58
「そう! 僕たち 兄弟だよ」
兄に抱きつきながら楽しそうに答える帆だった。
「似てないって? 蒼真さんは父様似なんだ。だから、あれほど淡紅子さんが執着するのさ。反対に、可哀想な僕。僕は淫乱な母様似ってわけ。だから、淡紅子さんに嫌われる。不公平もいいとこさ!」
「淫乱ってとこは似てるかもな」
「言ったな! それを言うなら、兄様こそ男女見境無いじゃないか!」
「まあ、それは兎も角――」
弟を軽くあしらいながら蒼真は杏子に目配せした。笑いを噛み殺した顔。可笑しくて堪らないという面貌で、
「でも、俺たちだって、はっきりわかる〝似たところ〟がある。気づかなかった? ほら! 俺たち二人とも、こんなに絵が好きじゃないか……!」
「――」
改めて、ルノアールのあの絵の謎解きがわかった、と杏子は思った。
緞帳の中に塗り潰された男の影を、〝父〟五百木猩眞とすると、その前の二人、年の差のある二人の人物は〝子供たち〟――実際は〝娘たち〟だが、この場合は――〝息子たち〟蒼真と帆というわけだ。
「淡紅子が僕たちの母を殺した時」
恬淡な口調で蒼眞が補足した。
「あの時、僕はまだ彼女の養子ではなかった。僕が正式に引き取られて養子になるのはあの殺人事件の後だよ。あの後、目に見えて淡紅子は精神的に不安定になって――今じゃほとんど狂ってやがる。ハナから僕は彼女への捧げ物だったのさ」
「可哀想な兄様!」
「まあ、それはそれとして、だから、あの恐ろしい夜に僕が五百木邸にいても何の不思議もない。長男なんだから。サキは僕と帆の養育係兼家政婦だった――」
ところがその夜、サキは昼間の緊張と疲れから熟睡してしまった。
夜半、ぐずって泣き出した弟を背負って蒼眞が外へ出ると、ちょうど祖父の晋平が田舟を曳いて行くところだった。
兄は弟を背負ったままこっそり後をつけて――
「そして、全てを目撃したというわけさ」
嘘……
こんなことって……
「……」
いっぺんに力が抜けて杏子は草の上に膝を折った。
「特別サービスだ!」
大樹の幹の後ろから少年が取り出したもの。それは例の〈秘密のスケッチブック〉――
頁を繰りながら帆は叫んだ。
「全て絵解きしたげるよ! 杏子さん、聞きたいだろ? まず、一枚目……最初の犠牲者は……」
最初の犠牲者は小西ハツ。
一年前の四月。
最初のそれは俺がおぶって帰ったんだ。月明かりの中を。
夜の道、田圃の途切れた雑木林の影で全てを行った後で。
ハツは使いの帰りだった。
まだ、生暖かくて固くなる前だったので、おぶって連れ帰るのにさほど難儀は感じなかった。
五百木邸は静まり返っていた。
とはいえ、サキは俺が不眠症で夜出歩くのを承知しているから、多少物音を立てたところで気になどしない。
それで、そのまま納屋へ行き、船に寝かしつけた。
殺した時から処分の仕方は決めていた。
御祖父さまがしたように、そして母様がされたようにするんだ。
その時――
「何、それ?」
振り向くと帆が立っていた。
「僕にも見せて」
全裸の女の名前や生死を問う前に帆はそう言うんだ。僕にも見せて。俺は一瞬で理解した。
ああ、こいつは同類だな!
〈救えない種〉だよ、兄様!
悪の種を受け継いだ一族。
どうしたって拭い去れない……浄化されないんだ、僕たちの血は。死に絶えるまで。
ああ、そうだな? そうか。
救えない種……フフフ……
おまけに、こいつがその後なんと言ったと思う?
『描いていい?』だぜ?
「ねえ、描かせてよ。デッサンの勉強になる」
俺は好きにさせた。
船の舳先に腰をかけて煙草を吸っているとまた、こいつが言うんだ。
「蒼眞さんはいいの?」
「俺?」
俺は笑って答えた。
「女体はウンザリだ」
どこがいいんだ? 女なんて弄ぶ意外、使い道がない。
「俺は風景画が好みさ」
弟に思う存分描かせた後で、二人で捨てに行った。
それが初めての俺たちの行い。
「じゃ次、二枚目……」
白魚のような指で少年はスケッチブックの頁を捲った。
二人目は井上和恵。
殺ったのは、やはり、一年前の四月。
そいつは自分の足で納屋までやって来たんだよ。
嫁入り先の地所〈菖蒲が沢〉で人妻らしく乱れに乱れた後、もっと欲しくてついて来たんだ。
自分で歩いてくれて助かった。ご存知のとおり――
あの後、秘密の沢へ行ってみたんだろ?
美学専攻の帝大生がピッタリ傍についていて残念だったな、杏子さん?
あいつさえいなければ、もっと早く楽しい思いさせてやれたのに。あの日、あの場所で?
まあ、いい――
とにかく、和恵が自分で歩いてくれて助かった!
俺は既に背中が爛れ始めていて激痛に襲われていたから。
ところが、納屋で裸に剥くと、やっぱり、和恵の体も毒の花汁に犯されていた。
俺が庇ってやったつもりなんだが、よほど花床を動き回ったんだなあ、俺たち。
花模様……赤い菖蒲の畝みたいだと、帆は面白がったけどね。 勿論、菖蒲に〈赤〉はない。
そして、三人目。
三人目のあの娘が1番パターンが違ったっけ――どうした、帆? ちゃんと頁を捲れよ?
スケッチブックを掲げていた少年の顔が翳った。
「?」
その顔に杏子は見憶えがあった。
梅雨のあの日。
乗り込んだ帆の自室で杏子が布団を剥いだ時、ベッドに寝ていた、あの時の目だ。
少年は窓ガラスに張り付いた蝸牛を見つめていたっけ――
三人目の娘の名前は下野ミチコ。
これは今年の四月。
俺が用事で出た際、N市の国鉄の駅前で出会った旅行客さ。
女学校を卒業したてのお嬢さん。
Nホテルに誘って、カクテルをしこたま飲ませて、そのままホテルの部屋に連れ込んだ。
男は初めてだと言うのに手の付けられない雌犬ぶりを発揮したっけ。
なあ、帆? アレには手を焼いたよな?
「僕、あいつ、嫌いだ」
「だろうな!」
「人ごとのように言うなよ! ホントは兄様が一番嫌いだ! あの日の兄様が……!」
僕は兄様の頼みだからNホテルまで出向いたのに。指示通り制服を持って。
それなのに待っていたホテルの部屋で兄様はあの女の悪ふざけを止めようとしなかった!
―― 嫌だ、やめろよ?
僕は女なんか大嫌いなのに!
纏いつきやがって!
―― 嫌だったら! この……酔っ払いめ!
なんだよこんな穢れた女――
―― フフ、照れてるの? 可愛い!
―― やめろよ! 僕に向かってそんな言葉使うな!
―― だって、可愛いんだもの。ねえ、蒼眞さん? この子あなたとはまた違った魅力があるわ!
私、気にいっちゃった! さぁ、仲良くしましょ?
―― 助けて、蒼眞さん! この気持ち悪い生き物を僕から遠ざけてっ……
迸る悲鳴。