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第2話 あるジーンズに刻まれた老人の記憶

1. 凋落の残響

 その男が店に現れたのは、夕闇に包まれ始めた頃だった。

 深く被ったハンチング帽の下から覗く顔には、深い皺が幾筋も刻まれている。使い古されたツイードのジャケットに、かつての長身を少し丸めたその姿は、一見すればどこにでもいる隠居後の老紳士だった。

 だが、男がカウンターに置いた紙袋から立ち昇る「匂い」が、染屋の鼻腔を鋭く突いた。

 使い込まれた潤滑油、古い書類の埃、そして、わずかに混じる潮風の香り。


「……これを、直してほしいんだ。もう一度、履けるように」


 掠れた、しかしどこか芯のある声だった。

 男が取り出したのは、一本のデニムパンツ。それはもはや、服と呼ぶにはあまりに無惨な姿をしていた。

 ももは激しく擦り切れ、膝には力任せに縫い合わされたツギハギの山。裾は踏み荒らされてボロボロになり、全体が幾度もの洗濯と発汗によって、不自然なまでに白茶けている。

 だが、染屋はそのディテールに息を呑んだ。

 月桂樹が刻印されたドーナツボタン。リベットの省略。バックポケットのアーキュエイトステッチは糸ではなく、ペンキで描かれている。

 それは、第二次世界大戦中、アメリカ国内でも物資が制限されていた時期に製造されたリーバイス501。通称「大戦モデル(S501XX)」だった。

 しかも、それは後年のレプリカではない。当時の空気を吸い、本物の時間を経た「本物」が放つ、荒々しくも神々しいオーラを纏っていた。


「……これは、大戦モデルですね? しかも本物」


 染屋は老人に問いかけた。


「ええ、そう呼ばれているようですね」

「これは当時の日本では買えない代物です。もしかして、進駐軍の誰かから譲り受けた物ですか?」


 老人は、ゆっくりと、しかし滔々と語りだした。

 終戦直後、彼は米軍付きの通訳として働いていた。

 GHQの占領下、日本の行政組織が進駐軍の指示を仰いでいた時代、彼は警察署や役所に出入りし、米軍から回ってくる通達や書類を日本語に訳す、緊迫した日々を過ごしていた。

 横浜の港湾関係の書類を扱う仕事が続いた頃、ある下士官の米兵と顔なじみになったという。

 

「サイズが合わない。アメリカに帰ったら、どうせ別のを買う」


 ある日、その米兵が彼に差し出したのが、このリーバイスだった。

 当時の彼にとって、それが希少な戦時モデルだという知識はなかった。ウエストサイズが最適で、妙に生地が厚く、作りが粗いズボンだという印象だけを抱き、それ以来、彼はこの一本を戦後の混乱期から現在に至るまで、文字通り「皮膚」として履き続けてきたのだ。

 染屋はそれを聞いて納得した。

 震える指先で、コインポケットの縁をなぞる。そこだけが、まるで彫刻刀で削り取られたかのように、異様なほど激しく摩耗していた。


「……お客さん。あんた、これを戦後からずっと履いていたのか?」


 男は笑い、ただ一言、「履き心地が良くてね。気が付いたらボロボロさ」とだけ答えた。

 老人の名は、山城といった。

 彼はGHQが去った後、その語学力と交渉力を買われ、当時まだ産声を上げたばかりの総合商社へとスカウトされた。1950年代後半、日本が高度経済成長の入り口に立っていた頃だ。

 山城は、日本の繊維製品や機械部品を海外へ売り出す「海外営業」の先駆けとして、東南アジアから北米まで、文字通り世界を股に掛けて飛び回った。

 当時は今のような新卒至上主義ではなく、実力と経験、そして何より「英語で渡り合えるタフさ」があれば、門戸はどこまでも開かれていた時代だった。


「商社の人間がジーンズで仕事なんて、当時は眉をひそめられたもんですよ。会社の先輩連中からは『日本の恥を晒すな』なんて怒鳴られたこともありました。でもね、私はあえてこれを履いてアメリカのバイヤーと交渉したんだ。彼らと同じ『労働者の服』を履いていることで、どこか対等になれる気がしてね」


山城は、懐かしそうに目を細めて続けた。


「案の定、商談の席で向こうがこれに気づくと、一気に話が盛り上がってね。『おい、お前が履いているのはリーバイスじゃないか。しかも……待て、そのペンキステッチ、まさか大戦モデルか!?』と驚かれて。当時、アメリカでも状態の良い大戦モデルは貴重になり始めていたし、何より日本人がそれを履きこなしているのが彼らには衝撃だったようです。あの一本のおかげで、どれほど多くの分厚い壁を突破できたか分かりませんよ。私にとっては、どんな高級なスーツよりも信頼できる勝負服でした」


 山城は懐かしそうに、自分の皺の寄った手をジーンズに置いた。




2. 復興の足跡

 染屋がそのコインポケットの摩耗跡に触れた瞬間、工房の壁が消失した。

 鼓膜を揺らすのは、焼け跡から立ち上がる槌音と、行き交う人々の喧騒。

 視界を焼くのは、現在の東京からは想像もつかないほどに高く、青い空だ。

 染屋の意識は、若き日の老人の記憶へと引きずり込まれた。

 場所は、1940年代後半の横浜港。

 そこには、支給されたばかりのこのジーンズを履き、米軍のジープの助手席に座る若き日の「彼」がいた。

 彼は通訳として、米兵と日本人労働者の間を奔走していた。ポケットには常にメモ帳と鉛筆が突っ込まれ、何度も何度も出し入れされる。コインポケットの縁が激しく摩耗しているのは、彼が言葉の壁を乗り越えるために、必死にメモを抜き差しし続けた「戦い」の痕跡だった。

(……ああ、これは『彼』の誇りそのものだ)

 右綾の大戦モデル特有の、ゴワゴワとした硬い生地。それが汗と埃にまみれ、次第に彼の足の形に馴染んでいく。

 ビジョンの中、彼はこのジーンズを履いて、焼け野原に立ち上がるバラックの間を歩き、新しい法律を伝え、配給の列を整理していた。

 それは、国が生まれ変わろうとする瞬間の、泥臭くも力強い希望の記憶だった。

 だが、ビジョンは静かに変遷する。

 復興が進み、ビルが立ち並ぶようになっても、彼はこのジーンズを捨てなかった。

 定年を迎え、妻に先立たれ、独り身になっても、彼は朝起きると当たり前のようにこの大戦モデルに足を通した。

 擦り切れた膝は、彼が自宅の庭で土をいじり、新しい花を植えるたびに地面と擦れた跡。

 何度も何度も洗濯され、色は薄汚れ、生地は痩せ細った。しかし、その奥底には、戦後を生き抜き、この国を支えてきたという、静かな、しかし揺るぎない自負がインディゴの粒子と共に沈着していた。


「……っ!」


 染屋の脳裏に、老人の歩んできた数十年分の「重み」が流れ込んでくる。

 かつて進駐軍から受け取った時の、少しの戸惑い。

 それを履いて激動の時代を駆け抜けた時の、漲るような緊張感。

 そして今、古びた工房で、それを愛おしそうに見つめる老人の温かな眼差し。

 すべてはこの一本の布が受け止めてきた。それは、彼がこの時代を確かに「生きた」という、何よりも雄弁な証拠だった。




3. 歴史の継承

「……お客さん」

 染屋は現実に戻り、目の前の老紳士を見つめた。

 老人は、かつての戦友のようなジーンズを、恐る恐る眺めている。


「これは、ただの補修じゃ済みませんよ」


 染屋は、自分自身の指先に残る歴史の熱量を噛み締めるように言った。


「……お客さん。あなたが世界を相手に戦ってきた証、しっかり受け取りました。これは、あなたの『戦友』をもう一度戦場に立たせるための儀式だ。少し時間をください」


 山城は「頼みます」と短く応え、期待を込めた眼差しを一度だけデニムに向けて店を去った。

 それから一週間近く、染屋は工房に籠もり切りになった。

 染屋は工房の棚から、あえて現代の均一な糸ではなく、少しムラのある強靭な綿糸を取り出した。

 大戦モデルの粗野な質感に合わせるように、しかし、これからの老人の余生を支えるに足る強度を持たせるために。

 染屋はユニオンスペシャルのミシンと手縫いでの補修を始めた。

 メモ帳を出し入れし続けたコインポケットには、あえて同じ大戦期のデッドストックの端切れを裏から当て、当時の荒々しいステッチを再現するように針を通す。

 膝の擦り切れには、彼が庭仕事で膝をつく時間を少しでも楽にするよう、柔らかな補強を。

 一針、一針。

 染屋は、ビジョンで見た老人の人生を敬うように針を通した。

 

──数日後。再会の日。

 

 カウンターに置かれた「再生」した大戦モデルに、山城が震える手で触れた。


「……ジーンズってのは、不思議なもんだな……」


 補修が完了した大戦モデルの、蘇った生地の感触を確かめながら、山城がポツリと漏らした。


「どんなにボロボロになっても、捨てられなくてね。こいつを履いていると、あの頃の横浜の風や、一緒に働いた米兵の笑い声を、今でも思い出すんだよ」

「それは、このジーンズがあなたの人生を一番近くで見てきたからです」




4. 鉄紺の遺産

 仕上がった大戦モデルを履いた老人は、鏡の前でゆっくりと背筋を伸ばした。

 無惨な穴は塞がり、そこには「修復」という名の新しい歴史が加わった。ヴィンテージとしての風格を損なわず、それでいて実用に耐えうる姿へと蘇ったジーンズ。


「……まるで、あの頃の自分に戻ったようだ。ありがとう、店主。これでまた、散歩に行ける」


 老人は、少しだけ誇らしげに、静かに店を後にした。

 その足取りは、小田急線の線路沿いの風景に、深く、しっかりと馴染んでいた。

 染屋は、老人が去った後のカウンターに、わずかに残る古い紙のような匂いを感じた。

 大戦モデルという、国家間の紛争から生まれた産物が、一人の男の人生をこれほどまでに温かく彩ってきた。

 それは、作り手である染屋にとって、どんな流行よりも尊い「デニムの真実」に思えた。

 染屋は自分の指先に残る、戦後の風の感触を反芻する。

 次は、どんな記憶がこの工房を訪れるのだろうか。

 鉄紺の深淵は、今日も静かに、誰かの人生を吸い込み続けている。

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