↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
阿修羅  作者: sanpo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/64

 1

                  




「そんなに自分を責めるなよ、杏子(きょうこ)。全てお前のせいってわけじゃないんだから」

 兄の直哉(なおや)が真剣な顔で諭した。

「ううん、兄さん、私のせいだわ」

 激しく首を振る杏子。

「あの時、やっぱり止めるべきだった。もう遅いからって、何が何でも引き止めて、枕を並べて眠ればよかった。今までいつもそうしてたみたいに」

 布団に包まって、恋の話をする。まだ見ぬ憧憬のあれこれ。

 でも、ダメ。(ゆかり)ちゃんは拒否した。

 現実に〈恋する相手〉と巡り会ったから? 

 そんな子供っぽいお伽話は卒業。

「そりゃ、お前の気持ちはわからないでもないけど。だからって、村中飛び回って〈怪しい奴〉を探し出そうなんて。そんな非常識で非現実的な事はもうやめろ」

 兄は妹の腕を掴んだ。

「さあ、家へ帰るぞ!」

「ほっといて!」

「ほっとけるもんか! 今度お前がいなくなったら――お前の身に何かあったら死んだ母さんに俺が顔向けできない」

 力づくで連れ帰ろうとする兄。

 その腕を振り払おうと身を捩った時、杏子の目に飛び込んできたもの――

「あら? あれは誰?」

「え?」

 道の向こう。川縁りでスケッチブックを広げている人がいた。

(かい)君だろ?」

「違う。その隣にいる人よ」

 川縁りには二人いた。

 二人とも大きなスケッチブックを広げて、お互い覗きあっては何やら熱心に語っている。

 と、一人が腰を上げた。まだ幼さの残る少年の方。

 中学の制帽を被り直すとスケッチブックを小脇に抱えて足取りも軽やかに歩き出した。

「帆君!」

 ちょうど、こちらへやって来たところを捕まえた。

「わ! 吃驚した! なんだ、杏子さんと……直哉さんも? 一体、何さ?」

 目を見張る少年に構わず、息急き切って杏子は尋ねた。

「あの人、誰?」

「ああ? 蒼真(そうま)さんだよ。角田蒼真(すみだそうま)さん。あれ、知らなかった? もう一週間もウチに滞在してる」

 目を輝かせて、得意げに少年は続ける。

御祖父(おじい)様の友人のお孫さんさ。何が凄いって、パリ帰りなんだ!

 蒼真さんはパリで絵を勉強してて……今、帰国中なんだ。

 それで、いい機会だから、僕も絵をみてもらってる。見てよ、褒められたんだ! デッサンがしっかりしてるって――」

 杏子は聞いていない。既に走り出していた。



 草を飛ばして土手を駆け下りると杏子は一気に言った。

「スケッチブックを見せてください!」

「は?」

 答えも待たずに、青年の手から奪い取ると(ページ)を繰った。

「こ、こら、杏子!」

 追いついた兄が代わりに頭を下げる。

「すみません、こいつ、一本気なもので、思いつめると見境がつかなくなる――」

「何なんです、一体?」

この人(・・・)だわ! 紫ちゃんを連れ去ったのは、この人(・・・)よ!」

 杏子はスケッチブックの頁を押さえて叫んだ。

「これが証拠よ!」

 そこに描かれていた少女の肖像。

 セーラー服に、(うなじ)で一つに(まと)めた長い髪。揺れる大きなリボン。

 紛れもなく、紫だった。

 だが。

 本当は、スケッチブックを見るまでもなかったのだ。

 だって、その人は、紫の言った〈男の人〉そのものの風貌をしていたから。

 長身痩躯、浅黒い肌。肩まで伸ばした漆黒の髪。

『とても素敵な人。魂が震えるくらい……』


 


 昭和九年。

 その年がどんな年であったか?

 既に前年、独逸(ドイツ)ではナチスが政権を獲得している。八月には、第一次大戦でドイツ軍司令官としてロシアに大勝し国民的英雄となったヒンデンブルク大統領が死去。アドルフ・ヒトラー首相が大統領も兼務の〈総統〉として全権を手中にするのである。

 亜細亜においては三月、満州で愛尖閣羅溥儀が皇帝に即位していた。

 

 明らかに世界に不穏な黒雲が湧き出したこの年。

 だが、大概の若者はそのことに気づきもしなかった。

 春はいつも通りに燦いて、緑の風を吹かせ、

 古都に近い長谷部杏子の住む小さな村は例年と変わらない長閑(のどか)さの中にあった。


 いや、違う。

 遠くて現実味のない戦争などより、もっと生々しい恐怖がゆっくりと這い寄っていたのだ。


 





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。