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第3話 ジンバブエコットン

1. 効率の影

 この仕事を始めて数年経ったある日のことだ。

 小田急線の線路を走る電車の音が、雨上がりの湿った空気に反響している。

 麻生区の工房『Pure Blue』の扉を開けて入ってきたのは、ジーンズにGジャンとガジュマルに身を包んだ男だった。


「……ご無沙汰しています、染屋部長。いえ、今は染屋オーナーですね」


 苦笑いを浮かべて立っていたのは、児島誠。染屋の会社員時代の直属の部下であり、共に『STAY BLUE』の黄金期を支えた男だ。現在、彼は古巣のアパレルメーカーで企画ディレクターの地位に就いている。


「児島か。どうした? また厄介な相談でも持ってきたか?」


 染屋はミシンから目を離さずに応えた。


「相変わらず手厳しい。……実は今日、相談がありまして」


 児島がカウンターに置いたのは、一台のサンプルジーンズだった。一見すると、かつての『Lot.1003xx』を思わせるクラシックな顔立ちだが、染屋の目は誤魔化せない。それは効率を最優先し、コストを極限まで削ぎ落とした「使い捨てのレプリカ」だった。


「今、会社では『原点回帰』をテーマにした復刻プロジェクトが進んでいます。でも、何かが足りない。数字は出ているんですが、客の心に刺さる熱量がないんです。染屋さんの力を貸してほしい」


 児島の言葉は丁寧だったが、その瞳には数字とノルマに追われる疲弊の色が滲んでいた。彼は今、アジアの巨大工場で一日に数千本、数万本とラインに流れる、顔の見えないデニムを売っている。かつての情熱は、効率という名の歯車に飲み込まれようとしていた。



2. 禁断の試作品プロトタイプ

「力は貸せない。だが、お前が持ってきたその『抜け殻』ではなく、別のものを見てみよう」


 染屋は児島の手元にある、彼が持参した仕事鞄に目をやった。


「その鞄の奥に、ずっと入れたままのやつがあるだろう。……さっきから、こっちに呼びかけてきているんだ」


 児島は息を呑んだ。動揺を隠せない手で、鞄の底から一本の、かなり色褪せたジーンズを取り出す。それは二十年以上前、彼らがジンバブエコットンの採用を決める直前に作った、世界に数本しかない初期プロトタイプだった。


「これを持ってくるとは、お前もまだ完全に『死んで』はいないようだな」


 染屋はその生地に、ゆっくりと手を伸ばした。



3. 白い抱擁

 指先がジンバブエコットンの、不純物のない繊維に触れた瞬間――。

 視界がホワイトアウトし、染屋は二十数年前の「あの夜」に引き戻された。

 場所は、本社の開発室。時刻は午前三時。

 テーブルの上には、世界中から集められた数十種類の綿花と、それらを織り上げたスワッチ(布見本)が散乱していた。若き日の染屋と、まだ入社三年目だった熱い目の児島が、一睡もせずに議論を戦わせている。

「部長、これを見てください。ジンバブエの超長綿です。手摘みだから繊維が一本も傷ついていない」

 若き児島が、震える手で一本の白い糸を染屋に差し出した。


「コストは今の三倍かかります。役員会は間違いなく首を縦に振らない。でも、この糸で織れば、ジーンズは『武器』ではなく『抱擁』になるんです。履く人を傷つけない、一生寄り添える最高の服になる!」


 染屋は、その糸を指で捩った時の感触を、現在の指先を通じて鮮烈に思い出す。

 それは、ただの植物の繊維ではなかった。

 二人の若者が抱いていた「世界で一番心地よい服を作りたい」という純粋な祈り。予算や効率、会社の利益といった雑音をすべて排除し、ただ一つの「理想」だけを見つめていたあの頃の、純白な情熱が糸の中に結晶化していた。

 ビジョンの中で、児島が叫ぶ。


「僕が説得します! これが通らないなら、僕は会社を辞めてもいい」


 その直後、二人が初めて完成したプロトタイプを履き、その吸い付くようなフィット感に言葉を失い、顔を見合わせて笑い合った瞬間の、熱い鼓動が染屋の掌に伝わってきた。



4. 縦落ちの行方

「……染屋部長?」

 児島の声で、ビジョンは静かに消え、工房の空気が戻ってきた。

 児島は呆然として染屋を見つめている。


「このプロトタイプには、お前の『声』が詰まっている。ジンバブエコットンの長い繊維は、持ち主の想いを逃さず閉じ込めるんだ。……今の自分に、この頃の自分と同じ顔でこれに触れることができるか?」

 染屋は、プロトタイプの美しい縦落ちを指でなぞった。


「ビジネスで数字を出すのは一番大事なこと。でも数字ばかりを気にして肝心の製品のレベルを下げてしまったら元も子もない。利益も出す。でも良い物を世に出す。予算があるから100点は難しいかもしれないが、努力する価値はあると思うな。」


 児島は、手にしていたデニムを見下ろしたまま動かなかった。

――そうか。

 その一言が、胸の奥ではなく、頭の中で静かに鳴った。

 原点回帰と言いながら、俺は余計なことばかり考えていた。

 もっとシンプルでいいのかもしれない。

 そうすれば、予算内でも及第点以上のものは作れる。


「……僕は、何を忘れていたんでしょうか。原点回帰だなんて言いながら、結局は過去の成功を安売りする算段ばかり考えていた」


 児島は震える手で、そのプロトタイプを抱きしめた。その瞬間、彼の指先からも、かつての自分が放った熱い記憶が微かに流れ込んだのかもしれない。彼の表情から、ディレクターという「仮面」が剥がれ落ち、一人の「服好きの男」の顔が戻っていた。


「染屋部長。……プロジェクト、一からやり直します。生産工程から全てを見直します。」


 児島は深々と頭を下げ、かつての相棒を鞄にしまい、工房を去って行った。その背中は、来た時よりも少しだけ、軽やかになっていた。




5. 静かな夜

 一人になった工房で、染屋は再びミシンを動かし始めた。

 ジンバブエコットンの柔らかさは、作り手の心までをも優しく変えてしまう。だが、デニムが記憶するのは温かな光ばかりではない。

 染屋の視線が、工房の奥にある、分厚い帆布キャンバスで覆われた「それ」に向いた。

 次に向き合うべきは、誰にも語ることが許されなかった、冷たくて暗い歴史の断片。

 鉄紺の深淵に、さらなる深い闇が口を開けて待っていた。


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