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第8話 美しい死か、泥臭い生か ─デッドストックは死んでいる─

 これはまだ染屋がアパレル会社にいた頃の話だ。

 その夜、ある居酒屋で染屋はある男と会っていた。

 彼の名前は倉敷。

 染屋と同じアパレル業界で働く人間だ。

 彼は業界の中でもそのバイヤーとしての実力はトップクラスだった。

 二人は、互いの会社こそ違えど、若き日からデニムという魔物に魅せられた同志であり、同時に鏡合わせの宿敵でもあった。倉敷は挨拶もそこそこに、抱えていた堅牢なアルミケースをカテーブルの上へ置いた。


「久しぶりだな、染屋。今日はお前に見せたいものがあるんだ」


 倉敷は唐突にそう言い、倉敷はケースのロックを弾いた。慎重な手つきで取り出されたのは、厚手のパラフィン紙に包まれた一本のジーンズだった。


「これを見ろ。ネバダの砂漠、放棄された炭鉱近くの倉庫で、奇跡的に発見された50年代のリーバイス501XX。正真正銘、一度も水を通っていないデッドストックだ」


 染屋の眼光が鋭くなる。倉敷が広げたそのデニムは、70年の時を超えてなお、暴力的なまでに硬い糊の輝きを放っていた。インディゴの青はどこまでも深く、毛羽立った生地はまるで今朝織り上がったばかりのような鮮度を保っている。


 倉敷が挑発するように囁いた。


「どうだ、染屋。お前がいくらレプリカの完成度を高め理想の青を追い求めたところで、この『完璧な過去』の前では、お前の作るものなどただの紛い物だ。これを超えられるか?」

 

 昔から口は悪いが、本質を最短で投げてくる。私は彼のこういうところが好きだった。

 染屋は無言で、そのデニムへ指先を伸ばした。

 触れた瞬間、染屋の脳内には閃光のようなアイディアが溢れ出した。このピッチ、この糸の撚り、このリベットの重厚感……最高のものに触れた時、やはり私もジーンズに魅了された1人なのか本能が「超えたい」という渇望となって暴れ出す。

 だが、その奔流のようなアイディアの影で、染屋の胸には説明のつかない違和感が澱のように溜まっていった。

 

(ただ、何かが足りない。圧倒的に、なにか一つ足りないんだ……)


 それは経験の不足なのか、あるいは発想の欠如なのか。今の染屋にはその正体が掴めなかった。ただ、目の前にある完璧な「XX」からは、歴史の重みは感じても、生きている人間の「体温」が一切伝わってこない。

 七十年間、誰の脚も通さず、誰の喜びも、誰の苦悩も吸い込まずに眠り続けてきた布。それは、かつてゴールドラッシュの鉱山で男たちが履いていたあの「鎧」とは決定的に違っていた。あの日ネバダで触れた茶褐色のキャンバス地には、夢に敗れた男たちの汗と安酒の匂いが、確かに「魂」となって宿っていたのだ。

 染屋はゆっくりと指を離し、倉敷を真っ直ぐに見据えた。


「……悲しいな、こいつは。一度も、生きたことがないんだ」

「何だと?」倉敷の眉が不快げに跳ね上がる。

「倉敷、確かにお前が持ってきたのは芸術品だ。だが、どんなに高価で、どんなに歴史的な価値があろうと、誰にも履かれなかった服には魂が宿らない。ただの『保存された死体』だ」


 染屋の声は、低く、だがどこか確信を得ているかのようだった。


「命を吹き込むのは、作り手じゃない。そいつを履いて、泥にまみれ、汗を流して生きていく人間なんだ。そいつが笑ったり、転んだりするたびに、布は初めて『服』になる」


 倉敷は冷笑し、乱暴にデッドストックをケースに仕舞い込んだ。


「相変わらずの理想論だ。だが、その理想で俺の持ってきた『現実』に勝てる日が来るとは思えんがな」


 倉敷が去った後、染屋は独り、居酒屋で酒を煽った。

 彼の脳裏には、先ほどのデッドストックの青と、あのネバダの砂土の色が混ざり合い、新しい「青」の輪郭を描き始めていた。

 履く人間が主役となる、未完成の青。

 その時、染屋は、まだ知らなかった。

 この夜に吐き捨てた倉敷への反論が、後に世界を震撼させることになる自身のブランド『Pure Blue』の、不変のコンセプトになることを。



 数年後、染屋は組織の看板を捨て、独立という道を選んだ。

 手元には14オンスの無骨な生地。

 かつて居酒屋で酒と共に飲み込んだあの夜の誓いが、今、一本の針となって動き出す。

 完璧な過去を超えるために必要なのは、未来を生きる人間のための「空白」を縫い込むこと。その答えに、彼は一歩ずつ近づき始めていた。


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