51
そこに紫がいた。
「ここに、いたの? 紫ちゃん?」
刹那、杏子は問いかけてしまった。
そのくらい、紫そのものだった――
入ってすぐの場所にそれはあった。
イーゼルの上に据えられたカンバス。その中で笑っている女学生。
蒼眞が以前見せてくれたデッサン画の完成品だ。
木々の下で座っている制服姿の清純な乙女。
その若さと明るさを寿ぐように木洩れ陽が惜しみなく降り注いでいる。
幸福な少女を縁っているのは陽光だけではない。
特別の光のように紫色の蝶蝶までチラチラ舞っているではないか。
美しい絵だった。
こちらの絵の中の紫は、帆のデッサン画とは違って、来訪者をしっかりと見据えている。
生きている紫がそこにいた。
「そうか、ここ、蒼眞さんの部屋なんだ――」
救われたような気分になった。
帆とは違って、蒼眞は生者を描いている。
生きている紫を蒼眞は描いたのだ。
その時、背後で声がした。
「誰だ? 何してるんだ、こんな処で――」
突然の声に恐る恐る杏子は振り返った。
「……蒼眞さん?」
入って来たのは角田蒼眞だった。ゴルトムントの散歩から帰って来たらしい。
「杏子さんか!」
侵入者の顔を見て安堵したのか、すぐ笑顔になった。
「帆君を訪ねて来たのかい? こっちは僕が使用してる部屋だよ。こまるなあ、勝手に入っては。本当に悪戯っ子なんだから――」
蒼眞の言葉が途切れた。
真剣な声になる。
「どうしたの? 何、泣いているんだ?」
蒼真の指摘通り、杏子の瞳からは後から後から涙が溢れていた。
「おい、杏子さん?」
「わ、わかりません。でも、私、う、嬉しくて……」
「何がだい?」
「こ、この絵……素晴らしいです! これこそ、紫ちゃんだわ! 私の知っている、仲良しの、幼馴染の、紫……」
「――」
自分が垂れかかったのか、それとも蒼眞が引き寄せたのか、わからない。
次の瞬間、杏子は蒼眞の腕の中にいた。
きつく抱かれている。
重なる唇。
通学鞄とスケッチブックが音を立てて床に落ちた。
拾う暇などなかった。
続けて杏子自身も床に崩折れた。
抵抗はしなかった。
何故なら、こうなることをずっと待っていたから。
こうされることを。
さっきあれほど――涙を零すほど感激した親友の絵はこの瞬間、杏子の視界から完全に消え去った。
今、目を塞いでいるのは焦がれ続けた男の顔だけ。
「そうまさん……」
シャルロットの乙女も、
オフィーリアも、
冷たい流れを渡ったのは
この暖かい濁流に身を晒すため――
シャルロッテの乙女も、
オフィーリアだって、
あれほど追い求めて遂に得られなかったものは――
凍えた身体を内側から温める熱い異性の身体……
内側から焼き尽くす剛火……
胃、喉元、ううん、頭の天辺……脳髄まで貫き通す雷……
「もう何もいらないから
唯それだけをちょうだい」
「杏子ちゃん――」
「私、縛り付けて、閉じ込める男より、解き放ってくれる男が好きなんです」
目蓋の裏を幾千、幾億の光の蝶が飛び狂っている。
己を貫通する濁流
飲み込まれる
きゃああああ……!
「蒼眞さぁん! 蒼眞さ――ん……!」
暗い底から声がする。
自分の声ではない。
吃驚して杏子は目を開けた。
「?」
「大丈夫、サキさんだよ」
すぐ近く、耳元で響く声。
「せっかく腕によりをかけて夕食の準備をしたのに、帆の帰りが遅いんでヤキモキしてるんだろう」
蒼眞は階下へ向かって大声で返答した。
「はーい、サキさん、待って、今行くから……!」
杏子にはこう囁いた。
「仕方がない。どれ、ちょっとお相手して、落ち着かせてくるよ」
「――」
サキの声はまだ続いている。
「蒼真さー―ん? いらっしゃるんでしょう? 杏子さんは帆坊ちゃまのお部屋でしょうか?」
「待って、サキさん! 今、下りて行くから……そこで待ってて」
蒼真は愉快そうに笑っている。
「杏子さんはね、どうも、眠りこけているみたいだよ。あんまり静かなんで、今、覗いたところだ。ほら、昨晩、帆君が面倒かけたらしいから疲れたんだろうな……」
「まあ! そうでございましたか?」
忠実な養育係兼家政婦は階段の下に留まったまま、声を張って訊き返した。
「お布団をお持ちしましょうか?」
「いや、いいよ、僕が何か掛けておこう」