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☆この頁には残虐な描写があります。苦手な方はご注意下さい。
玄関に入って来たのは興梠響。美学専攻の帝大生だった。
「おう! 待ってたぞ! 上がれ上がれ!」
上機嫌で直哉は腕を引っ張った。
「直哉さん、その節はどうも――」
「いいから! 堅苦しい挨拶は抜きだ。それにしても――」
目を細めて感慨深げに直哉は言う。
「こうやって、またおまえが俺の家に遊びに来る日が来ようとはなあ!」
「うん。本当に心配をかけて……申し訳なかった」
「だから、挨拶はいいって言ったろう? それより、やっぱり、あれだな? おまえが助かったのは、あの生死の境に病室で俺がつきっきりで手を握ってたからだろうな! アハハハハ!」
豪快に直哉は笑った。
「兄さんたら、またそんな馬鹿なこと言って」
「何だよ、おまえこそ、もっと愛想よくしてやれよ、杏子? この命拾いした男に!」
「――」
照れたように笑っている男は相変わらずのお洒落な装い。
英国風のトラウザー、プレスの効いた白いカッターシャツ。前見頃がピンストライプのチャコールのジレに蘇芳色のアスコットタイときた。
玄関の引き戸の向こうへ目を逸らして杏子は言った。
「新しい車、買ったんですね?」
「ええ。今度はフィアット508です。凄く低燃費なんですよ」
「ったく、これだから金持ちの息子は嫌だ! 軽々しく『低燃費です』か! あんな目にあって、まだ懲りないのか? 事故の件では警察にもこってり絞られたんだろう?」
「まあ……」
「まあ、じゃないよ。病院じゃおまえを調べに来た刑事から俺まで嫌味を言われたぞ。インテリはすぐ影響を受けるし死にたがる。流行作家の真似はよせって」
昭和初年、芥川龍之介が自殺したが死因は睡眠薬の大量服薬だとされた。最終的に興梠の事故も同様に判断されたようだ。
そして――
九月。
秋晴れの今日。
退院後初めて長谷部家へやって来た興梠だった。
あの大事故で奇跡的に一命を取り留めたこの男が、唯一、角田蒼真と五百木帆の真実の姿を知る人間である。そうして、長谷部杏子の現在の実態を。
そう言う訳で、内心、杏子は興梠が疎ましかった。
とはいえ、何も知らない兄の手前さりげなくやり過ごす他ない。
病院に付き添って以来、兄は益々杏子を興梠と結びつけたがっている。
「よし! 俺は一丁、今夜の鶏鍋用の鶏を絞めてくるから――杏子、その間、おまえが相手してやれ」
気をきかせたつもりか、早々に下駄をつっかけて庭へ下りる直哉だった。
「……絵、描いてもらってるの、杏子さん?」
「ええ。見せてあげましょうか?」
杏子は青年を自室へ連れて行った。
「ベアトリーチェと? エゴン・シーレの模写か!」
興梠は笑った。ちっともおかしそうではない顔。
「〈白い少女〉に〈死と乙女〉……相変わらず……象徴的で隠喩的だな!」
杏子は微かに眉を上げただけ。
ホントはもう一枚ある。
興梠さんには見せてあげないけど。
こっそり杏子は思った。私はアレが一番好き。
榎の大樹の下で座っている私。
約束通り、蒼真さんが描いてくれたのよ。零れる月光以外、何も身につけていない。
本当の私がそこにいる。
書棚の後ろに(少年の真似をして)隠して、時々取り出してウットリと見つめている。
「しかし、あれには驚いたな!〈長いナイフの夜〉事件! やはり、ヒットラーがやらせたのだろうか?」
興奮を抑えきれない、という風に直哉が叫んだ。
「奇しくもおまえが事故を起こした日に始まった!」
「らしいですね。僕は最近まで詳しいことは知りませんでした」
〈長いナイフの夜〉とは昭和九年(1934)のこの年、6月30日から7月2日にかけてドイツで行われた粛清事件のことである。ナチ党が反目する突撃隊(SA)の幹部や元首相など116名を法的措置を執らずに一斉に拘束、暗殺した。実際には1000人以上が殺されたとも言われている。これ以後、ヒトラーの主導権は絶対となるのである――
「なんだか、時代が大きく動き出す気配を感じるよ。これから日本は……世界はどうなって行くんだろう?」
「世界の前に自分のこと考えるべきよ。兄さん、飲み過ぎ! もうそのくらいにしてよ。 興梠さんは控えているのに」
「何を言う……俺はまだまだ……酔ってないぞ……!」
言葉とは裏腹に大の字に倒れこむ直哉だった。
「あーあ、言わんこっちゃない!」
布団をかけながら杏子、
「自分だけ好きなだけ喋って、好きなだけ飲んで、ホント、しょうがないんだから、兄さんは! ごめんなさいね、興梠さん?」
「いや、ありがたいよ。この人は僕の快福を心から喜んでくれてるんだ」
興梠は立ち上がった。
「じゃ、そろそろこの辺で僕はお暇するよ」
「なんだ? 帰るのか? コオロギ――! 泊まっていけよ――! 俺も、もう一回……飲み直すぞぉ……」
既に大鼾をかいている。肩を竦めて杏子は言った。
「それじゃ、玄関までお送りします」
玄関は暗かった。
煌々と電灯が灯った座敷から出て来た目には特に暗いと感じる。
その暗がりの中で足を止めると、向き直って、遂に興梠は言った。
「杏子さん、僕は諦めていませんからね。絶対、君をこちら側へ――光の国へ取り戻してみせる」
「無理です」
首を振る杏子。
「私はずっと蒼眞さんの傍にいます」
「いつか殺されるぞ? それでもいいのか?」
思い余って興梠は詰め寄った。
「あいつらがどんなに恐ろしい人間か――君だって、もう充分にわかってるんだろう? だったら」
「私、もう、あの人でないとダメなの。あの人しかダメなの。あの人でないと幸福を感じられないの」
「そんなことあるもんか!」
女学生の細い腕を掴んで揺さぶる。
「僕が嫌だと言うなら――僕以外の誰でも構わない! 君を幸福にできる男は絶対いるよ!」
「わからない人ね? 私もう、あの人に全てを捧げてしまったのよ!」
「そんなことくらいわかってるさ。僕は間に合わなかった。肝心な時に僕は病院の寝台の上で動けなかったんだから。だけど――」
帝大生は食い下がった。
「大丈夫さ! 君だって、昭和の――新時代の女性だろう? 僕ら男性だってそうだ! 処女だ、どうだのって拘る時代遅れの男ばかりじゃない。一度や二度、過ちを犯したくらい……そんなこと何でもない!」
「本当にわからず屋なんだから、興梠さんて」
杏子はため息をついた。
「私が捧げたって言ったのはもっと具体的な意味よ。あの人の傍にいる、その目に見える〈誓い〉を求められたから、私喜んで捧げたのよ。後悔はしていないわ」
「?」
「あなたに、これから見せてあげます。だから、もうこれっきりにして。今後二度と私や蒼眞さん――私たちのことには関わらないで欲しいの」
見たこともない笑い方を少女はした。
「あなただって、せっかく拾った命、大切にするべきだわ。でないと、今度あなたを殺しに行くのは私かも知れなくてよ?」
「本気で、そんなこと言ってるのか? 違うよな? あの男に言わされて――おい? 杏子さん?」
玄関の水のように暗くて冷たい廊下――
構うものか。娘たちはいつも水が好きなのだ。洗い清められる気がするから。
そのくせ、その後、もっと凄まじい濁流に身を晒したがる――
杏子は膝を折った。
流石に狼狽して興梠が諌めた。
「おい? 直哉が――兄さんがいるんだぞ?」
「平気よ。兄さんは朝まで起きないわ」
興梠は息を飲んだ。
「ハッ? 睡眠薬? ……杏子さん、君、まさか? 君までそんな真似を――」
「いいから」
杏子は人差し指を男の唇に当てる。
「さあ、見て」
スカートをたくし上げて杏子はそれを男に見せた。
「――」
今度、廊下に膝を負ったのは男の方だった。
「嘘だろう? 何故だ? 何故……君はここまで……」
民俗学的見地に鑑みると、女性の〈割礼〉は中国やアフリカの部族に多く見られる習俗である。
美しい蝶の生まれる榎の大樹の下で、あの日、行われた行為。
神聖な〈誓いの儀式〉。
『持って来てるんだろ、帆?』
『勿論!』
兄の差し出した掌に弟は自慢の、祖父譲りの海軍小刀を手渡した。
迸しる鮮血……
『 ーーーーーーーっ……』
「何故だ……?」
石化したように動かない男を跨いで杏子は玄関に降りた。
ソックスのまま冷たい三和土を踏んで引き戸を開ける。
重く実った、刈り入れ間近の稲の匂いがした。今年は格別の豊作らしい。
立ち去ることを促すように振り返る。
「お帰りはこちらよ、興梠さん。そして、もう二度と来ないでちょうだい」
「――」
「私のことは、もういいから」
何故、私がそうまでするか?
つい先刻、青年が訊いた問いを杏子は思い出した。
それで――
杏子は答えた。
「そうだ、私ね、最近気づいたことがあるの。興梠さんはそれについて深く考えたことがある?」
未だ衝撃から醒めず、錯綜する思いの淵で、美学専攻の帝大生が聞き返す。
「な、何をだい?」
「阿修羅像のね、顔が三つだってこと……」
「え?」
次の春が巡っても、私は生き永らえることができる気がする。
「ねえ?」
引き戸の向こうに広がる、稲穂の戦ぐ濃い闇を透かし見ながら、杏子はひっそりと微笑んだ。
「紫――私の幼馴染が、あの夜、言った言葉……あれは本当に〈道具〉のことだったのかしら?」
友が闇の中で見たもの。
そして、今、
興梠さん? あなたが眼前に見ているもの。
やっぱり、それは――
「阿修羅だわ」
―――― 阿修羅・了 ――――
☆最後までお付き合いくださりありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。