教室の真ん中を見た。そこにうつくしく輝く姿は、無かった。僕は急いで教室を目で探した。床に倒れ、赤く染まる腹を手で押さえ、悶える生徒たちの中に、彼女の姿は無かった。机の下に、うずくまる姿を見つけた。彼女は、机の下で、頭を抱え、呼吸を荒げ、肩を上下に動かしていた。パパパパパン、と、軽い音が響いた。僕はぎょっとして視線を男に戻した。視界の端で、女子生徒達がばたばたと床に倒れた。何人かの男子生徒が怒号を上げた。何人かの女子生徒が逃げ出そうとし、何人かの男子生徒が逃げ出そうとし、何人かの男子生徒が刃向かおうとし、何人かの男子生徒と、何人かの女子生徒はただおびえていただけなのに、パパパパン、と、軽い音が響き、全ての男子生徒と、全ての女子生徒が、どちゃどちゃと力なく床に倒れていった。

 床を赤く染め上げた教室には、入り口に佇む男と、窓際の一番後ろの席で銃弾の雨から逃れた僕と、教室の真ん中で机の下に隠れる彼女だけが残った。

 足がすくむ。怖い。どうした、僕。さっきまでの威勢はどこに行った。男はふーっと溜息をつき、たった今殺戮を生み出したマシンガンを、子犬を愛でるように舐めるように眺め回して、弾丸と火薬の無くなった薬莢のベルトをばらばらと床に落とし、じゃらじゃらと鳴る新しい薬莢のベルトを取り出して、マシンガンに取り付けた。走るなら今だ。心の中の僕も、僕の身体もそう言っている。だけど、怖い。せっかくのチャンスが、彼女を守るチャンスが時々刻々と遠のいていく。走れ! と、身体が言った。僕はわけも分からず、それに答えて、叫び、足で床を下手くそに蹴った。ぬちゃっという音が鳴り、僕は宙に浮いた。少し遅れて、僕の頭に言葉が走った。彼女を守るなんて、何を偉そうにしているのか。命を投げ出すチャンスじゃないか、つべこべ言わず走れ。僕の足が、机を捉えた。血に足を取られながら、身体の重心を崩しながら、僕は無様に、見苦しく、醜く、身悶えするような悲鳴を上げて、机の上を駆け抜けた。男は化け物のように、妖怪のように常軌を逸して迫り来る僕に気付き、慌ててマシンガンを構えた。僕は机を蹴り、男に飛び掛った。マシンガンがレシーバーから煙を噴き出した。弾丸が数発、立て続けに僕の腹を貫通する。死んだ、と思った。でもそれはきっと数十秒後の話で、人間の肉体を辛うじて保つ僕は、床に足を付き、そのまま男へと突き進み、銃弾をいくつか受けながら、きっともう、肺や、心臓や、脳天を銃弾が貫いてから、僕はがむしゃらに、マシンガンの先を手で掴み、力の限りそれを男の胸に叩き付けた。マシンガンは煙を噴き出しながら銃弾を撒き散らし、それらは僕の腹から胸に渡り、首を、顔を、頭を撃ちぬいて、教室の窓ガラスを粉砕し、天井を壊し、蛍光灯を割り、教室を二つに分ける線を引いた後、男の顎に辿り付き、男の顔の前半分を、大量の銃弾で吹き飛ばした。

 ちょうどそこで、僕の意識は途切れた。

 どちゃ、どちゃ、という音が教室に響いた。

 ばん! と教室の戸が開いた。僕はハッとして、彼女の方を見た。彼女はいつものように、教室の真ん中で、うつくしく本を読んでいた。僕は溜息をついて、鞄から教科書とノートを取り出した。

 いつも、僕は死ぬ。教室には、君しかいない。

 駄目だ、これじゃ君と一緒に生きていけない。君を守れない。

「起立」

 僕はゆっくりと立ち上がり、いつもよりちょっとだけ、深く頭を下げた。

 椅子に腰を下ろした瞬間、視界が真っ白になった。爆発音が響き渡り、教室の壁が吹き飛んだ。

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