第1話 下等な人類
──そうしたら君じゃない何かになるから。
相変わらずな生活だった。
朝は勝手に来る。
僕が望もうが望むまいが、光はカーテンの隙間から侵入してくる。拒否権はない。
目覚ましは鳴る前に止めた。
正確には、鳴る未来を想像して止めた。
予測できる音ほど腹立たしいものはない。
「相変わらずだね」
声がした。
布団の中で目を閉じたまま、僕はため息をつく。
「……おはよう、衝動さん」
「挨拶できてえらい」
「小学生扱いすんな」
目を開ける。天井は昨日と同じ模様だった。世界は律儀だ。裏切らない。変わらない。
だから嫌いだ。
衝動は姿を持たない。
けれど“位置”はある。
今日は枕元だ。
「今日も学校?」
「たぶん」
「行きたくない?」
「たぶん」
「じゃあ行かなきゃいい」
「行かなきゃいけない」
「どうして?」
「そういう仕組みだから」
沈黙。
「君ってさ」
衝動が言う。
「ほんと、世界のルール守るよね」
「別に守ってない。……これといった破り方を知らないだけ」
制服に袖を通す。鏡は見ない。あれは他人を映す装置だ。僕は他人に興味がない。
「ねえ」
「なに」
「今日、壊す?」
「なにを」
「何でも」
靴下を履く手が止まる。
「……壊さない」
「どうして」
「壊したあと、片付けるのが面倒だから」
衝動が笑う気配がした。
「君って合理的だよね。破滅すら効率で測る」
「無駄が嫌いなだけ」
「じゃあ生きてるのは?」
手が止まる。
「それは無駄じゃないの?」
靴下を最後まで引き上げる。
「……知らない」
外に出る。
朝の空気は薄い。世界はまだ完全に起動していない。こういう時間だけは嫌いじゃない。
通学路にはすでに人がいる。
歩いている。笑っている。スマホを見ている。
――下等な人類。
昔の僕はそう呼んでいた。
今は呼ばない。理由は単純だ。あれは便利な言葉すぎた。使うと、思考が止まる。
「観察タイム?」
衝動が言う。
「分析」
「違いは?」
「気分」
信号待ち。
隣に立った男子高校生が、友達に言う。
「昨日さー、まじ最悪だったわ」
最悪、か。
その単語は便利だ。雑に使える。深く考えなくていい。
「ねえ」
衝動が囁く。
「君なら“最悪”をどう定義する?」
青になる。
僕は歩き出す。
「取り返しがつかないこと」
「例えば?」
「さあ」
だって、まだ何も起きていない。
教室。
席。
机。
椅子。
全部、昨日と同じ配置。
違うのは日付だけ。
「退屈?」
「別に」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「心拍数、上がってるよ?」
机に鞄を置く。
「……なんで分かる」
「分かるから」
衝動は、僕の内部にいる。
神経の裏側。思考の縁。言葉になる前の領域。
つまり。
僕より先に、僕を知る。
「おはよ」
声をかけられた。
同じクラスの女子。名前は知っている。呼んだことはない。
「おはよう」
口が勝手に返事する。
「今日さ、提出日だよ。レポートの」
止まる。
「……あ」
忘れてた。
衝動が、耳元で笑う。
「最悪だね」
女子は笑って言う。
「顔やば。大丈夫?」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんと」
嘘だ。
心臓が速い。指先が冷たい。視界が少し遠い。
「ねえ」
衝動が囁く。
「壊す?」
教室の音が遠ざかる。
笑い声。椅子の音。紙の音。全部、水の中みたいに鈍い。
「壊すなら今だよ」
視線を上げる。
教卓。窓。天井。人。
全部、壊せる。
「ねえ」
「君が本気を出したら、この教室ひっくり返せるよ」
想像する。
机を蹴る。
ガラスを割る。
叫ぶ。
――静かだ。
想像の中のほうが、現実より静かだった。
「やめとく」
「どうして?」
「面倒だから」
衝動が、少し黙った。
「……ねえ君」
「なに」
「それ、本当の理由じゃないよね」
沈黙。
チャイムが鳴る。
先生が入ってくる。
世界が再起動する。
「本当はさ」
衝動が、静かに言った。
「壊したあと、自分が残るのが怖いんでしょ」
呼吸が止まる。
黒板にチョークが走る音。
僕は答えない。
答えなくても、衝動は知っている。
だってあいつは――
僕が作ったものだから。
劣等って深爪と似てるなって。




