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第6話 青い翼(継承されるWrangler 11MWW)

1. 異国の海を越えた青

 染屋吉之の前に現れたのは、淡い琥珀色の瞳を持つ、混血の若い女性だった。

 彼女が差し出したのは、年季の入った、しかし驚くほど頑丈な骨格を感じさせる一本のジーンズだ。


「これは、オーストラリアに住んでいた祖母が、若い頃に履き潰したものです。母が日本へ嫁ぐときに持たされ、そして今、私の手元にあります」


 染屋がその生地に触れた瞬間、指先に伝わってきたのは、日本の湿度とは無縁の、乾いた大地の熱気だった。


 そこには、ロープを象った『Wrangler』のロゴが刻印されている。しかし、彼が注目したのはその装飾性ではない。


Wrangler 11MWW。


「……さすがは、ロデオ・ベンだ」


 染屋は独り言のように呟いた。

 この一本を設計した伝説のデザイナー、ロデオ・ベン。彼は、カウボーイやライダーたちが直面する過酷な現実を、すべてデザインで解決してみせた。

 例えば、この平らな形状のリベット。リーバイスのような突き出したリベットは、乗馬の際に大切なサドル(鞍)を傷つけてしまう。ベンはそれを防ぐために、あえて滑らかで平坦なリベットを採用したのだ。

 さらに染屋は、時計ポケット(コインポケット)の位置に目をやった。

 通常のジーンズよりもかなり高い位置、ウエストバンドのすぐ下に配置されている。これもまた、馬に跨って前傾姿勢になった際、腹部にポケットの縁が食い込まないための、徹底したライダー目線の設計だ。


「祖母は言っていました。このズボンは、馬の上で踊るために作られたんだって」


 女性の言葉に、染屋は深く頷いた。

 

 そして、染屋が最も感嘆したのは、バックポケットの**『サイレントW』**のステッチだった。

 二本のステッチが重なり合って描く「W」。それはただの飾りではない。ポケットの内側に当てられた補強布を固定するための、機能的な必然から生まれた造形だ。

(1950年代、オーストラリアの牧場で馬を駆っていた彼女にとって、この『11MWW』は単なるファッションではなかったはずだ。それは、ロデオ・ベンという一人の天才が、馬と共に生きる者のために捧げた、緻密な計算の上に成り立つ『動ける鎧』だったんだ)

 染屋は、その洗練されたデザインに、祖母の「誰にも手綱を渡さない」という野生の精神が共鳴しているのを感じた。



 ブルーベル社が生み出した、世界初の女性用本格ライダース・ジーンズ。サドルを傷つけないための平らなリベット、乗馬時に邪魔にならない高い位置のコインポケット。そして何より、馬の激しい動きにも耐えうる、ねじれのない**「ブロークンデニム」**。

 染屋がその無骨なバックポケット――「W」のステッチが刻まれた革パッチに触れると、視界は一気に南半球の眩い光の中へと吸い込まれた。




2. アウトバックの風(1950年代・オーストラリア)

 地平線まで続く、赤茶けた大地。

 そこに、荒れ馬を鮮やかに乗りこなす、一人の少女がいた。依頼人の祖母だ。

 彼女は当時、地元の牧場でカウガールとして働いていた。男たちに混じり、砂埃を舞い上げ、家畜を追う。その脚を包んでいたのが、卸したてのラングラーだった。


「このデニムパンツだけは、私を裏切らない。サドルに跨がっても、どんなに激しく駆けてもね」


 彼女にとってのジーンズは、単なる衣類ではなかった。それは、広大なアウトバックで一人、自由を謳歌するための「翼」だった。

 内腿の擦れ、サドルとの摩擦。過酷な乗馬環境は、インディゴを極限まで削り落とし、代わりに銀色の光沢のような「縦落ち」を与えていた。

 染屋は、彼女が夕暮れの放牧地で、馬の首筋を撫でながら空を見上げた瞬間の、凛とした誇りを感じ取った。彼女は、自らの腕一本で、その広大な大地を自分の居場所にしたのだ。




3. 海を渡る決意(1980年代・日本への旅)

 次に染屋の指が触れたのは、ウエストの内側に手書きで記された、小さな名前だった。

 時代は下り、1980年代。場所は空港のロビー。

 祖母は、日本へと旅立つ娘(依頼人の母)の荷物の中に、自分が履き込んだあのラングラーをそっと忍ばせた。


「日本へ行っても、あなたは自由でいなさい。このデニムが、あなたの足元を強く支えてくれるから」


 オーストラリアから日本へ。言葉も文化も違う異国へ飛び込む娘に、祖母は自分の「強さの象徴」を託したのだ。

 母は日本での慣れない生活の中、折れそうになるたびに、箪笥の奥に眠るこの硬いデニムに触れた。それは、海の向こうで馬を駆っていた母の、決して屈しない精神と繋がるためのアンカー(錨)だった。




4. 現代へのフィッティング

 染屋はゆっくりと目を開けた。


「……素晴らしい歴史ですね。オーストラリアの大地を駆けた記憶が、まだこの繊維の中に息づいています」


 依頼人の女性は、少し驚いたように、そして誇らしげに微笑んだ。


「祖母はいつも言っていました。馬に乗るのと同じように、自分の人生の馬綱(手綱)は、決して誰にも渡すな、と」


 染屋は、その言葉を修理の指針にした。

 乗馬で擦り切れた内腿のラインを補強しつつ、現代の街を歩く彼女の細い体躯に合わせて、無骨すぎるシルエットを微調整していく。

 ラングラー特有の重厚なベルトループに針を通すたび、染屋の耳には馬の嘶きと、乾いた風の音が聞こえてくるようだった。

 単なる古着の修理ではない。

 これは、オーストラリアの牧場で生まれた「自由の意志」を、現代の日本を生きる彼女の足元へ、正しく橋渡しをする作業だ。

5. 新しい手綱

 数日後。完成したラングラーに足を通した彼女は、工房の鏡の前で、かつての祖母と同じように自分の太腿をパン、と叩いた。


「不思議です。これを履くと、どこへでも歩いていけるような気がします。まるで、背中に翼が生えたみたいに」


 彼女が店を出ていく後ろ姿。

 現代の東京、アスファルトの街角。それでも彼女の足取りは、まるで広大な荒野を駆けるカウガールのように力強く、自由だった。

 バックポケットの「W」が、新しい時代の手綱たづなを握る彼女の意志を象徴するように、夕日に照らされて浮かび上がった。

 染屋はそれを見送りながら、深く息を吐いた。

 インディゴという染料が、これほどまでに長く、そして遠い距離を越えて人の心を繋ぐ。

 

「……いい仕事だった」


 彼は静かに工房の明かりを落とした。だがその胸の奥には、オーストラリアの太陽のような、熱い残像がいつまでも消えずに残っていた。


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