第9話 伝説のロックギタリストが愛したジーンズ(継承される鼓動)
独立して4年目の頃。染屋の工房には、時折、単なる衣類の域を超えた「聖遺物」が運び込まれる。
その日、工房を訪れたのは、海外アーティストの日本公演を長年支えてきた伝説的マネージャー、上野だった。
「……染屋さん、これを見てほしい。昨夜、ロンドンから届いたばかりだ」
上野がテーブルに置いたのは、
フルカウントの「1101」
90年代、日本の職人がジンバブエコットンで作り上げた「究極の日常着」だ。だが、目の前の一本は、日常とは程遠い、凄まじい「戦歴」を湛えていた。
「これは……凄まじいな。1101がここまでボロボロになっているのは初めて見ました」
「ああ。ある男が、数年前の日本ツアーでこいつの『柔らかさ』に惚れ込んでね。予備も含めて五本持ち帰って以来、ステージの上はもちろん、レコーディングスタジオから自宅のソファに至るまで、文字通り24時間、こいつと過ごしてきたんだ。 彼は言ったよ。『こいつは俺の指先と同じくらい自由だ』ってね」
染屋は慎重にその生地を光にかざした。糸は痩せ細り、向こう側が透けて見える。
「……上野さん。俺が本気で手を入れれば、まだ履けますよ。直して、また彼に届けることもできる。彼は後悔しないんですか?」
すると、上野は静かに首を振って、そのレジェンドが最後に放った言葉を口にした。
「彼はこう言ったんだ。『俺は相棒を失うんじゃない。次の世代を見守ってほしいんだ。それに、アイツはいつも俺のここ(心の中)にいる』とな。……彼は、自分がこの生地に刻んだ熱量を、次の世代へ投資したいんだよ」
染屋は息を呑んだ。
世界を熱狂させたレジェンドが、自分の愛した戦友を、名もなき若者へ託す。その「粋」な計らいと、目に見えるモノを超えた絆の深さに、職人としての魂が震えた。
「……わかりました。ただ直すんじゃない。次の主が、新しい歴史を刻めるように仕立て直します」
染屋が1101に指を触れると、前の持ち主の記憶が鮮明に流れ込んできた。
スタジアムを揺らす地鳴りのような歓声。ステージの床に膝をつき、魂を削るようなソロを弾く熱狂。そして、一人静かにギターを抱き、孤独を蒼い旋律に変えていく夜。
(……聞こえる。あんたの戦いは、まだ終わっちゃいないんだな)
──数週間後。
染屋は、あるレコーディングスタジオを訪れた。
待ち合わせたのは、かつて将来を嘱望されながらも、病によって表舞台を退き、今は裏方として一線級のアーティストへ楽曲を提供するコンポーザー、伊原だった。
染屋は、魂を込めてリペアを施した1101を差し出した。
「これを、俺に……?」
伊原がそのデニムに触れた瞬間、肩が微かに跳ねた。1101の繊維に宿る、あの伝説のリフの残響と、老兵の不敵な笑い。
かつて同じ場所を目指し、挫折した伊原だからこそ、その布が発する「意志」を誰よりも鮮明に聞き取ることができた。
「あんたなら、この生地が持つ『運』を使いこなせるはずだ。金は、いつかあんたがこのジーンズの持ち主を嫉妬させるような、最高の曲を書いたときに払えばいい」
伊原は震える手で、そのデニムを抱きしめた。
伝説のギタリストが愛した1101。その中に宿っていた「止まらない意志」が、染屋という媒介人の手を経て、新しい時代の「音」を創る者へと受け継がれた。
防音扉の向こうから、新しい旋律の胎動が聞こえてくる。
自身のブランド『Pure Blue』の製作に戻った染屋の指先は、以前よりもずっと、深く研ぎ澄まされていた。




