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「嫌ぁ―――……!」
「――――」
時が止まっている?
十三年前、同じこの研究室の中で、どんな愛撫にも決して反応しなかった――
目を開けることのなかった標本人形。
それと同じ。
この男の手は凍っている――
「?」
突然、杏子はそれを悟った。
「からかっていらっしゃるの?」
後ろから抱き抱えたまま、男は動かない。
それ以上の事は何もしなかった。
する気配さえ微塵も感じない。
高く結われた帯。その内側に固く埋められた蕾はある。
けれど決して摘み取ろうとしない冷たい腕だった。
「からかったのね?」
「――お教えしたかったんですよ」
興梠響はきつく巻いていた両腕を解いた。
「どうです? ちょっとは怖かったでしょう?」
小さく笑って、
「でも、あの男はこんなものじゃない。僕なんかの何倍も恐ろしい男ですよ、杏子さん」
パン!
乾いた音が部屋に響き渡った。
杏子が興梠の頬を力いっぱい打ったのだ。
「ツ――」
「ひどい人! こんなやり方して……」
「……そうですね」
切れた唇を拭いながら青年は認めた。
「でも、ここで僕が話した事は全て真実です。それというのも、僕はどうしてもあなたに伝えたかったんだ。人は幾つもの顔を持っている。一見冷徹で穏やかな――これはあなたが言ったんですよ?――僕でさえ一皮剥けばご覧のとおり」
興梠は瞳を閉じた。
「僕は人形に心奪われた異常性愛者だ」
諄々と諭すように言う。
「さっき、君に襲いかかった僕に恐怖を感じたのなら、杏子さん、あの男、角田蒼眞には近寄らないことだ。何度も言うが、あいつは女性にとって本当に恐ろしい男ですよ」
「それは私の自由です」
一瞬、逡巡したものの杏子は真実を明かした。
「それに――あなた、ちっとも怖くなかったわ」
「――」
「私、全然恐怖を感じませんでした。伝わってこなかったもの」
「何が、です?」
「さあ、うまく言えないけれど……熱? 熱い血潮?」
人差し指を顎に当てて首を傾げる。
「あなた、凍っていてよ、興梠さん?」
更に決定的な言葉を女学生は吐いた。
「まるで、あなた自身がお人形みたい」
「クソッ!」
褪色した漆喰の壁を青年は叩いた。
これもまた、人形の呪いなのだ……!
人形が奪ったのは精神だけではなかった。肉体も?――
「わかりました」
とはいえ、すぐにいつもの冷静で温雅な青年に戻って興梠は姿勢を正した。
「どうやっても、僕には、あなたを翻意させることはできないと言うわけですね?」
ツンとそっぽを向く杏子。
「私は私の好きにします。誰を愛そうと私の勝手です」
「……車に戻りましょう。お家まで、お送りしますよ」
次々と現れては飛び去って行く風景。
宛ら、思い出のようだ。ハンドルを握りながら興梠は自分自身を悪罵した。
嘘つきめ……!
助手席に座っている少女にそっと視線を走らせる。
あなたは僕をもっと怖がるべきでしたよ、杏子さん?
何故って?
あなたは人形に成り損ねたんだから。
あなたを人形にしたがった、僕の想い――それは恐ろしい事実です。
人形にしないと僕はあなたを愛せませんからね。
簡単だった。
後ろから抱きとめた少女の砂糖菓子のように脆い体。
あのまま容易に首をへし折れた。
なあに、急ぐことはない。万一騒がれても、裏の高校生たちのあの応援合戦だ。
ぬかりはなかった。
完全に動かなくなったら――その後で存分に好きにすればいい。
カナがそうだったように。
カナはそうさせてくれたじゃないか。
白く滑らかな肌。
何処も彼処も……
君もそうなんだろう、杏子さん?
カナを奪われてからもう二度と手に入れられないと諦めていた宝物を僕は見つけ出したんだ。
実際、驚いたな! 帝大図書室で僕を待っていた杏子さんを見た時は……!
何処かの棚の中にしまってあったカナを、誰かが気づいて、そっと返してくれたのかと思った。
遅れた誕生日の贈り物……!
そう言えば、あの日の杏子さん、リボンまでつけていたものな?
いいとも。最後のバースディだ。
この先、何十年生きようと、こんな贈り物はもらえっこない。
思う存分好き勝手に生きて――
その果ては、親父同様、僕もさっさと命を断てばいい。睡眠薬なら山ほどポケットに持ち合わせている。
簡単なことだ。
「――」
美学専攻の帝大生は唇を噛んだ。
先刻、女学生に叩かれて裂けた傷がピリリと軋む。
フロントガラスを見つめて自問する。
踏み留まらせたのは何だったのか?
土壇場の〈理性〉? それとも――
真実の〈愛)?
まさかな?
だが、僕にはわからない。
これで二回、僕はやり損なっている。その機会は整っていたのに。
人気のない〈菖蒲が沢〉と、廃墟の〈洋館〉。
どちらもこの上なく完璧な舞台設定ではないか?
あなたを殺して、僕だけの人形にできたのに。
何が僕にそれを押し留めさせたのだろう?
「ううーん……」
隣りから漏れる小さなため息。
「ああ! また、平気で寝てしまっている! あんなことがあった後で?」
―― 私、ちっとも怖くありませんでしたわ!
だと? 困ったお嬢さんだ。
興梠も息を吐いた。
「あなたは、やはり、光溢れる苑で永遠に笑っているべき人なんだよ、杏子さん……!」
車を止めると青年は一つだけ、胸に思い描いていた行為を実践した。
そのくらいなら許してくれるだろう。
誰が?
天も。そして杏子も。
寝息を立てている女学生の額に唇を寄せる。
「――」
遠い日の、父の人形が蘇る。
でも、これは僕の人形じゃない。
まあ、それに、人形は人を殴ったりしないものな?
ヒリヒリする自分の頬を撫でながら興梠は言った。
「起きて、杏子さん! 御自宅に着きましたよ!」