56
杏子は心臓が潰れるかと思うほど駆けに駆けた。
イーゼルの上の肖像画。
草の上に座って微笑む制服姿の女学生。
木漏れ日がキラキラと降り注いでいる。
清純な少女を縁っている燦きは陽光だけではない。
紫色の特別の光。
友の名前にちなんだ画家の遊び心だろうか?
顔を近づけてよく見るとその紫の光彩は蝶だとわかる。
紫色の蝶々……
杏子は駆けに駆けた。
そして、とうとうやって来た。
村の小高い丘。青田を見下ろすその丘の上。生い茂った木々の中。
目指すのはただ1本の木。
一際緑濃い榎の大樹。
その樹が見えてきた時、漸く杏子は走るのをやめた。
息をついて、周囲を注意深く見回しながら近づいて行く。ゆっくりと。
( ひょっとして…… )
紫がこの場所にいるような気がしていた。
あの絵の通りに木陰に座って今度こそ自分を待っているような。
だが、勿論、目の届く限り、そこには誰もいなかった。
そう思った矢先、声がした。
「言ったとおりだろ? 杏子さんなら、一発でここがわかるって」
擽ったそうに笑う声。
独特の、聞き覚えのある声――
「村で育った子なら誰でも知ってるさ! オオムラサキはこの榎の葉っぱが好物だ。この樹の葉を食べて綺麗な蝶に羽化するんだよ」
榎の大木の影から出て来たのは五百木帆。
「だから、紫の蝶と言えばこの木さ! 一直線にここへやって来る!」
「なるほどな! 所詮、異邦者――中途半端な俺ではこうはいかない!」
続けて出て来た一人――
角田蒼眞だった。
「あなたたち……あなたたち……え? え?」
後の言葉が続かない。
停止する思考。
それでも、なんとか、絞り出すように杏子が口にしたのは――
「帆君? あ、あなた、大丈夫だったの? 怪我は?」
「アーハハハハ……!」
けたたましい少年の笑い声が木立に響いた。
驚いた小鳥たちが梢を震わせて飛び立つ。
「んな、ドジ、僕が踏むもんか! それこそ、〈睡り人形〉が運転してる危険な車なんてとっとと降りてるさ!」
「と言うよりも――おまえがその〈睡り人形〉にしたくせに。ほんと、悪い子だよ!」
「ど、どういうこと?」
「興梠響、あの男は小賢しくも俺たちのことを探偵よろしく嗅ぎ回っていたから……それをやめさせようとこいつを送ったら、やりすぎちまった!」
「だって、脅かして来いって、言ったのは蒼眞さんだぜ?」
「俺はあそこまでやれとは言っていない。あんな派手な真似して、逆に警察に目をつけられたらどうするつもりだ?」
「ハッ! そんなの、絶対大丈夫さ!」
少年は肩を竦めた。
「万が一あいつが命を取り留めたところで、あいつはこっちを訴えられっこない。それこそ、あいつ自身の身の破滅って行為を僕に散々したんだから。その上、死んでくれりゃあ、万々歳! 全て自殺でカタがつくってものさ!」
自信たっぷりに目を細めると、
「服用した薬だって――蒼眞さんのを持ち出したんじゃないぜ? あいつ自身の持ってた薬だもん」
「?」
茫然としている杏子を横目で見て、少年は楽しくて堪らないという風に肩を揺らした。
「どうやって、仕込んだか、知りたい? クックッ……別れ際に口移しで飲ませたサイダーに混ぜたんだよ! あいつの好物のベロナール入り特製サイダー!」
花弁のような唇から舌を覗かせる。
「まあ、それでなくともあいつ、僕のサービスでメロメロでさ! 夢心地のまま車を発信して――あのザマだ! アーハハハ……」
「――」
「通学鞄を車内に置いて来たのは計算の内さ。時間稼ぎになると思って――」
少年は青年を振り仰いだ。
「蒼眞さん、ここらでそろそろ杏子さんとじっくり話をしたいんじゃないかって。どう? 気が利くだろ? それなのに――」
突然、少年の表情が豹変した。
「あれはないよ! ヒドイな! 僕、本気で傷ついたんだぜ?」
激昂して両手を振り回す。
「僕が体を張って、散々苦労して、しかも、最後は長い田舎道を歩いて帰って来てみれば――蒼眞さん、話し合いどころか、杏子さんといいことしようとしてた――」
「え?」
杏子はギクリとした。
一方蒼眞は澄まして、
「何言ってんだ、危ないとこだったんだぞ」
浅黒い肌に零れる白い歯。例によって、見惚れるような微笑で言うのだ。
「このお転婆さん、おまえのスケッチブックを持ち出そうとしていたんだ。だから、あの場は、ああでもしなくちゃ大変なことになるところだった」
「ふううん? その割には嫌々って風には見えなかったはけど?」
「ヤキモチも大概にしろ、帆。何もなかったのはお前が知ってるはずだ。このお転婆さんは俺の与えた睡眠薬で眠りこけてた。俺がやったのは――それこそお前が帝大生にしたことと同じ――口移しでベルナールを飲ませたことだけだ」
蒼眞は少年の華奢な顎を掴むと強引に顔を自分の方へ向かせた。
「俺が本気で付き合えるのはおまえだけだ。流石の俺だって――女学生にあそこまで乱暴な行為はでき兼ねる。やっぱり、おまえでなきゃ、フフ」
「……待って」
朧に霞む記憶。
入れ替わる残像。
杏子は震えだした。
「待ってよ、あれは――あの会話――」
ネガとポジが逆転する。
何てこと? あの会話の場面は私じゃない。
私はあの時――
熱い口づけ。床に頽れる。
いきなり飛び込んで来た帆。
杏子を押しのけて蒼眞にしがみついた。
『ヒドイよ! 僕を除け者にして! こんなのありか?』
『おい、落ち着け、盛るなって! まずこっち眠らせてからだ』
『チェ! もうほとんど意識ないじゃないか!』
『いや、本当に薬が効いてくるまでもう少し様子を見よう。階下にはサキもいるんだぞ。ここでこの娘に騒がれちゃあ元も子もない――』
私は本当に飲まされていたんだ。薬。この人たちの常套手段。常備薬。
そして――
あの部屋の中で繰り広げられた行為……その最中に交わされた会話……
あれは、私と蒼眞さんじゃなくて、
帆君と蒼眞さんだった――
だから、〝女学生〟って、絵の中の紫ではなくて、私自身のことだったんだわ……!
―― ? 何? 蒼眞さん、どうして笑ったの?
―― 女学生がこっちを見ている。
ほら、俺たちのことを可愛らしい目でじっと見てるぜ?
―― かまわない……どうせ……その娘は……
今はなんにもわからないから……!
目は開いてても意識はないよ。薬のせいで。
やあ、まるで人形みたいだな、杏子さん。
帝大生に見せてやりたかったな!
帝大生に見せてやりたかったな……