表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/11

第5話 放浪するインディゴ(Lee101 Rider)

1. 堆積する青

 染屋吉之の指先がそのジーンズに触れた瞬間、いつもとは違う異様な「ノイズ」が走った。

 それは、特定の誰かの鮮明な映像というよりは、幾重にも重なり合った声が混ざり合い、地層の奥底から唸りを上げているような……重厚な合唱コーラスだった。

 手元にあるのは、あのジェームス・ディーンも愛用していた名品、『Lee 101 Riders』。

 

 左綾デニム特有の、流れるような綾目が美しい一本だが、それはもはや、オリジナルの姿を留めていなかった。布地は極限まで痩せ細り、インディゴは遠い記憶の彼方へ消え去っている。代わりにそこにあるのは、幾度も上書きされた色彩と、執念に近い不格好な補修の跡だった。

 だが、染屋の目は、その無惨な変貌の奥に隠された「血統」を見逃さなかった。

 バックヨークをめくり、内側を覗き込む。そこには、褪色しながらも誇らしげに居座る**「センター赤タグ」があった。ロゴの「e」の文字がわずかに右斜め上へと傾いている――通称「斜めe」**。1950年代初期から中期にかけて製造された、伝説的な個体の証だ。


「……101Zジッパーフライか。それも、このタグ……」


 染屋は独り言のように呟いた。

 この仕様は、かつてジェームス・ディーンが映画『理由なき反抗』で着用し、ジーンズを「労働着」から「若者の反逆の象徴」へと変えた、あの歴史的一本と寸分違わぬ年代のものだった。かつては世界中の若者が血眼になって探し、眩いスポットライトの下で憧れの対象となった「聖杯」のひとつ。

 それが今、染屋の手元にある。

 本来なら、ヴィンテージショップのショーケースの中で、数十万円のプライスタグと共に鎮座していてもおかしくない代物。それが、どういうわけか歴史の濁流に呑み込まれ、ある時は古着屋のワゴンで叩き売られ、ある時は美大生のパレット代わりになり、最後は鳶職人の汗を吸うまで使い倒された。


「……お前、ジェームス・ディーンに憧れた誰かの手から離れて、一体どれほどの天国と地獄を見てきたんだ」


 染屋は、もはや判別不能なほどに擦り切れたパッチの残骸を撫でた。

 伝説のスターが愛したモデルであっても、デニムという布地は持ち主を選ばない。ただそこに在り、履く者の人生を、その凄まじい耐久性とインディゴの粒子で記録し続けるだけだ。


(……これは、リレーされてきたんだ。何人もの人生が、この一本を通り抜けていった)


 デニムは、まだ何も刻まれていない新品の状態では、染屋の能力に反応しない。だが、この一本には、逃げ場を失った過去の思念が、年輪のように積み重なっていた。



2. 第一の層:出発(1950年代末・青い野心)

 染屋の指が、右腿の僅かに残る「ヒゲ」の根源に触れた。

 視界が弾ける。

 最初に現れたのは、1950年代末、戦後の喧騒がようやく落ち着きを見せ始めた頃の東京だ。

 そこに、リーゼントを整え、少し背伸びをした二十歳そこそこの青年がいた。彼は米軍基地周辺のいわゆる「闇市」から発展したばかりの輸入衣料店で、給料の半分以上を叩き、この『Lee 101Z』を手に入れた。



「映画館の看板に描かれた彼の顔は、火のように熱かった。大人たちは『不純だ』『不良の服だ』と眉をひそめたが、俺たちにとっては、あの青いズボンこそが自由への制服だったんだ」


「……これだ。ジェームス・ディーンと同じ、『斜めe』の赤タグだ」

 彼は震える手でその硬い生地を撫でた。当時、日本においてジーンズはまだ「得体の知れない異国の作業着」でしかなかったが、彼にとっては自由と反逆への切符だった。

 若者が抱いた根拠のない全能感。彼はその左綾デニムを「第二の皮膚」と呼び、将来の夢を語り合いながら、夜の街をバイクで疾走する。深夜の公園、恋人との別れ、そして何者かになろうともがいた季節。

 若さゆえの瑞々しい汗と、水平線の向こう側にあるアメリカへの憧憬が、最初の記憶として繊維の奥深くに沈着していった。それは、まだ何者でもなかった男の、青い野心の記録だった。




3. 第二の層:挫折(1980年代末・静かな幕引き)

 次に染屋が触れたのは、不自然なほど丁寧に整えられた「裾」のステッチだった。

 場面は一転し、1980年代末。バブルの狂騒に沸く街の片隅、薄暗いアパートの一室。

 持ち主は、五十歳を目前にした、疲れ切った顔の男に代わっていた。かつてのあの青年だ。

 夢を追い続け、結局は時代の波に乗り切れず、生活のためにすべてを清算しようとする男。彼は、三十年近く連れ添い、もはや白茶けてボロボロになった『Lee 101Z』を膝に置き、静かに針を通していた。

(……もう、これを履いて夢を見る時間は終わったんだ)

 男は、擦り切れた裾を丁寧に、しかしひどく哀しげに縫い直した。それは「かつての自分」を葬るための、静かな儀式だった。

 男がジーンズを古着屋のカウンターに置いたとき、デニムの奥底には、諦めと、それでも捨てきれない微かな自負が、重く湿った沈殿物のように蓄積された。染屋の指先に、その男の「静かな絶望」が冷たく、しかし確かに伝わってくる。




4. 第三の層:再生(2000年代・上書きされた藍)

 三層目の記憶は、鼻を突く化学薬品と藍の香りと共にやってきた。

 時は移り、2000年代。持ち主は、一人の美大生だ。彼は下北沢の古着屋の片隅で、無惨に汚れ、捨て値で売られていたこの「幽霊のような一本」を見つけた。


「ヴィンテージの価値なんて関係ない。俺の感性で、こいつを生き返らせるんだ」


 彼は自宅のキッチンで大鍋を火にかけ、染料を煮立たせると、半世紀分の垢が染み込んだその生地を放り込んだ。

 熱気が、過去の二人の記憶を溶かし、混ざり合わせる。

 学生がキャンバスを運び、自転車を漕ぐたび、新しく染められた「藍」が痩せ細った生地を補強し、新しい物語を書き込んでいく。

 中年男の挫折の沈黙を、若々しい創造のエネルギーが力強く上書きしていく。デニムは再び、誰かの「表現」として息を吹き返した。




5. 第四の層:全う(現在・多摩川の夕景)

 そして、最後に重なった記憶。

 それは、重油の匂いと、鉄が擦れる重い音。

 持ち主は、引退を目前に控えた、実直な鳶職の男だった。

 彼は、古着屋のワゴンで見つけたその「ボロボロだが、不思議な凄みを持つ藍色の一本」を、自らの最後の現場着として選んだ。

 2020年代、多摩川沿いの再開発現場。冬の凍てつく風が吹き荒れる高所。

 男は、何十年もこの過酷な仕事を続けてきた職人としての自負を、その限界を超えて使い込まれたジーンズに託していた。

 溶接の火花が飛び、膝に新しい穴があく。コンクリートの粉が、かつての藍色の奥深くまで入り込み、化石のようにこびりつく。

(……ああ、こいつは今、最高に誇り高く、その命を使い切ろうとしているんだな)

 染屋は、ビジョンの中で男が最後の現場仕事を終え、夕日をバックに腰を下ろして煙草を吸う姿を見た。

 ジーンズはもはや、若者の反逆でも、挫折の象徴でもない。

 七十年という歳月を経て、過酷な労働を終えた男の身体を、静かに、そして最強の「鎧」として包み込む。

 その命を全うしようとする、峻烈な達成感。それがこの一本に刻まれた、最後の、そして最も重い層だった。




6. 人生の多層構造

 染屋は手を離し、カウンターに置かれた「その一本」をまじまじと見つめた。

 それは1950年代末に自由を夢見て旅立ち、80年代の挫折の中で縫い直され、2000年代に学生の感性で染め直され、最後は現代の職人の誇りと共に使い潰された。

 

 誰一人欠けても、この「深み」は生まれなかった。

 青年の野心があったから、男は挫折を惜しみ、三十年も手放さなかった。

 男の丁寧な手入れがあったから、半世紀を経てなお、学生はそれを手に取ることができた。

 学生が染め直したから、強度が戻り、職人の過酷な現場に耐え抜くことができた。

 ジーンズ以外の服――例えばウールのスラックスや、薄いコットンのシャツであれば、これほど多層的な人生の重みには耐えられない。途中で破れ、あるいは「不潔なゴミ」として数十年前に処分されていたはずだ。

 だが、デニムだけは違う。

 ボロボロになるほどに「人生の厚み」となり、汚れさえも「地層」として許容される。だからこそ、バトンのように持ち主を変え、七十年という時空を旅し続けることができる。


「お前も、よく歩いてきたな。……これだけの人生を背負って、ようやく俺のところへ戻ってきたのか」


 染屋は、その『Lee 101Z』の最も弱った部分に、かつてないほど繊細なステッチを施した。

 それは、特定の誰かのためではない。この一本を通り過ぎていった、名もなき四人の男たちの「生」を肯定し、その重なりを一つの「芸術」として保存するために。

 鉄紺の海。その波間に漂う一本のジーンズが、数多の記憶を宿したまま、染屋の工房で静かに眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ