第6章 約束の夜
夜は、やけに静かだった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、
世界が止まっている。
荒い息を整えながら、壁にもたれる。
腕が重い。
拳が痛む。
(……逃がした)
陽菜は、もうここにはいない。
それでいい。
それが目的だった。
足音。
顔を上げる。
「……やっぱりな」
そこに立っていたのは、あの男だった。
黒いコート。
静かな気配。
「……一人か」
低い声が、夜に落ちる。
「……ああ」
男はゆっくりと近づいてくる。
「変わらないな」
また、その言葉。
胸の奥がざわつく。
「……誰だ」
沈黙。
数秒の間。
そして——
「……忘れたか?」
その声で、すべてがつながる。
(……まさか)
「……真壁」
名前を口にした瞬間、空気が変わる。
「やっとか」
わずかに、口元が歪む。
笑っているのかどうかも分からない、冷たい表情。
「……生きてたのか」
「勝手に殺すな」
短いやり取り。
だが、その裏にあるものは重い。
沈黙。
何を言えばいいのか分からない。
「……なんでだ」
先に口を開いたのは、俺だった。
「なんで、あいつを狙う」
真壁は、しばらく黙っていた。
やがて——
「……あの通報」
低く、吐き捨てるように言う。
「全部、壊れた」
あの日のこと。
組織が崩れた理由。
「……通報したやつの娘だ」
それだけで、十分だった。
「……関係ねえだろ」
思わず言い返す。
「関係ある」
即答。
「終わってねえんだよ」
その言葉に、何も言えなくなる。
真壁は、一歩近づく。
「お前は逃げた」
胸に刺さる言葉。
「俺は残った」
分かっている。
「それでも、何も言わなかった」
分かっている。
「なのに——」
一瞬の間。
「……裏切られた」
その一言が、すべてだった。
何も返せない。
言葉が、出てこない。
「……だから壊す」
静かに言う。
「全部」
その視線が、陽菜のいない方向を向く。
「……やめろ」
気づけば言っていた。
「関係ないやつだ」
「関係ある」
また、即答。
「お前が関わった時点でな」
沈黙。
逃げ場はない。
過去は消えない。
「……なあ」
ふいに、言葉がこぼれる。
「……どうすればよかった」
自分でも分からない質問。
だが——
真壁は答えなかった。
ただ、静かに構える。
「……もう遅い」
その一言で、すべてが終わる。
空気が張り詰める。
戦いになる。
そう分かる。
拳を握る。
だが——
動けなかった。
そのとき。
「……やめて」
小さな声。
振り返る。
そこに、陽菜が立っていた。
「……なんで戻ってきた」
思わず言う。
「……一人じゃ……」
言葉が続かない。
ただ、震えながらも立っている。
真壁の視線が、陽菜に向く。
一歩、踏み出す。
「……来るな」
思わず前に出る。
その瞬間——
「……もう、やめて」
陽菜の声が、夜に響いた。
「もう、誰も傷つけないで」
静かで、弱い声。
でも——
確かに届いた。
胸の奥に。
強く。
拳が、ゆっくりとほどける。
呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
(……また、同じことをするのか)
殴って、倒して、終わらせる。
それで、本当に終わるのか。
答えは、分かっている。
「……約束する」
気づけば、口にしていた。
「もう、誰も傷つけない」
真壁の目が、わずかに揺れる。
「……は?」
信じられない、という顔。
「……戦わねえ」
「ふざけてんのか」
怒りが滲む。
当然だ。
「……それでも」
一歩、前に出る。
「終わらせる」
拳は握らない。
逃げもしない。
ただ、立つ。
沈黙。
夜が、止まる。
真壁は、しばらく何も言わなかった。
やがて——
「……変わったな」
小さく、呟く。
その声には、わずかな感情が混じっていた。
だが——
「……気に入らねえ」
空気が、再び張り詰める。
「それで終わると思うなよ」
低く言い残し、真壁は後ろに下がる。
闇の中へ、消えていく。
静寂。
完全に、静かになる。
その場に残されたのは——
俺と、陽菜だけだった。
「……戻ってくんな」
小さく言う。
「……ごめんなさい」
陽菜は、俯く。
「……でも」
顔を上げる。
「約束、聞こえました」
その言葉に、何も返せなかった。
ただ——
胸の奥に、何かが残る。
重くて、でも——
少しだけ、あたたかいもの。
「……帰るぞ」
短く言う。
陽菜は、静かにうなずいた。
二人で歩き出す。
夜は、変わらず静かだ。
だが——
もう、同じ夜ではなかった。




