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曇り空だが雨の心配はなさそうだ。
村中の田圃と言う田圃は隅々まで田植えを終えて、風が通り過ぎるたび早苗が青い波のように燦めいている。そのせいで杏子は海の中を歩いているような錯覚に陥った。
ふいに五百木邸の納屋の中にあった船を思い出す。
うっそりと杏子は笑った。
「〈田舟〉とはよく言ったものだわ!」
あの船はこんな風に、青い穂波を分けて漕ぎ進むのだろうか?
杏子には見える気がした。
湿地に浮かんでいる船。
舳先に桜色の指がかかる。ムックリと起き上がってこちらを見つめる娘たち。
娘たち?
そう、乗っているのは一人ではなかった。
何人も乗っている。
そしてその中の一人は……
紫ちゃん?
幼馴染の唇がゆっくりと動いた気がする。
何、何と言ったの、紫ちゃん?
き て は だ め ……
「ピィ―――――ッ!」
鋭い轟きが杣道の静寂を切り裂いた。
鳶の声だ。
だが、そのおかげで杏子は現実に引き戻された。
( やだ、私ったら。このところ空想癖が強すぎる。もっとシャンとしないと……)
これは蒼眞のせいばかりではない。
山道を歩く時は細心の注意が必要だ。でなければいろいろなものに惑わされるから。
古都近郊とは言え、村育ちの杏子は父や、亡くなった母からも、色々な話を聞かされている。
笹林で立ち止まってはダメ。遊んでいる子供の声がするでしょう? その子たちに誘われて一緒に遊んだら二度と家に帰れなくなる。
それからね、林の中にポッカリ空いている場所を見つけたら立ち入ってはならないよ。天狗の集会所だから。たちまち拐われてしまう。
なとなど。
さっきの、舟の中の乙女たちの幻想も、その類、山林が見せた幻だろう。
杏子は気を引き締めて足を早めた。
途中、岩から染み出した泉で喉を潤す。
( 水筒を持って来るべきだったかしら? )
慌てて家を出たので杏子は何も携帯していなかった。唯一あるのは水色のハンカチ。蒼眞さんにもらった宝物……
そして、また歩き出す。
思ったよりも沢は遠かった。
「?」
何度か、後ろから何者かがついて来る気配を感じて振り返った。
「きっと、狼だわ」
明治に入ってほどなく狼が絶滅した、などという世迷言を村の人間は信じてはいなかった。勿論、杏子もその一人である。
「着物なら良かった。塩も持っていないし……」
紐を腰に結わえて、その先を長く垂らして歩くと狼は襲って来ない、と杏子は教わった。そうして、無事目的地についたら、送ってもらったお礼に塩を置くのだ。狼は喜んで帰って行く。
「とにかく、急ごう」
突然、その沢は目の前に出現した。
小高い双丘に抱き抱えられるように両側を塞がれた細長い一角。
ここが全て青で埋まる花の季節はどれほど美しいだろう……!
―― 水彩ながら素晴らしい!
蒼眞の絵を見た美学専攻の帝大生の感嘆の声である。
その通り、蒼眞の筆は見事にこの秘密の沢の景観を描ききっていた。
杏子も、そのスケッチブックの一頁にだぶらせて、眼前の景色を堪能した。
「……」
勿論、菖蒲の花は終わっていた。
一面に立ち枯れた花茎がそそり立っている。
墓標のように?
とはいえ、死体など何処にもない。骨だって――
「何を期待していたんだい?」
背後からの声に杏子は凍りついた。
「――」
ゆっくりと振り返って、顔を確認した途端、力が抜けて杏子はその場にへたり込んでしまった。
「興梠さん?」
興梠響だった。
「ど、どうして、ここに? 兄さんが、あなたは今朝、とっくに出て行ったって――」
「驚ろかしたのならごめんよ」
水筒を差し出しながら帝大生は言う。
「ただ、心配になって……それで、君の後をついてきたんだ」
「あ!」
思い当たって、小さく叫び声を上げる杏子。
「興梠さん、あなた、ひょっとして、昨夜の私と蒼真さんの会話を聞いていた――?」
カタリ。
階下でした物音。
一方、帆の声は玄関から聞こえた――
興梠は素直に頭を下げた。
「深夜の家の中は意外に声が響くものさ。結果的に盗み聞きしたことは謝ります」
見る見る杏子の顔は朱に染まった。
会話を聞かれた?
勿論、私は口に出して変なことは言ってはいない。言ってはいないけれど……
一方、別のことにも頭を巡らせる。
ということは――
帆君が来なくても、昨夜、蒼眞さんと私の間にあれ以上のことは起こりようがなかったんだ。
帆君の代わりにきっとこの人が邪魔をしただろう。
紅潮する女学生から視線を逸らせて興梠は説明した。
「それで、僕は、君が今日、絶対ここ、〈菖蒲が沢〉へ行くんじゃないかと推理したのさ。先回りして、君の家の近くに隠れて様子を窺っていた。凄く心配だったから」
「どう言う意味でしょう? 〝心配〟って――」
興梠がその言葉を使うのは二度目だ。 少々冷たい口調で杏子は訊いた。
「私、この村育ちだから、山道を歩くのは平気です。土地勘だってあるし、迷ったりしません」
「そうじゃない」
首を振る帝大生。
「僕以外にも、君が、今日、この沢へ行くのではないかと推理する人間がいるかも知れないからね?」
「?」
「こんな場所、女学生が一人で来るべき処ではない。危険過ぎるよ」
杏子は先ほどの質問を再度繰り返した。
「どう言う意味?」
興梠からの返答はない。それで、自分で答えた。
「蒼眞さんのことを言ってるの? 蒼眞さんがつけてくるかも知れないって?」
興梠は頭を掻いた。
「この際だから言うけどさ、杏子さん。あんまりあの男に近づかない方がいいと僕は思うな」
「そんな――」
思わず杏子の声が高くなる。
「こ、興梠さんだって、蒼眞さんのこと認めてたように見えたわ! 凄く、打ち解けていたじゃない?」
「芸術家としては評価するよ。でも――」
兄の友人はきっぱりと言い切った。
「あれは危険な人間だよ」
「わ、私を誘惑したから?」
杏子は震えだした。
「お、男の人ならあれくらいの行為……」
掴まれた手首
「あんな言葉くらい……」
―― 目を瞑ってごらん。
しかも、見ていなかったくせに!
あなたは、聞いていただけでしょ?
あの出来事は実際とても短い時間だった。
すぐに聞こえた耳障りな音たち――
カタン。(これは興梠)
『蒼眞さーん! 迎えに来たよ――!』 (これは帆)
私を掴む蒼眞さんの手を燃えるような目で睨みつけながらあの阿修羅は私に言ったっけ。
『女学生は世界で一番汚らわしい生き物……!』
とはいえ、階下のこの人にアレが聞こえたはずはない。
それなのに?
興梠響はを全てを見ていたかのように言い切った。
「あれは危険な人間だよ、杏子さん」




