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( 帆君が興梠さんの車に一緒に乗っていた……? )
しかも、血だらけの通学鞄が見つかったってことは……
突きつけられた現実に暫し呆然と立ち尽くす杏子。
だが――
( これは僥倖だわ。これを利用しない手はない……! )
衝撃が去って、女学生が思ったのは、それだった。
今回の事件――〈X村連続婦女失踪事件〉、その全てに帆が関わっていたことを証明する証拠があのスケッチブックの中にある。
失踪した女たち、4人全員の克明な肖像……
しかも、そのどれもが裸体画であり、死骸描写……
少年が事故で怪我を負おうと、とにかく、ここは一刻も早くあれを手に入れなくては! 今現在、この事実を知っているのは私だけなのだから。
杏子は斉三を呼び止めた。
「あの、斉三さん――」
「はい?」
訝しげに振り返った五百木家の男衆にしっかりとした口調で杏子は言った。
「私ね、昨日、ここのお邸に忘れ物をしちゃって。実は、今それを取りに来たところだったのよ。こんな大変な時になんだけど――中に入って取って来てもいいかしら? 女学校で使うものなので、どうしても必要なの」
「勿論ですとも!」
皺だらけの厳つい顔をこの時だけは綻ばせて、斉三は頷いた。
「長谷部のお嬢様なら何の遠慮がいりましょう。どうぞ、ご自由にお上がりになってください」
こうして――
杏子は邸内に入った。
真っ直ぐに蒼眞使用している部屋へ。
部屋は整然と片付けられていた。
まるで何事もなかったかのように。
「――」
杏子の頭の中で、一瞬で時間が巻き戻る。
昨日――
帆の部屋の書棚の裏から秘密のスケッチブックを見つけて、慌てて部屋を飛び出して……
すぐに家へ持ち帰ろうとしたのに、薄く開いている扉に引き寄せられるようにしてここへ足を運んだ私。
その時の、水の上を行くような冷たい廊下の感触がまだ足裏にくっきりと残っている。
残っている、と言えば、
蒼眞と繰り広げた愛の行為も。
甘やかな吐息とともにその一つ一つを杏子は思い出すことができる。
――はずなのに。
「――」
思い出そうとすると途端に朧になるのはなぜだろう?
宛ら眠り薬でも飲んだみたいに。
正直、この部屋で過ごした愛の記憶は酷く断続的なのだ。
頽れた冷たい床の上。次にいきなり闇が来る。
思い出せるは、階下からのサキの声で揺り起こされたこと。
蒼眞に付き添われて階段を下りて、五百木邸の玄関を出た。
一人、夜道を家へ向かって歩いていたっけ。
私の帰りが遅いと兄さんはひどく怒ったけど、考えたら、いったい私、昨日はどのくらいここにいたのかしら?
でも、これだけは言える。
この部屋で起こったことは幻想などではない。
全て実際に行われたことなのだ。
改めて杏子は室内を見回した。
昨日初めて入った時と違いはなかった。
部屋の前面が窓になっていて、窓の下に低いサイドボード。
その前にイーゼルがあって、紫の絵が置かれている。
部屋の中央には猫脚のアンティークテーブルと、二脚の椅子。右の壁に沿ってベッド。
反対の左側の壁には洋風の重厚な箪笥が並んでいる。
部屋が整然と片付けられているのは蒼眞の配慮だ、と杏子は納得した。
私たちの秘密を他人に詮索されないよう、不必要な痕跡を残さないようにしたのだ。
大きく息を吸って吐く。
画材やスケッチブックの類は、杏子の大まかな記憶通り、全部テーブルの上にまとめられていた。
杏子が床に落とした例のスケッチブックも、蒼眞が部屋を片付けた際、そこに重ねたに違いない。
宙を飛ぶようにして部屋を突っ切り、スケッチブックの山の前に立った。
そして、上から、順番に一冊づつ頁を捲って、調べていった。
「?」
テーブルにあったのは全頁、風景画ばかり描かれた蒼眞のスケッチブックだった。
唯一の例外が、紫のそれ。イーゼルにある肖像画の元絵となったスケッチである。
念のため、もう一回、一冊づつ見返した。
だが、結果は同じ。問題の帆のスケッチブックは何処にもなかった。
「変ねえ?」
全部同じ表紙のスケッチブックだ。名前など記してないから中を見ない限り自分の物か他人のそれか区別はできないはず。
中を改めて、帆のスケッチブックだと知った蒼眞が帆の部屋へ戻したのだろうか?
その可能性はある、と杏子は思った。
私は、隠されているのを見つけて、それ故、違和感を抱いて丹念に見たけど、画学生の蒼眞にとって、裸体画など見慣れているから気にも留めなかったのかも知れない。一瞥して、帆のスケッチブックだ、と思っただけで、それ以上深く詮索しなかった?
それで、杏子は帆の部屋も覗いてみることにした。
が、少年の部屋にもスケッチブックはなかった。
無論、書棚の裏も探ってみたが、闇が蟠ているばかり。
また、蒼眞の部屋へ戻った。
イーゼルの友の前に立つ。
「ごめんね、紫ちゃん」
思わず、零れた言葉。
この絵の前で、この床の上で、行われたこと――
目を瞑ると突然、まざまざと蘇る残酷な会話があった。
床に横たわって交わした会話だった。
―― ? 何? 蒼眞さん、どうして笑ったの?
―― 女学生がこっちを見ている。
ほら、、俺たちのことを可愛らしい目でじっと見てるぜ?
―― かまわない……どうせ……その娘は……
今はなんにもわからないから……
なんにもわからない、とは死んでるからどうでもいいということ?
そんな酷いこと、本当にあの時、蒼眞さんの腕の中で私は口走ったのだろうか?
でも、確かに憶えている。そのセリフがこの部屋で響いたこと。
頬に残る冷たい床の感触とともに。
―― かまわない……どうせ……その娘は……
今はなんにもわからないから……
今頃になって萌す悔恨。
杏子は絵の前へ立って、友に囁いた。
ごめんね、紫ちゃん。でもね、
愛し合う時は、もうそれ以外のことなどどうでも良くなる。
身体中カッと燃えて、頭の中がトロトロに熔けて……
紫ちゃん、あなただってそうだったでしょう?
もし、あなたも、蒼眞さんに愛されたのなら、そのことわかってるはず。
だから、私のことも許してくれるわよね?
バサバサバサ!
「キャッ!?」
その時、凄まじい音がして何かが窓ガラスにぶつかった。
ハッとして、杏子は窓を振り返った。