彩の呼吸(いろのいき)
新潟の夏は、光が飽和する。
自転車のペダルを漕ぐ足が重い。今しかない高校二年の夏を、けれど浅井は、アスファルトに揺れる憎らしげな幻影を、視線で強く射貫いた。部活帰りの午後二時。肺に吸い込む空気は熱く、吐き出す息さえ白光に焼かれそう。冬のあの重苦しい鉛色の空を、すべて塗りつぶそうとするような、暴力的なまでの白。
「新潟の夏って、眩しすぎるよな。冬はあんなに灰色なのにさ」
熱気が澱む駅前の駐輪場。浅井がぼやくと、隣の陽葵が小さく笑った。
「そうかな。むしろ、夏にしか出会えない無二の色がたくさんあると思うけどな」
美術部の陽葵は、美術館のロゴ入りトートを涼しげに肩にかけ、浅井の不機嫌な横顔を覗き込む。
「無二の? たとえば?」
「それは内緒」
陽葵は答えるかわりに、ヤスダヨーグルトの青いボトルを自分の頬に当てる。ボトルの表面に浮き出た水滴が白い肌に伝って落ちた。
「浅井くん、新潟の本当の色、自分でさがしてみたら。見つけたら教えてよ」
「いいけど。見つけたら何かご褒美ある?」
軽口のつもりだった。けど、陽葵はいたずらっぽく微笑んだ。
「あたり前でしょ。ちゃあんと用意してあるからさ」
その日から、浅井の「色さがし」がはじまった。陽葵の言葉に胸の鼓動がいくらか速まったのを、浅井はまだ、自覚していなかった。
数日が過ぎた午後、美術室の窓際でスケッチをする陽葵の隣に、浅井は腰を下ろした。エアコンの微かなうなり。紙をなでる鉛筆の音。
「これ、一個目。どうかな」
浅井が差し出したスマホの画面には、信濃川の土手に広がる、むせるような濃緑。
「わあ、いい深み。春の若草色とは違う、ちょっと重たい緑だね」
「だよね。やすらぎ堤のあたりは、草の匂いがすごくてさ。萬代橋の御影石の白と、この緑がわちゃわちゃしてるみたいで夏って感じがしたんだ」
「ふふ、合格。浅井くん、意外と感度いいんだね」
「意外は余計だなあ」
陽葵が微笑む。陽葵の持つ鉛筆が、紙の上で短く転がる。鉛筆の音が止まった美術室はやけに静かで、けど、浅井の心臓が少しだけリズムを乱した。暑さのせいだ、と自分に言い聞かせる。そのときから浅井の瞳は、見過ごしていた色彩を鮮明に捉えはじめた。
「今日は何を見つけたの?」
陽葵がスケッチブックから顔を上げずに聞いた。
「西堀通りに揺れる柳の薄柳色」
「渋いね。大人の色」
「あと、これ。昨日の夕飯に出てきた十全茄子。浅漬けになっても、この紺青がすごくキレイでさ。食べるのがもったいなかったよ」
「あ、わかる。あの色は、新潟の夏にしか会えない宝石だよね」
会話が色を重ねるごとに弾んでいく。かつては肺を焼くばかりだった熱い空気が、色を語るときだけは、不思議と喉を清々しく通る。色を意識するだけで、呼吸が深くなるような気がした。
「今日はこれ。寺泊の海に沈む夕日が角田山を影にして作る茜色」
陽葵がようやく顔を上げた。窓からの強烈な西日に射抜かれた瞳が、琥珀色に透き通っている。あまりの透明感に、浅井は呼吸を忘れるほどだった。
「いいな、それ。私も一緒に見たかったかも」
不意の一言に、浅井の心臓がうっすら跳ねた。
「ん、じゃあ、次は誘うよ。長岡の花火のときとか」
「本当? 約束だよ」
さらりと返され、浅井は顔が熱くなるのを隠すように視線をそらした。壁に並ぶキャンバスや絵具の色彩が、今はどれも、捉えようのないほど鮮やかに揺れている。
八月の終わりの夕暮れ。浅井は陽葵を学校の屋上に誘った。目の前には、見渡す限りの越後平野。収穫を待つ稲穂が西日に照らされ、世界をシャンパンゴールドに染め上げている。風が吹くたび、黄金色の海が大きく呼吸するように揺れた。
「これ、最後のひとつ。どうだ」
「すごい。黄金色の海だね」
「冬は消雪パイプの錆色と雪の白に覆われる場所だけど、今は新潟で一番、光り輝く場所だと思う」
「うん。この色、浅井くんに教えてもらうまで、こんなに特別だって気づかなかった」
陽葵が手すりによりかかり、浅井をじっと見上げた。ぬるい風が吹き抜け、細い髪が小さく躍る。夕日のせいか、別の理由によるものか、陽葵の頬は淡い珊瑚色に染まっていた。浅井は、その色を胸の奥まで吸い込もうとして、一度、深く呼吸した。
「浅井くん、色さがし楽しかった?」
「ああ、うん。自分でも驚いてる。新潟って、こんなにカラフルだったんだな」
「それは浅井くんがちゃんと世界を見ようとしたからだよ」
「世界っていうか、陽葵が教えてくれたからだよ」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも心臓が止まるかと思った。
「私ね、浅井くんがさがしてくる色、どれも優しくて大好きだった」
「それって、色だけの話?」
「さあ、どうでしょう」
陽葵はクスクス笑って、浅井の制服の袖を少しだけ掴んだ。
「来年の夏も、再来年の夏も。一緒にさがしてくれるなら、教えてあげる」
新潟の夏は短い。けど、この圧倒的な色彩の記憶と、袖を引く指先の微かな熱があれば、どんなに長いモノクロームの冬だって、乗り越えられる気がした。
「約束。絶対、来年も一緒にさがそう」
「うん。約束だよ」
黄金色の海の上を、赤とんぼが横切っていく。二人の影は、長く、ゆっくりと重なり合っていた。
◇ ◇ ◇
数ヶ月後。新潟の空は、低い雲に覆い尽くされた。消雪パイプから噴き出す水が、アスファルトを錆色に染める。降り積もる前の雪は、泥混じりのシャーベット。視界のどこを切り取っても、あの夏の暴力的な白光が嘘のような、徹底したモノクロームの世界だ。
「やっぱり、冬は灰色だな」
駅へ向かう道。浅井は首元をマフラーに埋めて呟いた。かつてなら、呪詛のような重みがこもっていたはずの言葉。けど今は、隣を歩く陽葵に少しだけ顔を向け、穏やかにそう言った。
「そうだね。でも、悪い色じゃないでしょ?」
陽葵が立ち止まり、空を仰ぐ。巻いているマフラーは、あの夏、やすらぎ堤で見つけた濃緑によく似た色をしていた。白一色の世界の中で、その緑だけが、生命のしるしのように鮮やかに浮き上がっている。
「まあね。この灰色があるから、来年の夏がまた眩しく見えるんだろ」
「正解」
陽葵は満足そうに微笑むと寒さに赤くなった手で、浅井のコートの袖を、あの日のように少しだけ掴んだ。
「楽しみだね。長岡の花火、一番いい場所で、夏にしか出会えない無二の色、さがそうね」
「うん。約束だ」
空から落ちてきた雪のかけらが、陽葵の頬の珊瑚色の上で溶けて消える。冷たい風が吹き抜け、肺の奥まで冬が染み込んでくる。けど、隣から伝わる微かな熱と、胸の奥にある色彩の記憶があれば、この長いモノクロームの季節さえ、深く、静かに呼吸していける気がした。
世界はまだ、こんなにも呼吸をしている。




