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プロローグ
夜は、嫌いじゃない。
何もかも隠してくれるからだ。
名前も、過去も、やってきたことも。
全部、なかったことみたいにしてくれる。
だから俺は、夜の中を歩く。
音のない街。
遠くで鳴るサイレン。
濡れたアスファルトに映る、歪んだ街灯。
それが、俺の世界だった。
昔から、うまく生きられなかった。
正しいとか、間違ってるとか、
そういうのはよく分からなかった。
ただ——
殴れば終わる。
黙らせれば解決する。
それだけは、はっきりしていた。
あの日も、そうだった。
背後で聞こえたのは、低い笑い声と、
小さな、押し殺したような声。
振り返るまでもない。
どうせろくでもないことだ。
関わらない方がいい。
そんなこと、分かってる。
分かってるのに——
足は止まっていた。
「……やめてください」
か細い声だった。
夜に溶けてしまいそうなほど、小さくて、弱い声。
なのに、なぜか耳に残った。
消えないまま、ずっと。
気づいたら、俺は歩き出していた。
理由なんてない。
ただ——
その声を、無視できなかった。
その一歩が、全部を変えるなんて、
そのときの俺は、まだ知らなかった。
それが、あの夜の始まりだった。
そして——
逃げ続けてきた俺が、
初めて“止まる”ことになる夜でもあった。




